また、ある朝、4月の桜の時期であったと思う。私は自転車に乗って桜の花を見に行っ
た。そこは公園であるが、一本の川に沿って、その両側に桜並木がえんえんと続く、とて
も長い、大きな公園がある。この公園は都心にあるのにとても大きく、木が沢山あり、人
も少なく、自然をゆったり感じさせ、のんびりしている。
この公園のあまり人目を引かない、木陰のような所に、ひっそりと陣取って、桜の花を
しげしげとながめている、あやしげな人物がいた。まさに、腰折り尊者、彼である。いつ
も下に向けている頭を、この時は上に向かしている。時が止まったようにじっとしている。
動かず桜に見入っている。
彼は駅の近くで寝たあと、駅からかなりの距離を歩いてこの公園まで来るのをいつもの
日課にしているようだ。そして、木や花を長時間見て過ごす。しかし、桜の花の咲く時期
はこの公園が最も華やいだ、豪華絢爛たる時期で、彼にとって、最も感動する時なのだろ
う。桜が風にゆられてさわさわ揺らぐピンクの群れは、彼の心にどのように入り込むのだ
ろう。
彼の桜を見る感動は、我々がそれを見るのとはずいぶん違ったものだろう。冬の寒い、
凍てつく中で過ごし、季節の辛い時期を全身を持って感じた感覚で、この春の暖かい日だ
まりの中、桜の花を見る。現代の暖房の暑いぐらいの部屋の中で、ぬくぬくと冬を過ごし
た人間にはとても感じる事の出来ない感動を彼は持っているに違いない。
彼は人間の歴史のずっとずっと昔、今の人間が忘れ去った、人間存在のプリミティブな
生命存続の最も基本的な世界を維持、継続している数少ない人物といえる。