キャンプ・ボニファスの売店で売っていた本です。『2003年8月30日第4版9刷』となっていましたが、一番新しそうな情報で1991年なので、10年以上前に作ったと思われます。値段は11,000ウォンです。 | ソウルの小公洞ロッテホテルの2階にあるPanmunjom Co-Op Centerで売っていたツアーのガイドブック。値段は3,000ウォンです。 | 板門店の観光中に集合写真を撮られました。板門店の解説兼写真台帳になっている本です。値段は24,000ウォンです。 |
このページは、板門店(Panmunjom)についての基礎知識を書いています。情報は主に、2003年9月5日行った板門店ツアーで購入した上の3冊の本をもとにしています。
板門店は大韓民国と北朝鮮の間の非武装地帯にある唯一の対話の場所です。ここは、大韓民国と北朝鮮の双方の行政管轄権の圏外にある特殊地域です。
ソウルから北へ約40km、1時間半ほどで到着します。下の地図は現在の板門店の地図です。赤が北朝鮮の管理する建物で、青が国連の管理する建物です。点線は北と南の軍事境界線になります。矢印は観光用の国連バスが通る経路です。T2が軍事停戦委員会が開かれる会議場の様です。自由の家(Freedom House)はガイドブックには民間会議用と書いてありました。中は大きな吹き抜けで、ほとんど部屋はないみたいです。国連バスに乗り降りする際に襲われないように保護してるようにも感じます。平和の家(Peace House)は記者会見用らしいです。帰らざる橋(Bridge of no Retun)は終戦後の捕虜交換などが行われた場所です。
観光の際の国連バスはキャンプ・ボニファスを出発し、自由の家の前で停まります。観光客はバスを降りて、自由の家の中を通ってT2の中と、自由の家の右の翼にある展望台を見学します。その後、バスに乗ってUNCP3まで移動し、ここで降りて見学をします。最後にUNCP4を通過し(ここは降りない)キャンプ・ボニファスに戻ります。
板門店の観光には服装規定があります。以下の服装は禁止です。
また、キャンプ・ボニファスでの昼食で飲酒もできるのですが、観光ガイドから飲んではいけない(酔っていたら板門店に行かせない)と言われました。バスを降りるて見学する際は、持って行けるのは財布やパスポートなどのみで、カバンや(雨が降っていても)傘などを持ってはいけないと言われました。さらに、会議場見学の際の移動は2列に並んで歩いて、けして走ってはいけないと言われました。
軍事停戦委員会(MAC)は休戦協定をまもるために4つの会議を開く事になっています。第1級会議は、休戦協定を一日しく違反した場合に開催し、5名づつのメンバーで参加します。第2級会議は、やや軽い休戦協定違反に対する「秘書会議」です。第3級会議は「共同当直将校会議」で、日曜祭日を除く毎日正午に行われ、軍事停戦委員会に重大な影響を及ぼす恐れのある行政情報の交換が行われます。第4級会議「警備将校会議」は、監視兵間の緊張を和らげる必要がある場合、一方の要求でいつでも開催されます。
非武装地帯(DMZ)は、停戦協定で作られた区域です。戦線に従って軍事境界線(MLD)が設定され、南と北に2kmずつ(幅4km)が武装なし軍事行為や敵対行為なしの緩衝地帯、いわゆる非武装地帯とされています。非武装地帯の中で板門店のあたりを南北対話の場所として共同警備区域(JSA)としています。共同警備区域以外は無人となっており、非武装地帯は、すべての動植物が自然のままで保全されている地域でもあります。
非武装地帯の外の韓国側、板門店の入り口に設置された国連軍指令部支援隊で、共同区警備域のための駐屯基地です。観光客はここで説明を受けて、国連のバスで板門店の観光をします。
共同警備区域には、対話の場所以外に、2つの村があります。
韓国側の大成洞の自由の村は、戦争前からここに住んでいる数百名の村民が米や高麗人参や唐辛子などの農業を営みながら暮らしています。この大成洞の自由の村は韓国内で唯一納税と徴兵を免除されており、また韓国の一般的な農家の数倍の農地を持つため裕福だそうです。しかし、日暮れまでに家に戻り、毎夜戸締りを確認するなど不自由な生活でもあります。夜間に北朝鮮からの宣伝マイクの騒音もあるそうです。この村の国旗掲揚台は高さ100mほどで、韓国の国旗が掲揚されています。100国連軍司令部はこの村の警備も行っています。
北朝鮮側にある村が気静洞村で、ここは宣伝村と呼ばれています。外見上はりっぱな建物が建っていますが、煙が上がったり洗濯物が干されたりする事はなく、偵察兵を除き、人は住んでいないと思われます。ここには世界一の高さらしい、高さ160mの国旗掲揚台があります。掲揚されている北朝鮮の国旗は幅30mです。
非武装地帯一帯には、北朝鮮軍が掘削した地下トンネルが無数にあります。北朝鮮側から掘られているトンネルが全部で4本発見されています。非武装地帯には17個のトンネルがあるものと推定され、これらは皆1972年に着手したものと思われます。第三トンネルは1時間に3万の兵力が移動し、ソウルを攻撃できます。
発見日時 | 位置 | 規模 | 深さ | 全長 | 浸透長 | |
第一トンネル | 1974.11.15 | 高浪浦の東北8km | 高さ1.2m、幅90cm | 地下45m | 1950m | 1000m |
第二トンネル | 1975.3.19 | 湿原の北方13km | 高さ2m、幅2m | 地下50〜160m | 2496m | 1100m |
第三トンネル | 1978.10.17 | 板門店の南方4km | 高さ19.5m、幅2.1m | 地下75m | 1635m | 435m |
第四トンネル | 1990.3.3 | 楊口の東北26km | 高さ1.7m、幅1.7m | 地下145m | 2052m | 1028m |
1943年11月、連合軍(英・中・米)は1945年11月のカイロ宣言で、韓国を日本から解放後「適当な時期に」独立させるとしました。米国の計画では解放後の韓国を35年ぐらい連合軍の信託統治下に置くことを望んでいました。
1945年8月15日、終戦で日本が引き上げた後、アメリカ軍は南に、ソ連は北に、38度線を境界線に信託統治を開始しました。
1948年8月15日、南で大韓民国が誕生、北では1948年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が誕生しました。
韓国駐留アメリカ軍は、1949年に韓国を撤収しました。当時の韓国軍は500人のアメリカ軍事顧問の下に9万6000の国防軍でした。対して、ソ連軍は撤収に当たり、北朝鮮軍にジェット機200機、重戦車500台、軍事顧問2500名を残し、1950年6月には兵力20万に達しました。
1950年1月12日、米国の国務長官D・G・アチソンは「アリューシャン列島から日本を経て、フィリピンに至る米国の防衛線から韓国は除かれている」と明らかにしました。
1950年6月25日、北朝鮮軍は砲門を開き、戦争を開始しました。北朝鮮軍は4日後にはソウルを陥落させました。
トルーマン米大統領は駐日米軍を韓国に急派しましたが、阻止できず、朝鮮半島の東南端、洛東江の東部釜山地域まで追い詰められました
トルーマン米大統領は、国連の会員国に呼びかけ、協力して韓国を救うよう要請しました。国連の安全保障理事会も北朝鮮軍を侵略者と規定し、会員国に韓国へ軍隊並びにその他の援助を提供するよう決議しました。そして米国・英国・オーストラリア・カナダ・オランダ・ニュージーランド・フランス・トルコ・フィリピン・タイ・ギリシア・南アフリカ共和国・エチオピア・コロンビア・ベルギー・ルクセンブルグの16カ国からなる国連軍が組織され、マッカサー元帥が国連軍司令官に任命されました。連合軍は反撃を開始し、9月15日の仁川奇襲上陸作戦によって北朝鮮軍は退路を断たれました。9月28日ソウルを奪還した連合軍は北朝鮮軍を追撃し、38度線を越えて10月19日には平壌を陥落しました。北朝鮮軍は西は鴨緑江、東は清津まで追い詰められました。
10月中旬、中国が参戦しました。国連軍は北朝鮮を撤退し、1951年1月4日にはソウルは再び陥ちました。その後連合軍の反撃で3月には中共軍は38度線以北に逃げ帰り、戦況は膠着状態に入りました。
北朝鮮側はソ連を介して停戦を提議し、1951年夏、両側代表が会談を始めました。1953年スターリンが死亡しました。1953年7月27日に両者は休戦協定に署名しました。
1976年8月18日、国連軍が第3哨舎(現在のUNCP4)近くのポプラの枝を選定していました。北朝鮮軍がこの作業の中止を要求してきましたが、国連軍は作業を続行しました。北朝鮮軍は重ねて作業の中止を要求しましたが、作業は進行されました。北朝鮮軍はは国連軍に対して攻撃を開始しました。この事件で国連軍は2人が死亡し、国連軍4人と韓国軍4人が重傷を負いました。北朝鮮側の被害は明らかにされていません。
8月21日、国連軍は、北朝鮮に作業の続行を通告し、戦闘体制でポプラの木を切り倒しました。
8月19日から9月6日まで、北朝鮮と国連軍の間で何度か会議が開かれ、北朝鮮側の提案で共同区警備域内でも軍事境界線で両者の人員を隔離する事が決定されました。そして9月16日までに、軍事境界線の標識(10mおきの10cm×10cmコ×1mコンクリート柱と、軍事停戦委員会会議場の建物間の高さ10cmのコンクリート境界)の設置と、立ち退きが完了しました。北朝鮮は帰らざる橋を利用できなくなったため、新たに橋を架けました。この橋は72時間かかったので、72時間橋と呼ばれています。
1984年11月23日、板門店を観光中の観光案内員のソ連人大学生が軍事境界線を越えて南側に亡命する事件が発生しました。この亡命者を追って北朝鮮軍が軍事境界線を越えて侵入をしてきたため、国連軍も応戦し、戦闘になりました。この戦闘で、韓国軍は1名の死者を出し、北朝鮮軍は3名の死者を出しました。