第2章

学校を卒業し、東京へ就職の私はこのVWを愛知の実家に残し2年強の間、VWにはライセンスプレートが無い登録無し状態でした。
しかしこの2年の間にエンジンだけは4〜5回かけましたがいつも1発でかかり『叉、いつかは』と思っていたのも事実です。

祖父の他界もあり、実家の仕事を手伝う為に東京から戻りました。当時、ホンダ アコードにするかこの14年経過したナンバー無しの毎年車検のオンボロを復活させるか本当に悩みましたが、『おかん』が雑誌を持って来て『Cal Lookってかっこいいね!』の一言が私のVWの歴史の起承転結の『承』のようなものでした。
早速車検をとり、新しいライセンスプレートを付けたVWは週末に雑誌広告をたよりに100km離れた浜松のFLAT 4にそれから毎週『おかん』と行く事になるのでした。当時『おかん』は輸入車のディーラーに勤めており、友人と2台分のショックを電車で持って納品してもらいました。(ありがたや!)
当時はまだVWの改造のノウハウも無いショップがほとんどで私が依頼をかけたFLAT 4も例外では無く、いきなり1835ccにボアアップされたVWは走るにゃ走るがオイルは漏れるはオーバーヒートはするは燃費は悪いはさんざんでしたが、そこは車を全然知らない若者ですから排気量が1300ccから1835ccに増えた分のパワーアップと内装、外装のレストアにそれなりの満足をしておりました。
多分改造前は公称で40Hpのエンジン(多分12万キロ走っていたので36Hp?)が40%の排気量のアップ(違法です!)で60Hp以上になったと思います。
そのうち、VW関連でSCATという処があると情報入手し、同じ浜松のSCATに出入りするようになる。その店は民家+農家の納屋を使用しており、見た目では???でしたが、
当時の改造の方法のデタラメさを詳しく説明されると車を知らない私でも(一応。機械工学科卒業)納得出来、再びSCAT(Volkes Autos)でエンジン分解したのです。
改造後のエンジンにはウエーバーの40-IDFというばかでかいキャブレターが左右に付きベンチでの実測値は125Hpある化け物に変身しましたが、オリジナルの40Hpから3倍以上の出力のエンジンが乗ればそりゃ雨の日は恐くて恐くてRRの特性(オーバーステア)にでかい出力で振り回されました。下の写真をクリックするともっと大きなエンジンの写真が見れますよ!


色々な事がありました。
スロットルワイア−が山で切れ、アイドリングを1500RPMまで上げて下山とか、
通勤途中でクラッチワイア−が切れて同様にアイドリング上げて1stギアで遅刻しながらゆっくりと会社へなんて事もありました。
ヒーターワイア−もそう言えば切れて冬場は常にヒーターが効いたままの状態を強制的に保ちましたなどなど。ほとんどのワイア−は切れてしまいました。
ちなみにその後、そのエンジンを単体で売り、買った人間はそれを乗せて2週間で雨の日にクラッシュし車はスクラップだったと聞きました。
100km離れたショップですので日常のメンテナンスは全て自分でやる事になり週末はデートでなく本を片手に整備が日課となりました
。その頃からHOT VW,VW TREND誌は定期購読していました。
下の3冊は今でも手許に残っているマニュアルです。


手製で木を加工してメーター回りのインテリアを作り、人にも作って売った記憶もあります。(あまり器用な方でもないのですが。)インテリア部品も無かった時代ですし。
しかしこのエンジンを乗せたVWは400mを15秒前半で走り、当時のそこらのDOHCのスポーツカーよりよほど早く走れたものです。
ただし4thまでのギヤボックスなので400m以後は米車に抜かれました。
(特に6Vのギヤ比はこのシグナルレースには有利でした。)
細かいトラブルは有りましたが、大きなトラブルは無く、その『ケツを蹴飛ばされる』様な凶暴な加速感は一種麻薬的な快感がありましたが、結婚を期に終わりを迎えました。
(今でも良い選択だったと思っております。

第3章に続く

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