酷寒紀行 (1)
 寒いのは、それほど苦にならない。温暖な首都圏で育ったため、本当の寒さを知らずに
いたのかもしれない。いつからか、最も寒いときに、最も寒い所へ行きたいと思うようにな
った。贅沢な、都会者のエゴに似た願いだったかもしれない。
 冬に雪国へ旅をする。例えば、福島・新潟県境の通称「六十里越」。道路は積雪のため
冬の間、通行止めになる。道路に沿うように走るJR只見線は、この県境の区間を走行す
る列車が1日3往復程度しかなかった。通行量が少ないとはいえ、4ヶ月近くの間不通と
なるほどに積雪は凄いのか。只見線に乗って、自分の目で確かめた。想像以上だった。
除雪をしないのだから当然であるが、道路位置を示す「↓」の標識(?)すれすれまでに
雪は積もっていた。しかし、想像と違うことがもう一つ。あまり寒くない。
 例えば、青森県西部。夏に行けば心地よい風が迎えてくれるはずの西津軽の海辺や、
津軽半島の突端、龍飛崎にも、冬に訪れた。酔狂な旅人であった。それもこれも酷寒を
体験するためであったが、その寒さも想像していたほどの厳しさはなかった。もちろん、海
から吹く猛烈な風は、山間部の深々とした冷え込みとはまた異なる厳しさがあった。しかし
とても贅沢で、とても奇特な旅人は、声も出ないほどの張り詰めた寒さを望んだ。
 
 愚かな筆者は、降雪量(積雪量)こそ寒さのバロメーターだと思っていた。その間違いに
気づいたのが、ある年の2月に訪れた、念願の“真冬の北海道”だった。この旅は、今でも
真っ先に思い出す印象的な旅である。
 上野からの夜行列車を苫小牧で降りて太平洋沿いを走る日高本線に乗り、バスを乗り継
いで襟裳岬、広尾を経由して帯広を目指した。この日は晴天で、雪が眩しかった。広尾から
のバスの車中で日の入りとなったが、夕日に照らされた雪の美しさが記憶に残っている。
同時に感じたのは今まで見た冬の風景の中で最も“寒そうな風景”だったことだ。そして、
それは本当に、生涯最高に寒かったのであった。18時過ぎに着いた帯広で、念願の厳し
い寒さを知った。酷寒を体験するために持参した温度計は、マイナス8度を示した。だが、
それ以上に感じる、脳天にキーンと響く寒さ。暖かいバスの中から降りた直後だから、尚更
だろう。食事を取った寿司屋の店員に聞くと「これが普通の寒さ」という答えが返ってきた。
 
 翌朝、自分の甘さを知った。6時、氷点下17.5度。手袋もしている、毛糸の帽子も被って
いる。それでも、じっとしていると凍るのではないか、という気になった。鼻の中に違和感が
あった。凍っていた。鼻をつまむと、パリパリと氷の解けるような音がして、思わず一人で笑
ってしまった。すると、頬が引きつって痛んだ。これこそ、数年来望んでいた寒さである。
池田は氷点下20度であった。除雪されたホームで吐いたツバは、見る見るうちに氷になっ
た。列車を乗り換え、日本有数の酷寒の地、陸別を目指す。その日は土曜日で、列車には
通学の高校生も乗っていたが、さすがに「寒い」と口にするものの、その騒ぎっぷりは元気
そのものであった。車窓は単調であったが、真っ青に晴れた空の下の雪が、前日以上に
眩しさを感じた。これほど雪が眩しいものだとは。そして、晴れ渡った日ほど寒さは増すこと
を身をもって知ったのである。もう一つ知った、教科書学習より体験学習が大事だ、と。
 本別、氷点下20度。足寄、氷点下17度。陸別、氷点下14.5度。太陽の上昇とともに
気温も上昇していったが、14度と20度ならその違いははっきりわかる。しかし、氷点下の
14度と20度にそれほど体感温度の違いを感じなかったのはなぜであろうか?単に鈍感
だっただけなのか・・・
 時間的に余裕のあった置戸では、街を散策した。すでに前日、北海道独特といわれる
粉雪の触感は知っていたが、踏みしめた感触もまた、キュッキュッという音がする独特な
ものだった。それにしても、日のあたる部分を選んで歩いており、風も吹いていないのに
寒さを感じるのは不思議でならなかった。シャッターを切るときに手袋を外さなければなら
ないが、とても勇気の要る行動だった。30秒くらいで指先が痛くなってきて、放っておくと
なんとも言えぬ耐え難い痛みを感じるのだ。この地で冬を越すのは容易ではないだろう。
 この旅のハイライトは、網走の流氷見学で、雲一つない晴天は非常に幸運であった。
日常でこの寒さなら苦痛であろうが、旅路での酷寒は歓迎なのである。北見、網走はとも
に氷点下6度。ここまで気温が上がると、さすがに朝よりは暖かい。しかし、網走港から乗っ
た流氷砕氷船では再び氷点下18度まで下がった。出航時にデッキにあった人だかりも、
時間の経過とともに消えていった。船からの流氷見学の後、日暮れにあわせて浜小清水
で再び流氷見学。氷点下12度の中、夕日に照らされた流氷をしっかりと目に焼き付けて、
酷寒の地をあとにしたのだった。


【流氷については、『美』のページに掲載しています】
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