落日・後編
第4回
『標的』
「おやっさん、一之宮の娘がミナミに現れたそうです」富田という若い組員が浅野 に報告した。 「娘がミナミに?息子はどうや、一緒なんか」浅野が聞くと組員は首を振りながら 「いえ、娘の方だけらしいです。わいも直接見たわけやないけど、ダチがミナミに 遊びに行って噂を聞いたらしいですわ」組員の話を聞きながら、いよいよ一之宮姉 弟(きょうだい)に引導を渡す時が来たと思った。 「噂を確かめて、もしほんまやったら居場所を突き止めるんや。ええか、絶対手出 ししたらあかんで。居場所を突き止めるだけやで。分かったな」浅野は組員に釘を 刺した。後1週間でブツが神戸に着く。同時に殺し屋もやって来る。居場所さえ突 き止めれば浅野が手を出す必要はないのだ。もし、失敗してサツに捕まってもプロ である以上依頼者の名前を口に出す事はない。場合によっては一之宮姉弟を始末後、 林が逮捕するなり始末するなり府警に任せれば片がつく。だが、浅野興業の屋台骨 を骨抜きにした、戦争を仕掛けた相手はまだ分かっていなかった。今回うまく一之 宮姉弟を始末できれば、今の若い組員の手柄として幹部候補にしてやろうと思って いた。とにかく後1週間、1週間辛抱すれば再び浅野興業は力を取り戻せる、浅野 はそう思っていた。
数日前にアブドールから荷物が届いていた。箱を開けて中身を見ながら、良くこん な物が有ったものだと感心し、改めてモサドの力を思い知った。その前日に野村か ら全ては順調だと連絡があった。月曜日の夜に神戸で待ち合わせる事になっていた。 「お嬢、ミナミでお嬢の事を嗅ぎまわってる男がいまっせ。気をつけてくださいよ」 と田畑から電話があった。瑞希が事務所に顔を出して話しを聞くと、先日みんなで 食事に行った噂が広まったらしく、浅野の組員と仲の良い男が嗅ぎまわっていると いう。瑞希はアイリーン、ナターシャと相談し、溝口に車を回すように連絡した。 土曜の夜、瑞希は靖夫を連れてミナミを歩いていた。千日前筋、戎橋筋、道頓堀筋 を歩いた。道頓堀筋では顔見知りになった人が声を掛けてくる。雄二のたこ焼き屋 の前に来ると、椅子に座っていた悟が小さく頷いた。瑞希も頷き返すと戎橋の前で 靖夫を帰し、携帯電話で話しながら道頓堀筋を西に向かってゆっくり歩いた。御堂 筋を渡って更に西に歩き、四橋筋に架かる深里橋を北に渡って西に曲がると人影が 少なくなった。
瑞希の後をつけていた2人の男は顔を見合わせてほくそ笑んだ。組長は居場所を突 き止めるだけだと念を押していたが、周りに人影はなく、手柄を立てるには今が絶 好のチャンスだった。2人の男が足早に近づくと女がビルの角を曲がった。2人の 男が続いて曲がるといきなり目の前に大柄な外国人女性2人が立ち塞がった。2人 の男がびっくりして立ち止まると 「うちに何か用事か」と外国人女性の後ろから女が声を掛けた。2人が一瞬怯んだ 隙に外国人の女が動いた。2人の男には組長の指示を守らなかった事を後悔する時 間はなかった。2人が気がついたのは病院だった。気がついたという言葉は当ては まらない。顎が砕け、肋骨が折れて目が潰されていた。首の頚椎が損傷していて植 物人間状態で病院に搬送された。匿名の通行人からの連絡で警察、救急車が駆けつ けた時、2人はビルの陰に倒れていた。警察からの連絡を受けて浅野は激怒したが すでに手遅れだった。林警部に聞いても犯人の目星は付いていないと言った。 一之宮の娘の噂を聞いて連絡して来た友達というのも、富田と一緒に病院に搬送さ れていた。
*
月曜日の夜10時。瑞希、ナターシャ、アイリーンの3人は溝口の車で神戸に向か った。車にはアブドールから送られてきた荷物とジュラルミンケースが2つ、他に 大きなバッグを積んでいる。指定された旧居留地の近くで車を降り、溝口を残して 指定された場所に行くと、野村と小林、他に1人の男が待っていた。全員が作業服 と防寒着を着て工事人夫の格好をしている。瑞希たち3人も着ているものの上から 防寒着を着ると、2台の車に分乗して神戸港第三突堤に向かった。 第三突堤には小型の船が待っていて更に2人が合流した。みんなが乗り込むと船は ゆっくり走り、沖の地方寄りの作業船やクレーン船が居る防波堤に接岸し、瑞希た ち3人と野村、小林、他に1人が降りて荷物を降ろした。作業は中断しているのか 誰も居なかった。他の2人は更に沖の防波堤に向かった。瑞希たちが降りた東の端 には作業船の明かりは届いていない。降りた男が釣竿を出して釣りの準備をしてい るが、3本の竿を並べただけで形だけだ。男が用意していたガスヒーターを点ける とみんながヒーターを囲んだ。防波堤の上には小型のケーソンが数個並べられ、陸 地側から瑞希たちの姿を確認する事は出来ない。野村が時計を見て後1時間ほどで すと言った。
防波堤から見る神戸の夜景は美しかった。瑞希はこんな風景を再び見る事が出来る とは思ってもいなかった。野村と小林は無線機で誰かと連絡を取り合っている。 瑞希はこの仕事のために、工事中の防波堤を無人にする事が出来る国の力の巨大さ というものを感じていた。あと30分です。野村の声を聞いて瑞希とアイリーンが ジュラルミンケースを開けた。バッグから防寒シートを取り出して敷き、ケースか ら『ドラグノフ SVDーS 改良型』を出して銃床を組み立て、スコープを着けて 消音器をつけると10発入りのマガジンをセットした。3メートルほど離れてアイ リーンが『DAKOTA ARMS TR-76 ロングボウ 新型セミオートマチッ ク』をセットしている。 瑞希、ナターシャ、アイリーンはイヤホーンつきマイクを付けると、ナターシャが 大きなバッグを開け、アブドールから送られて来た物を用意している。全長60セ ンチくらいの筒状で後部にスクリューが付き、どう見ても魚雷にしか見えない。 こんなに小さくて携帯出来る魚雷など見た事もなく、野村と小林は驚きの顔で見つ めている。赤のラインとグリーンのラインが入った魚雷が2発とリモコン装置が入 っていた。
「来ました、あの船です」無線機に連絡が入り、双眼鏡で沖を見ていた野村が小さ く囁いた。瑞希、ナターシャ、アイリーンも双眼鏡を覗くと、沖の防波堤の端から 砂利運搬船がゆっくりと進んで来るのが見える。砂利運搬船は船首に小さな明かり を点け、操舵室の上にも小さな明かりが点いている。操舵室は明るく、窓からは4 人の姿が確認出来るがまだ射程外だ。砂利運搬船は砂利を満載にしているのか船足 が遅く、ゆっくりと近づいてくる。瑞希が双眼鏡を置いて腹ばいになり、スコープ を覗くとナターシャも瑞希に習って腹ばいになってスコープを覗いた。 双眼鏡を覗いていた野村が声を掛けた。 「船長は宮園建設と船のリース契約をしていて、何度か密入国の手引きをしている 人物です。その右の髭を生やした人物が標的です。その隣はボディガードで、右端 の西洋人は誰だか分かりません。情報では浅野興業がプロの殺し屋を雇ったらしい から、その人物かも知れません」野村の言う事を聞きながら、浅野ならやりそうな 事だと思った。
「ミズキ、あの男は」アイリーンの驚いたような声に瑞希も髭の男を凝視した。 忘れようとしても忘れられない顔だ。ガザに潜入した時、標的のボディガードをし ていた男で、追撃隊を率いてジェシカを殺した男だ。その男が何のために日本へ来 たのか。日本でテロを計画している人物なのか。アイリーンが私に殺らせてほしい と言った。瑞希が頷くとアイリーンも頷いてスコープを調整した。 瑞希はアイリーンに左の2人を、瑞希が右のボディガードと殺し屋らしい西洋人を 狙うと言った。レディ、アイリーンの声がイヤホーンから聞こえた。瑞希はボディ ガードに照準を合わせたが、船が揺れて引金を引く事が出来なかった。船との距離 は約1キロ。あれだけ揺れると着弾前にずれてしまう。 「ナターシャ、船を止めて」瑞希がマイクに喋ると、ナターシャがグリーンのライ ンの入った方の魚雷のスイッチを入れ、アンテナを引き出して海中に投げ込んだ。 モニター付きのリモコンを操作しながら砂利運搬船に向かわせた。砂利運搬船まで の距離は約1キロ。魚雷は秒速20メートルほどのスピードで進んでいる。
900、野村の声が聞こえた。沈黙した僅かな時間が流れた。800、再び野村が 言ったときナターシャが秒読みを始めた。ファイブ、フォー、スリー、ツー、ワン、 ゼロ。砂利運搬船の後部で小さな火花が見えた。操舵室で船長の慌てている様子が 分かる。700、野村が再び言った。船のスピードが落ちて揺れが収まってきた。 スピードは落ちたが惰力でゆっくり進んでいる。レディ、アイリーンの声に瑞希は 再び照準をボディガードに会わせた。レディ、アタック。瑞希の声が響くとブッ、 ブッ、ブッ、ブッ、かすかな音が4度響いた。野村の双眼鏡に額を撃ちぬかれた4 人が倒れていくのが見えた。ナターシャ、瑞希が再びナターシャに叫んだ。ナター シャは赤いラインの入った魚雷をセットして海中に落とした。魚雷は砂利運搬船を 目指して進んでいる。 「さっきのはスクリューを破壊するだけの爆発力の弱い魚雷で、今度のは船を沈め るだけの破壊力があるわよ」瑞希が野村に言うと双眼鏡を覗いたまま頷いた。
野村さん、小林が無線を受けて声を掛けた。小林は陸地の方を双眼鏡で覗いている。 野村も陸地の方を覗くと瑞希に声を掛けた。 「瑞希様、標的が埠頭にいます。ここからだと1キロ弱、十分届くでしょう。後の 始末は我々がしますから思う存分に」野村の言葉を聞いて双眼鏡で埠頭を見ると、 薄明かりの中に6人の姿が見える。その中に憎むべき浅野実の顔があった。 アイリーン、瑞希はアイリーンに声を掛け、狙撃銃を埠頭に向けた。アイリーンの 残りの弾は3発、瑞希の銃にはまだ8発残っている。アイリーンに左の3人を任せ、 瑞希は右の3人を狙うと示唆した。浅野は右から2人目に立って沖の方を見ている。 レディ、アイリーンが叫んだ。瑞希は最初に右端の男に照準を合わせた。レディ、 アタック。瑞希の声と同時に消音器の微かな音が数度響いた。
瑞希の2発目の銃弾が浅野の額を捉えたのがスコープ越しに見える。瑞希は目を見 開いたまま倒れる浅野を見ながら、父秀英の面影が頭をかすめた。3発目が驚いた 顔をしている男の額を貫通した。 「瑞希様、お見事です」野村が言った時、突然沖の方で爆発音が響いた。みんなが 沖を見ると砂利運搬船が爆発を起して燃え上がり、直ぐに沈み始めた。2発目の魚 雷が命中したのだ。野村が無線に向かって何か叫んでいる。瑞希、ナターシャ、ア イリーンの3人は狙撃銃を仕舞い、イヤホーンマイクやリモコンを片付けた。埠頭 の方を双眼鏡で見ると、数人の作業員らしい男が倒れた男たちを片付けている。 暫くすると水上消防艇らしい船が2隻、沈み始めた砂利運搬船の方に向かっている のが見えた。沖の防波堤から船が戻って来ると野村が声を掛け、みんなが船に乗り 込むと防波堤を離れた。
*
浅野は部下5人と府警の林警部、市会議員の河野と8人で神戸に向かった。 林や河野は気乗りしない顔をしていたが、浅野が強引に連れて行った。幹部が全員 殺られ今井も殺られて頼りになる組員は居なかった。市議の河野は強欲で政治献金 の無心ばかりしている割に頼りないが、林警部は多少なりとも腕力には自信を持っ ていた。11時過ぎに大阪を出た車が、神戸の摩耶埠頭に着いた時には日付が変わ っていた。埠頭への入り口で2人の部下を降ろして見張りに立たせ、6人が埠頭の 岸壁に車を乗り入れた。沖の地方寄りの防波堤では工事をしているのか、作業船や クレーン船が見える。車の中で暖を取りながら時間が来るのを待った。埠頭の入り 口で降ろした部下から、特に変わった動きは無いと連絡が入った。浅野が時計を見 ると1時を少し過ぎていた。 「そろそろ来る頃やな」浅野が車から出るとエンジンを止めて全員が車を降りた。
部下が双眼鏡で沖の方を見ている。5分が過ぎた頃、来ました、多分あれです。と 叫んだ。浅野が部下から双眼鏡を取り上げて指差した方を見ると、船首に小さな明 かりを点けた船がゆっくりしたスピードで近づいて来るのが見えた。まだかなり沖 合で、砂利を満載しているのか喫水線が低く、今にも沈みそうに見える。少しずつ 近づいているものの中々寄って来ない。浅野は煙草に火を点けると深く吸い込み、 焦るな、と自分に言い聞かせた。ブツは今目の前にある。ブツを手に入れ、一之宮 姉弟(きょうだい)を始末すれば万事が上手く行く。そう思いながら沖合の船に目を やった。船の後部が一瞬光ったように見えたが直ぐに消えた。あれは何だ、と思い ながら見ていると急に船のスピードが落ちたように見える。元々足の遅い船が砂利 を満載すれば更に遅くなる。それにしても遅すぎる。まるで止まっているように見 えて浅野は双眼鏡を覗いた。埠頭からは遥か沖合で1.5キロくらいはありそうだ。
先ほどまでの惰力で進んでいるのか動いているようにも見える。ここまで来て故障 だとは、浅野は怒鳴りたい気持ちを抑えるのに苦労した。突然浅野の耳元で風切り 音が響いた。何だ、と思って振り向こうとした浅野の額に、焼け火箸を突き刺され たような感覚が襲った瞬間、思考が切れてその場に崩れ落ちた。何が起きたのか思 いを巡らす余裕すらなかった。埠頭の岸壁に浅野実、府警の林、市会議員の河野、 浅野の部下3人が横たわっていた。 埠頭の入り口で見張っていた浅野の部下は、工事用の車輌が2台入って来るのを見 て浅野に電話を掛けたが、呼び出し音は響いているが電話には出なかった。 「兄ちゃんたち、こんな所で何してるんや。ここは一般の人は立ち入り禁止やで」 車から作業着姿の男が2人降りて組員に声を掛けた。組員が何かを言おうとする前 に消音器付きの拳銃で額を撃ち抜かれていた。直ぐに数人の作業着姿の男が車から 降り、倒れた組員を車に積むと岸壁に向かって車を走らせた。
宮園はイライラしながら部屋の中を歩き回っていた。家族には今夜は帰れないから と言って会社の社長室に閉じこもっていた。8時過ぎに出前で夕食を済ませ、浅野 と砂利運搬船の船長からの連絡を待っていた。すでに深夜の1時を25分も過ぎて いる。予定では1時に摩耶埠頭で浅野のブツと殺し屋を降ろし、出航したら連絡が 入る手筈になっている。ブツと人間1人を降ろすのに時間は掛からないはずだ。 漁船の船長からは、予定通り砂利運搬船に積み替えたと連絡は入っていて、砂利運 搬船のスピードから考えても連絡が有ってもいい頃だが、と思っていた。 1時半を過ぎ2時を過ぎても連絡はなかった。宮園はネクタイを緩めソファに横に なっても気持ちが落ち着かなかった。何か有ったに違いない。しかし一体何が・・。
摩耶埠頭には浅野と府警の林警部たちが行っている。砂利運搬船の船長は何度も密 航者を運んでいるから、異変を感じたらルートを変えて連絡してくる筈だ。だが、 浅野からも砂利運搬船の船長からも連絡はなかった。時計の針はすでに午前4時を 大きく回っていた。 翌朝、夜明けと同時に浅野興業の事務所と浅野の自宅に家宅捜索が入り、事務所か らは日本刀や木刀、短刀等が押収され、自宅からは拳銃3丁が押収された。事務所 に居た組員6名、自宅に居た3名の組員は凶器準備集合罪で全員が逮捕連行された。 同時に下部組織の桜井組、森本組にも家宅捜索が入り、同様に凶器準備集合罪で数 名の組員が逮捕された。この日をもって浅野興業は事実上壊滅した。
*
社長、秘書の大倉が血相を変えて飛び込んで来た。手には新聞が握られている。宮 園はソファでうたた寝をしていたが大倉の大声で目が覚めた。大倉から新聞を受け 取ると開いて記事を読み、テレビを点けてニュースの番組にチャンネルを合わせた。 摩耶埠頭の入り口からレポーターが喋っている。 「昨夜1時頃、神戸の摩耶埠頭で暴力団同士と思われる銃撃戦が有り、大阪に本拠 地を置く暴力団浅野興業の組長浅野実と組員5名が射殺死体で発見された模様です。 同場所には何故か大阪府警の林警部も撃たれて死亡しており、更に大阪市議の河野 議員も射殺死体で発見されたようです。兵庫県警の調べでは、功を焦った林警部が 1人で逮捕に向かったのではないかとの見解を発表しましたが、河野議員が何故居 たかは捜査中との事です。 この事件に関係あるかは不明ですが、同時刻頃宮園建設所有の砂利運搬船が摩耶埠 頭の沖合1.5五キロの地点で爆発炎上して沈没した模様です。周辺海域には多数の ビニール袋に入った麻薬が浮遊しており、麻薬の密輸入に絡んだ事件ではないかと して捜査中です。更に沈没現場付近で砂利運搬船の船長と思われる日本人男性と西 洋人らしい男性の遺体、アラブ系と見られる2人の男性の遺体が発見され、密入国 の線でも捜査中です」レポーターの話と連動してカメラが摩耶埠頭沖合の海上を映 している。
宮園はテレビを見ながら手に持った新聞が震えだした。暴力団同士の抗争とは信じ られなかった。浅野が死に、林警部が死に市会議員の河野まで死んでいる。船は埠 頭の沖合で爆発炎上して沈没とは信じられなかった。浅野のブツは陸揚げされず、 宮園が密入国させようとした人物も海上で死んでいる。一体何が何処でどうなって いるのか宮園の頭では整理出来なかった。幸い砂利運搬船は宮園建設所有だが、死 んだ船長の坂上とはリース契約を結んでいて、坂上が何をしていたかは知らなかっ たと逃げる事が出来る。密入国をさせるのに失敗した2人の事も、海上での事故と いう事で言い逃れは出来るだろうが、成功した時の報奨金600万は諦めなければ 仕方ないだろう。時刻は8時を過ぎていて社員の出社も始まっていた。大倉が煎れ てくれたコーヒーを飲みながら頭の中を整理していた。その後テレビは浅野興業に 家宅捜索が入りその模様を放映している。事務所と自宅から連行される組員をテレ ビで見ながら、宮園は浅野興業の終焉を思った。
昨年の12月半ばから僅か2ヶ月で浅野興業が終焉を迎えるとは誰が想像しただろ うか。全ては関西空港で一之宮瑞希らしい人物を青木圭三が迎えた時から始まって いた。信州の木曽福島で姿を隠し、年末から年明けにかけて浅野興業が徹底的に叩 かれ、僅か2ヶ月で終焉を迎えた。手口から考えても女である一之宮の娘、瑞希に 出来る仕業とは思えなかった。青木はかなりの人物で有る事は分かったが、それで もこんな仕事が出来るとは考えられなかった。林警部が言っていた狙撃銃や手製ロ ケット弾、挙句には手榴弾を使って徹底的に浅野興業を叩きのめした相手とは一体 何者なのか。宮園の知る限りではそういう相手は思い浮かばなかった。正月に来た 『次はお前だ』の年賀状。浅野にも来ていたと言っていたが、その浅野が殺された という事は次は宮園の番という事になる。宮園は吹き出る汗を拭きながら背筋が凍 りつく恐怖を覚えた。
*
香田荘一郎、田畑靖彦、崎田孝二らが次々と事務所に集まった。事務所ではテレビ を点けてニュースがかかっている。みんなは新聞を読みニュースの画面を見つめて いる。おやっさん、田畑が声を掛けても香田は黙ってテレビの画面を見ている。 「浅野が死んだとは信じられん。浅野が麻薬を扱っているのは知っていたがそれが 原因やないやろ。それにしても警察や議員まで抱き込んでいたとはなぁ。密入国を しようとしていた者がどういう人間か知らんが、アラブ系と西洋人という組み合わ せも分からんわ。どっちにしてもこれで浅野興業は終わりやろ。ヤクザの末路とは 哀れなもんやな」香田が新聞を見ながら呟いた。それでも若い組員は浅野興業が潰 れた事で喜んでいる。 田畑はもしかして、と思ったが自分の思いを打ち消した。2日前に2人が病院に送 られた事件は靖夫の話でお嬢の仕事だと知った。今までも今井を殺った事や組事務 所の狙撃の話は聞いているが、今回の神戸の仕事は今までと桁が違う。組長の浅野 を殺り、大阪府警の警部、さらには市会議員の河野、おまけに船まで沈めて密入国 を図った3人が死んでいる。
いくらお嬢でもこんな仕事は出来ないだろう。外国人の友達が2人居ても無理だろ うと思っていた。夕方、溝口が事務所に顔を出すとみんなの目が溝口に集中した。 溝口が瑞希の運転手をしているからだ。溝口が夕べは早く帰って飲んでいたと言う と、みんなは期待を裏切られたみたいでがっかりしている。溝口は口から出掛かっ ていた言葉を必死で堪えた。昨夜遅く3人を神戸まで送り、3時間後に戻って来た 3人を大阪まで乗せて戻ったが、車中では一言も喋らなかった。溝口も言葉を掛け るのを躊躇するほど、神経が張り詰めたピリピリした空気を感じていた。 「雄ちゃん、新聞読んだ?」雄二が4時にシャッターを開けると真っ先に悟が飛ん で来た。 「あぁ、読んだで。浅野が殺られたらしいな。それにしても麻薬に密入国の手引き と、浅野は暴力団のやる事は何にでも手を出してたんやな。浅野が死んで幹部もみ んな死んでいるし、残った組員もパクられて浅野興業は終わりやな。これで香田が 力を取り戻すやろうし、ミナミも少しは穏やかになりそうやな」雄二が悟に笑いか けると悟も嬉しそうに笑っている。
「雄ちゃん、一之宮のお嬢さんの仕業やろか」 「それはないやろ。土曜日の2人は姉さん達の仕事やけど、昨夜の仕事は有る程度 の組織力がないと無理やで。しかし、浅野の連中が殺られ出したんは12月に入っ てからやろ。僅か2ヶ月ほどで浅野興業を下部組織共々潰すとは並みの組織じゃな いやろ」雄二は鉄板に生地を流しながら悟に言った。悟も雄二の言う事を聞きなが ら、2ヶ月で暴力団を潰してしまうとは警察でも出来ないだろうと思った。 その日を境に関西の暴力団はいうに及ばず、関東、中部、九州の暴力団も勢力を誇 示するのを止め、対立する暴力団との小競り合いもなくなった。
*
宮園はここ数日、家には帰らず会社で寝泊りしていた。着替えは大倉が家まで取り に行っていたが家族が不審がっていると言った。宮園は社長室の窓にはブラインド を下ろし、外からは見えないようにしていたが、何時までも会社に閉じこもってい るわけにもいかなかった。しかし、林警部に聞いた狙撃銃の話や手榴弾の話を思い 出し、中々会社を出る勇気がなかった。それでも1週間が過ぎるとさすがに疲労が 蓄積してきて思いきって車で自宅に向かった。暴走族集団も現れず安堵の思いで自 宅の門を潜ったが、妻の昌枝は不機嫌な顔をしていて娘の姿もなかった。 「麻里絵はどうしたんや」宮園が聞くとスキーに行っていると言った。雅人は相変 わらず遊びまわって午前様が続いていると怒っている。妻の愚痴を聞き流し、久し ぶりに風呂に浸かり、ゆっくり手足を伸ばすと1週間分の疲れが襲ってきた。自宅 の布団でゆっくり目覚めた宮園は大倉に電話して2、3日休むからと伝えた。その 日は一歩も家から出る事はなかった。2日間休んで3日目に出社したが何も変わっ た事は起こらなかった。
1週間後、大手ゼネコンの接待で遅くなった宮園は、料亭を出ると大倉が運転する 車に乗り込んだ。宮園はいささか酔っていて眠くなって来たが、家に着けば大倉が 起してくれるだろうと車の中で眠ってしまった。暫くして目を覚ますと両横に外国 人の女が座っていた。宮園はびっくりして大倉に声を掛けると、助手席に座ってい た女が振り向いた。 「宮園さん、久しぶりだね〜。うちの顔を忘れてないだろうねぇ」女が笑いながら 宮園の顔を覗き込んだ。 「お、お、お前は誰や、お前なんか知らんぞ。大倉、何処を走ってるんや。家に帰 らんかい」宮園は見覚えのない女に叫んで運転手の大倉に怒鳴った。 「悪いな。大倉はトランクで眠ってるで」運転手が振り向くと宮園の知らない顔だ った。宮園の社用車を運転しているのは香田興業の孝二だ。溝口は宮園の車の後ろ からついて来ている。
「うちの顔を忘れたんか。水くさい人やなぁ宮園さん。うちの名前は一之宮瑞希っ ていうねん。さんざん探してたんやろ?うちの方から会いに来てやったんやで」 瑞希が笑うと宮園は腰が抜けそうになった。あれだけ探していた女が目の前に居る。 だが今は形勢が逆転している。動こうとしても両腕を外国人の女にしっかり掴まれ ている。車は何処かの山の中を走っているのか、周辺は真っ暗で何も見えない。 暫くすると車が止まった。 「降りてもらおうか宮園さん」瑞希の声に恐る恐る車を降りた宮園は、ここが俺の 死に場所になるのだと覚悟した。 「この日を3年もの長い間待っていたんやで。今までやってきた事を地獄の閻魔に 謝るんやな」瑞希の手には消音器の付いた拳銃が握られている。 「1つだけ教えてくれ。浅野興業を潰したんは誰や。女のお前に出来る事やないや ろ」宮園は最後を覚悟すると妙に肝が据わった。 「浅野興業を潰したんはうちや。この手で浅野を撃ち殺したで。あんたもうちの手 で殺すからな。あの世で浅野と一緒に父に謝りや」瑞希は数歩離れると無造作に引 金を引いた。宮園は声も立てずに蹲るようにその場に倒れた。瑞希、ナターシャ、 アイリーン、孝二の4人は溝口の車に乗り換えると山道を下り降りた。
☆
3月の中旬に浩貴が自衛隊を除隊したと電話があった。3月の終わりに桜が咲き始 めると、瑞希は奥田弁護士、副社長の石田と5年ぶりに宝塚の実家に帰って来た。 門を開けると玄関までの石畳もきれいに磨かれ、植木も手入れが行き届いていた。 父の自慢だった桜も誇らしげに咲き乱れ、瑞希の帰りを祝福している。 「お嬢様が戻られるということで2日前に掃除を済ませました」奥田弁護士が言う と瑞希は頷いて玄関のドアを開けた。家の中に入ると5年間の様々な思いが駆け巡 り、やっと帰って来たという実感が湧き思わず涙が零れた。玄関の吹き抜けには昔 からのシャンデリアが下がっている。奥田弁護士と石田はここでお待ちしています、 ゆっくり懐かしんでくださいと玄関で待っていた。1階のリビング、ダイニング、 居間をゆっくり見て回った。父の部屋に入った時には、あたかもそこに父が座って いるような錯覚を覚えた。2階に上がる階段の手摺に手を触れ、瑞希の部屋のドア に手を掛けた時には、手が痺れたようでノブを回す力が入らなかった。やっとの思 いでドアを開けると5年前の空気が漂っているような気がした。
留学する前にタイムスリップしたような感覚が襲った。机や本棚、ベッド、壁に掛 かった奈緒子と一緒の写真、窓のカーテンも昔のまま佇んでいる。窓から見える風 景も5年前とちっとも変わっていない。1階に降りると仏間に向かった。仏壇の扉 を開けると母の位牌が祀ってあり、会社から持って来た父の位牌を母の隣に並べて 手を合わせると、知らず知らずのうちに涙が溢れ出て止まらなかった。 「瑞希さ〜ん」玄関から奈緒子の呼ぶ声が聞こえた。瑞希が玄関に出ると奈緒子、 浩貴、圭爺、芳江婆やに工藤、佐伯、森下の顔があった。奥田弁護士と石田が嬉し そうに圭爺に挨拶している。奈緒子は玄関を上がると瑞希に飛びついて涙を流した。 浩貴も瑞希を見つめると何も言わずに頷いた。 「圭爺、工藤、佐伯、今回の事、あなたたちのお陰です。森下、溝口という男から 話を聞きました。溝口も力になってくれました。本当にありがとう」瑞希はみんな の前で深々と頭を下げると涙が止まらなかった。涙というものはイスラエルの砂漠 に埋めてきたつもりだったのに、何故だかとめどなく溢れ続けた。
「お嬢様、顔を上げてください。私たちはほんの少しだけお力添えをしただけです。 これからは浩貴様、奈緒子様、青木様たちと一緒にお父様の残された会社をお守り ください」工藤が瑞希の手を握ると、佐伯、森下も手を握りしめた。 夕方には香田荘一郎と田畑靖彦、アイリーンとナターシャも顔を出し、その夜は3 年振りに一之宮家に灯りが燈った。木曽福島の山荘からの荷物の発送は済んでいて、 明日にはこちらに着く予定だと言った。その日の夜、圭爺に呼ばれて話をした。 ナターシャとアイリーンの身の振り方だ。圭爺の話では野村康介から是非にと頼ま れ、瑞希を含め3人に特務機関の陰の力として協力して欲しいという事だった。 ナターシャとアイリーンは普段は英建設の社員として働き、何かが起こった時だけ 力を貸して欲しいと言った。ロシア、アメリカとは政府を通じて話をつけ、現在手 元に有る武器はそのままで日本の永住権も保障するという。 更に年間1人につき1200万が支給される。瑞希がその話を2人にすると、2人 は国に帰っても家族は居ないし、瑞希の家族やミナミの仲間たちと過ごす方が楽し いだろうと、笑って瑞希の手を握りしめた。
3日後、会社に顔を出すと拍手で迎えられ、瑞希と浩貴が共同で経営に携わる事を 全社員に話した。5月には浩貴と奈緒子が結婚式を挙げる事も決まった。 瑞希は浩貴と一緒に墓参りに行き、父の墓前で手を合わせた。
完
この物語はフィクションで、登場する人物名、 団体名等は全て架空のものです。
|
|