2003年10月31日(金)。 特に理由はなく年休を取っていて、折角だから横須賀市の博物館に行ってみました。 場所は、京急の線路の真上(トンネルの上)にあたりますが、横須賀中央から坂を上って、少し住宅街に入り込んだ中にあります。 木々の手入れは雑で、少し荒れた印象を受けました。 予算はそれほどないのかもしれません。 庭にはいくつかの彫刻と、 それから横須賀の発展の基になった小栗忠順(1827〜68)と栗本鋤雲(1822〜98)の像がありました。
二人の功績で特筆すべきは横須賀製鉄所の建設である。 多難な幕末期に一大英断を持って画策した小栗忠順を、盟友栗本鋤雲が砕身の努力をもってこれを助け、この事業を成功させた。 一寒漁村であった横須賀が製鉄所の創設によって開港の端緒が作られ、現横須賀の市勢発展の礎が築かれたもので、 ともにその恩人として仰がれるゆえんである。 |
博物館は主に横須賀の自然と歴史の博物館です。
内容的にはよくある博物館です。
予算はなさそうで、常設展示の入れ替えがほとんどされていないようですが、毎月特別展示をしてるようです。
常設展示の中で、なぜか発光生物の展示に力が入っていました。
発光生物は、海にいるものが多いそうです。
光る深海魚とかイカは有名ですね。
発光の仕組みとかかいせつしていました。
自力で発光するだけでなく、発光バクテリアによりはっこうする物もいます。
発光バクテリアは海の雑菌で60種類ほど知られています。
大きさは数ミクロンぐらいなので肉眼では見えません。
死んだイカや魚に付き、増えると光ってみえます。
昆虫やエビが感染して光る事もあり、魚やイカの発光器内で増殖し共生する種類もいるとの事です。
海の比較して、淡水の発光生物はほとんどいませんが、ニュージーランドにラチアという貝がいます。
千葉県佐原や長野県諏訪湖で発光バクテリアにより発光するホタルエビが出現した事があるそうです。
陸の発光生物は菌類(キノコ)、蛍、ミミズやムカデやヤスデやカタツムリの一部にいます。
なかでも蛍が最も多く200種類ほど知られています。
岩石の一部にも生物発光と似て光るものがあり、化学発光と燐光と蛍光があります。
生物発光は生体内で起こる化学変化による発光です、化学発光の一種です。
燐光は光が当たるとその光が消えた後まで光を出す現象で、蛍光は光や紫外線が当たっている間だけ、
それより長い波長の光を出す現象です。
他の階に海で取れたものの標本がありました。
写真は1968年8月22日朝に三浦半島南端の浦賀水道に面した毘沙門沖で取れたサケガシラです。
全長272cm体高47cmで、深海魚ですが、産卵のために浅海に来て網に引っかかったらしいです。
他にも巨大なイカなどの標本が置いてありました。
この標本が置いてある場所は、2階から3階に上がる階段の途中ですが、3階には行けないようにロープが張ってありました。
つまり行き止まりの展示場です。
ちょっと建物の構造にもんだいあるんでないかなぁ。
特別展示でペリー来航150年を記念して、『近代日本外交の始まり』というのをやっていました。 ペリーが来日し、そしてアメリカへの使節団が派遣された事に関する展示です。 ペリーが来日に関しては、浦賀や久里浜の記録、伝聞でアメリカに伝えられアメリカで書かれた絵画、 ペリーがもたらした物品などが展示されていました。
横須賀発展は浦賀にはじまります。
戦国時代の後北条氏が房総半島の里見氏を監視するために東浦賀に浦が上を築きました。
北条氏は水軍を維持するために武士の他に船大工や櫓屋や鍛冶屋などの職人を住まわせました。
その後、徳川家康によって東日本唯一の貿易港となりウィリアムアダムス(三浦按針)らが活躍しました。
鎖国制度がしかれると国内向けの商業港になりました。
西浦賀には享保5年(1720)年に奉行所が設置され、江戸へ向かう積荷と乗組員の検査を行う船番所が置かれました。
こうした状況から西浦賀には廻船問屋が軒を並べ、特に塩の取り扱いは全国でも有数のものでした。
ペリーが来航すると浦賀沖に停泊し、アメリカ大統領の手紙を将軍に渡ししました。
150年前、1853年7月14日(嘉永6年6月9日)久里浜の海岸に建てられた応接所で日本とアメリカの交渉が行われ、
翌年日米和親条約が結ばれました。
さらに1858年に日米修好通商条約が結ばれ、それに基づき日本からの使節団の派遣がお粉増した。
これが1860年(万延元年)の遣米使節団です。
遣米使節団はアメリカが用意したポーハタン号に乗船しましたが、使節警護と訓練のために咸臨丸が派遣され、
日本人による太平洋横断をなしとげました。
行きの航海はアメリカのブルック大尉の指導と協力を元に行われ、帰りは日本人だけにより横断しています。
横須賀市博物館には国指定重要有形民俗文化財である三浦半島漁撈用具コレクションがあります。 普段は倉庫の扉が閉じているようですが、この日たまたま年に一度の収蔵庫公開の日でした。 収蔵庫は床の高い、蔵といった感じの建物でした。 中に物が詰まってるのかと思ったら、けっこうスカスカで、楽に歩いて回れました。
この建物は重要有形民俗文化財「三浦半島の漁撈用具」を収蔵するため、 関係各位の指導を受けて高床式鉄筋コンクリート造、平屋建一棟を建設したもので工事概要は次の通りである。 | |
建築面積 | 294平方メートル |
建築床面積 | 441平方メートル |
軒高 | 6.9メートル |
床高 | 1.3メートル |
基礎 | 鉄筋コンクリート造独立基礎 |
躯体 | 鉄筋コンクリート造 |
外壁 | 鉄筋コンクリート打放しマスチック塗り |
内壁 | 鉄筋コンクリート打放し「アクリル系」リシン吹付 |
屋根 | 鉄筋コンクリート打、銅板葺 |
設備 | 走行ホイスト一基、投光器14台、火災報知器、消火栓 |
建設費 | 55,000,000円 |
建設年度 | 昭和49年、50年度 |
設計 | 横須賀市建設部 |
内部は2階建てで、1回には木造漁船が置いてありました。
だいたい昭和40年前後ぐらいの物らしいです。
木造船は耐久年数が10年から15年ぐらいで、強化プラスチック製の船が増えて木造船がなくなってきた事もあり、
造船技術の記録を残すためもあり、保管するようになったようです。
2階には網や針やかごなど、様々な漁業の道具は保管されています。
目に付くのは大きなかご(魚を入れとく生け簀らしい)ですが、棚には網がいっぱい置いてあり、
引き出しの中には針などの小物が置いてあります。それぞれのものには札が付いていて、
どこの誰が使っていたものかが書いてありました。
網の浮きには木が使われていました。
博物館の裏手には、妙な形のオブジェクトがシンボルになっている中央公演があります。 (我が子はこのオブジェを「か」と呼んでいます) 坂がきついのですが、上からはいい景色が見れます。
横須賀市博物館(http://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/)
Presented by Ishida So |