落日・後編

第3回



          『依頼』

夜の10時を少し過ぎていた。浅野興業の事務所から100メートルほど離れた道
路の反対側に1台のステーションワゴンが止まっている。運転手は携帯電話で誰か
と話しをしているが、後部座席はスモークガラスで中が見えない。2台の乗用車が
浅野興業の入り口に止まった。周辺に目を配りながら6人の男が事務所から出て来
ると、3人ずつに分かれて車に乗り込んだ。2台の車が走り出すと、ステーション
ワゴンの近くに止まっていたオートバイに、ワゴン車から降りた2人が乗ると静か
に走り出した。2台の車が信号で止まるとオートバイは後方に止まった。信号手前
の路地の入り口では道路工事が行われているのか、動力エンジンの音が響いている。
交差点から500メートルほど前方に離れた所で、黒塗りの車が歩道に乗り上げて
斜めに止まっている。正面遠くに交差点が見える。後ろの窓が静かに開くと消音器
が覗いた。ブッ、ブッ、ブッ、小さな音が4度響くと直ぐに窓が閉まり、車は静か
に走り出した。

信号で止まっていた浅野興業の前の車は信号が青になっても動かなかった。後ろの
車がクラクションを鳴らしても動かない。後ろの車の運転手がドアを開けて降りよ
うとしてそのまま倒れた。反対側の物陰から何者かが撃った拳銃で頭を撃ち抜かれ
ていた。後ろに止まっていたオートバイが横をすり抜けながら、後部席に乗ってい
た人間が開いていたドアから物を投げ込んだ。オートバイが交差点を抜けて直ぐに
爆発音が響いた。ステーションワゴンは爆発を見定めると静かに走り去った。
爆発音を聞いて浅野興業の事務所に残っていた男が3人、慌てて爆発現場に駆けつ
けた。後ろの車は激しい炎を上げて燃えており、前の車はフロントガラスに4個の
穴が開き、額を撃ち抜かれた運転手と後部座席の3人も額を撃ち抜かれていた。
前の車には浅野興業幹部の阿部、下部組織の桜井組組長桜井陽一と幹部の後藤が、
爆発炎上した後ろの車には同じ下部組織の森本組組長森本肇と幹部の横田、神田の
3人が乗っていた。運転手はどちらも浅野興業の組員だったが、2人ともすでに息
絶えていた。

駆けつけた浅野興業の組員は、何をどうしたらいいのか分からずただ唖然と見てい
る。救急車に消防車、パトカーのサイレンが聞こえると、我に返った組員が慌てて
事務所に戻り、組長の浅野に電話を入れて事の顛末を話した。浅野は話を聞きなが
ら頭の中が真っ白になった。幹部の阿部と配下の組長が2人、幹部3人が一度に殺
られるとは考えた事もなかった。浅野興業を支える浅野3人衆の最後の1人が殺ら
れ、幹部候補の今井も先日殺られて浅野興業は崩壊寸前に追い込まれた。残るのは
下部組織の山岸土建だけだか、山岸は肝っ玉も小さく、部下も5人だけの小さな組
だから頼りにならない。すでに年末の事件で怖がって大人しくなっていた。来月の
取引には浅野自身が出て行かざるを得なくなった。

          *

「お嬢、これはお嬢の仕業か」翌日、香田興業の事務所に顔を出すと、田畑が新聞
を見せて瑞希に聞いた。孝二をはじめ靖夫や他の男たちも瑞希の返事を待っている。
瑞希が頷くと若い男たちは歓声を上げ、これで浅野もおしまいやと意気まいた。
「しかしお嬢1人で出来る仕事じゃないやろ」田畑が聞くと、アイリーンとナター
シャの2人が手伝っている事を話した。
「お嬢さん、じゃぁ前に橋の上で一緒だった外人さんですか?」靖夫が聞くと頷い
て2人の事を話し始めた。
「アメリカでイスラム過激派による同時テロがあったやろ。アイリーンはあのテロ
で家族を全て失ってん。アイリーンは海軍士官学校に在学中やったけど、テロの後
に学校を辞めて暗殺、狙撃者の道を選びイスラエルに来たの。ナターシャも同じよ
うなもんで、ナターシャの場合はチェチェン紛争で家族を亡くしていたの。もう1
人ジェシカっていう子も居たけど、その子はパレスチナで亡くなったわ。うちもそ
の時、背中に手榴弾の破片を無数に受けて死ぬところやった。

アイリーンが私を担ぎ、ナターシャと救援部隊のお陰で何とか脱出して一命は取り
留めたけどジェシカは駄目やった。イスラエルの病院に半年入院して傷が直ったら
体を鍛え直したんよ。アイリーンとナターシャは国に帰っても家族は居ないし、軍
で働くくらいしかないから、それならまだ家族の居る瑞希のためにと一緒に来てく
れたの。アメリカの軍部もソ連の軍部も、アイリーンとナターシャの家族の軍に対
する貢献度を考え、2人に全面的に援助してくれているの。もちろん内密にやから
公になると困るんやけどね。狙撃銃はロシアの大使館を通じてナターシャが、アイ
リーンが横田基地で軍を通じで手配してくれたわ。小型無線機や拳銃、手榴弾なん
かもね。ただ、事が終わった時には狙撃銃や備品は返さなあかんけどね。兄ちゃん、
うちはね、もう昔の瑞希やないねん。父が殺されたと知った時、自分のこの手で父
の仇を討つと誓ったんよ。そのためやったら鬼にもなるし悪魔にもなると誓った。

圭爺の知り合いで、イギリス政府の高官に頼んでイスラエルに潜伏し、モサドとい
う特殊機関の外部組織で訓練を受けたの。何度も血反吐を吐きながら訓練に耐えれ
たのも、父の仇を討つ、ただそれだけが心の支えやった。格闘技から狙撃まであり
とあらゆる事を学んだわ。人を人と思わず、機械的に命を奪う事を徹底的に叩き込
まれた。うちはもう昔の瑞希には戻れないんよ」瑞希は話しながら涙が溢れるのを
堪えきれなかった。
「お嬢、そんな事あらへん。お嬢は昔のままのお嬢でちっとも変わってないで。ボ
ンや青木の爺さん達、爺さんの孫の奈緒子とかいってたかな、その子たちとみんな
で暮らすようになれば昔のお嬢に戻れるわ。ボンと一緒に親父さんの後を継いで会
社を守っていかんと親父さんも悲しみまっせ。お嬢、しっかりしなはれや」田畑が
怒るように言うと、孝二も靖夫も、お嬢さんしっかりしなはれと言葉を掛けた。
ありがとう、瑞希は少し笑顔を取り戻すと、溝口に他の仲間達には暫く大人しくし
ているようにと言った。

「ただ、1つ気になる事があるんや。クリスマス・イブに3人、暮れに浅野の事務
所を狙った時、浅野と対立している永山組を襲って、暴力団同士の抗争事件に仕立
てたのが誰だか分からんねん」瑞希がみんなを見渡した。
「お嬢さん、永山はお嬢さんじゃないんですか?じゃぁ誰が永山を襲ったんやろ」
孝二が驚いた顔で言うと、みんなも瑞希の仕事だと思っていたらしく驚いた顔をし
ている。
「うちは永山組なんて全然知らんやったから新聞読んで驚いたんよ。うちの行動を
誰かに見られているような気がして気持ちが悪いねん。うちがやろうとしている事
は圭爺しか知らない筈なんやけど・・・」瑞希が心配気な顔をして田畑を見つめた。
「お嬢、わしじゃありまへんで」田畑は慌てて顔を振り
「ひょっとして青木の爺さんじゃぁ・・。爺さん、色んな方面に顔が利きますやろ。
政府のお偉方とも知り合いが多いみたいやし、陰でお嬢を支えているんかも」田畑
の言う事を聞いて瑞希はもしかしたらと思った。工藤健治・・・どう見ても山荘の
維持、管理の仕事だけのために居るとは思えなかった。鍛え抜かれた屈強な体は普
通じゃないと思い始めた。

          ☆

宮園は浅野からの電話を受けて腰が抜けるかと思うほど驚いた。幹部の阿部と下部
組織の組長が2人、幹部3人が一度に殺られるとは想像すら出来なかった。2台の
車が同時に襲われ、運転手を含めて5人が射殺、3人が車の中で爆死とは日本での
出来事とは思えなかった。遥か遠い国での出来事としか思えなかった。正月に来た
『次はお前だ』のハガキが冗談や悪戯でない事が分かった。浅野にも同じようなハ
ガキが来ていたと言っていた。幹部の3人衆が殺され準幹部の今井が殺され、下部
組織の組長2人と幹部が3人も殺されては浅野興業も終わりだ。次は浅野か自分の
番だと思うと震えが止まらなかった。宮園は何時からこうなったのかを考えた。
去年、12月に入るまでは何事もなかった。全ては順調だった。おかしくなり始め
たのは12月の中旬、一之宮瑞希らしい人物を青木圭三が関西空港に迎えに行って
からだ。木曽福島の山道で見失ってから、瑞希らしい人物も弟の浩貴らしい人物も
目撃されていない。

青木は何時もと変わらず週に2回松本の事務所に顔を出している。青木の実家は松
本城から近い浅間温泉の近くらしいが、何処かに家を借りているみたいで帰って来
る事がなかった。これは青木を見張らせている社員からの連絡だが、何処に住んで
いるのかまでは調べがついていなかった。何度か事務所を出た青木を尾行したらし
いが必ずといっていいくらい見失っていた。見失うというより青木の運転手のテク
ニックについていけないのだ。しかし、青木が動いたという形跡は無く、いったい
誰が浅野を追い詰めたのか分からなかった。
その日の夜、宮園は浅野と会っていた。阿倍野のクラブで林警部、市会議員の河野
も同席していた。
「林さん、いったい警察は何してるんや。早いとこ浅野の人間を殺った人物を逮捕
してくれんと、おちおち仕事もしてられんわ。まだ犯人の目星もついてないんか」
宮園が林を責めると、浅野も早く何とかしろと責めたてた。

「前にも言ったように、今回射殺された5人のうち4人は狙撃銃で殺られていて、
運転手の1人だけは拳銃で撃たれてますわ。車の爆発は銃によるものじゃなく手榴
弾らしいですわ。これは暴力団やチンピラの仕業じゃありまへんで。浅野さん、外
国の軍に睨まれてるんと違いまっか。狙撃銃で射殺された4人は弾の状態、銃の威
力から500メートルは離れた場所から撃たれたみたいでっせ。浅野さん、500
メートルも離れて人が識別出来ますか?冗談抜きで何処かの国の特殊部隊が来てる
んと違いまっか?」林が浅野の顔を覗き込むと、宮園も河野も浅野を見つめた。
「バカな事言うな。何で外国の特殊部隊みたいなんに狙われるんや。外国では何も
してないで。しいていえばヤクの密輸くらいやけど、こんな事に特殊部隊が出て来
るなんて聞いた事も無いわ。それに、正月に来たハガキ、あれは日本人やろな」今
度は浅野がみんなの顔を見回した。
「ブツが着くまで3週間切ったんやで。サツはどうや。嗅ぎつけているんか?」
浅野が林を見た。
「今の所動きはありまへんわ。浅野さんのところの事件でそれどころじゃないです
わ。しかし気をつけてくださいよ。これ以上事を起さんでくださいよ」林が浅野に
言うと、浅野は好きで起してるんじゃないわい、と大声で怒鳴った。

          *

珍しく圭爺から電話があり、ある人物に会ってほしいと頼まれた。会う場所は神戸
のホテルだと言った。相手は2人で瑞希の顔は知っているから相手から近づくそう
だが、目印に観光客らしくカメラを持っていると言い、カメラのメーカー、掛ける
言葉と返事の言葉を言った。瑞希は気が進まなかったが、圭爺の頼みという事で断
れなかった。当日の午後4時少し前、瑞希は圭爺に聞いたホテルの喫茶室に入った。
喫茶室にはОLらしい4人のグループ、観光客らしい中年夫婦が2組、他に中年の
女性3人が静かに談笑している。瑞希は窓側のテーブルに座るとコーヒーを注文し
た。瑞希より少し遅れて2人の外国人女性が入ってくると、入り口近くのテーブル
に座った。瑞希がコーヒーに口をつけた時2人の男が入って来た。1人はジーンズ
にブルゾンを着ていて、もう1人の男はスラックスに厚手のセーターを着て肩にカ
メラを提げている。

喫茶室を見渡した2人は瑞希の方に近づいて来た。どちらも40歳前後に見えるが、
180センチ近い体は何かで鍛えているのか、がっちりした体格をしている。
「一之宮瑞希様でしょうか」カメラを持った男が静かに聞いた。瑞希は煙草を咥え
るとライターを手にとって2人を見つめた。
「いいカメラをお持ちですね。さぞかし高かったでしょう」瑞希がカメラを持った
男に聞いた。
「私のただ1つの趣味でして、趣味にお金を掛ける事はそれほど苦になりません」
男は少し微笑んで言った。瑞希が頷いて椅子を勧めると2人は腰を下ろし、ウェイ
トレスにコーヒーを注文した。
1人の男がブルゾンの内ポケットに手を入れようとした。途端に瑞希の顔つきが厳
しくなり、手に持ったライターのキャップを開けて火を点けた。それを見た入り口
近くのテーブルに座った外国人女性がバックを引き寄せ、バックの中に静かに手を
入れた。

おい、セーターの男が瑞希の表情の変化を見て、内ポケットに入れかけた男の手を
押さえた。
「あっ、いや、申し訳ない。身分証を出そうと思って」男は両手が見えるようにゆ
っくりブルゾンのジッパーを降ろすと、何も無いという風にブルゾンを両手で開い
て見せた。瑞希がライターのキャップを閉めて男に頷くと、男はゆっくりした手つ
きで内ポケットから顔写真入りの身分証を出して瑞希の前に差し出した。
瑞希はゆっくり手にとって見た。名前は小林真二。内閣調査室付特務課主幹となっ
ている。瑞希は国家に関わるような人物がどういう理由で接触してきたのか分から
なかった。瑞希は手に持っていたライターをテーブルに置き、咥えていた煙草は火
を点けずにそのまま灰皿に置いた。
「もしかして、ライターで煙草に火を点けられたら、私たちは2人とも死んでいま
したか?」セーター姿の男が笑いを浮かべながら瑞希に聞いた。ブルゾンの男は驚
いた顔でセーターの男を見て瑞希を見つめた。瑞希が笑って頷くと、ブルゾンの男
は冷や汗でも掻いたのか、しきりにおしぼりで顔を拭いている。

「さすがに青木圭三様の推薦されたお方ですね。入り口のテーブルに座っている2
人の外国人女性はお仲間でしょう」セーターの男が笑いながらスラックスのポケッ
トを示した。瑞希が頷くとポケットから札入れを出し、身分証を瑞希の前に差し出
した。瑞希が見ると写真付きの身分証で、警察庁外事課主査、野村康介とある。
瑞希は益々困惑してきた。圭爺がどういう目的でこんな人物に会うように言って来
たのか理解出来なかった。
「瑞希様、我々が何故会いに来たのか理由が分からずに困惑しておられるでしょう。
この事は我々からある大臣を通して青木様にお願いしました。大阪の騒動は我々も
把握しています。青木様から瑞希様をサポートして欲しいと頼まれていましたが我
々の出る幕はありませんでした。瑞希様とお仲間の実力には我々も驚いています。
ただ1つだけ、永山組を襲ったのはこの男と工藤です。工藤はご存知ですね。工藤
は特務機関の人間で、青木様の身辺警護のためにご一緒していましたが、瑞希様が
行動を起される時、工藤は小林と共に瑞希様を影から守っていました。

工藤だけじゃなく佐伯優子も、青木様の不動産会社の従業員1人も特務機関の人間
です。ですがこの機関は正式には存在しません。あくまで影の機関で、重要人物の
警護や国家に罪なす相手の抹殺等を影でサポートしている機関です。
瑞希様が浅野興業を襲うと分かった時、2人は対立関係にある永山組を襲い、暴力
団同士の抗争事件に仕立て上げました。瑞希様の存在を隠すために影ながら協力さ
せて頂きました。この事は当然青木様もご存知です。ですが、暮れに浅野興業の事
務所を襲われた事件は我々の想像を超えるものでした。お仲間と一緒に潜まれたマ
ンションは直線距離で720メートルあります。あの距離で正確に相手の額を撃ち
抜いた狙撃の腕には脱帽しました。日本の警察、自衛隊、特務機関にも狙撃部隊は
ありますが、あの距離ではとても不可能です。だから瑞希様とお仲間の狙撃の腕を
お借りしたいと思って青木様にお願いしたしだいです。どうか力を貸していただき
たい」野村という男の話しを聞きながら、瑞希は工藤が並みの人間じゃないと思い
はじめていた事が、思いもよらない形で証明された。

瑞希は野村の話を聞きながら困惑していた。父の仇を討つためだけに留学先のロン
ドンからイスラエルへ潜伏し、モサドの外部機関で血反吐を吐きながら訓練を受け
て来た。仲間だったジェシカが死に、瑞希も死にかけたものの何とか一命を取りと
め、帰国後浅野興業をあと一歩まで追い詰めていた。後は浅野実と宮園勲の2人を
倒せば瑞希の3年間の思いは成就する。
だが、ここにきて国家の裏の仕事を手伝えという。瑞希は圭爺の事を思うと無下に
断る事も出来ずに悩んだ。犯罪者を捕まえるのなら警察や公安で十分だと思うのに、
逮捕や拘束ではなく、抹殺しなければならない相手とはどういう人物なのか、詳し
くは話さなかった。ただ、日本でのテロを計画している人物で、近いうちに日本に
密入国するとの情報が入っていると言った。日本の警察や公安では逮捕や国外退去
が限界で抹殺して欲しいと言った。日本でのテロが成功すれば世界中に広がる恐れ
があるという。瑞希は2人を待たせ、入り口近くに居るナターシャとアイリーンの
テーブルに向かった。ナターシャとアイリーンは瑞希の話を聞いて驚いた。

木曽福島の山荘で会った老人がそれほどの人物だとは思っていなかったようだ。
2人はテロで家族を亡くしているだけに、テロの卑劣さや悲惨さは身にしみて知っ
ている。ナターシャとアイリーンは顔を見合わせると微笑みながら手を出し、瑞希
の手を力強く握りしめた。
翌日、3人は朝早い新幹線で東京に向かい、浜松町に有る小さな貿易会社を訪ねた。
受付の男に社長のアブドールに会いたいと言うとアポイントの有無を聞かれた。
瑞希がバッグから指輪を出して渡すと男の顔色が変わり、どうぞと奥の部屋に案内
された。アブドールは四十絡みの腹が出た男で、こんな男がモサド要員だとは思え
なかった。アブドールは1人ずつ抱きしめ、アラブ風の挨拶をすると椅子を勧めた。
瑞希はこんな物は無いだろうと思いながら欲しいものを言った。アブドールに不可
能はないよ、と笑いながら何処かへ電話を掛けると、5日待ってくれたら手配でき
ると言った。瑞希は頷いて300万とマンションの住所を渡した。

          *

ここ数日、落ち着いた日々が続いている。宮園への暴走族の嫌がらせもなくなり、
浅野興業への攻撃も影をひそめていたる。だが若い組員たちは怖がって1人で出歩
く事が出来ず、常に2、3人のグループで歩いているが、何時、何処から狙われる
かと戦々恐々としている。今までは大きな顔をしてミナミ迄繰り出していたが、最
近はミナミに足を運ぶ事もなくなっていた。
浅野は林に警察の動きを調べさせていたが、警察が動きそうな気配はなく、今度の
取引も上手く行きそうだと思っていた。この取引が上手く行けば浅野興業を持ち直
すことが出来るし、同時に一之宮姉弟(きょうだい)も始末する事が出来ると考えて
いた。だが失敗すれば浅野興業は事実上無くなるだろう。今回は麻薬だけじゃなく
プロの殺し屋を密入国させる手筈になっている。そのためにも警察の動きが気にな
るところだが、林の情報では警察はまだ気が付いていないという。今回は漁船を使
っての海上ルートを選んでいたが、それでも念には念を入れて大阪港を避け、神戸
の摩耶埠頭を利用するつもりでいた。組員に指示して周辺を丹念に調べていたが、
沖の地方寄りの防波堤で工事が始まった以外に変わった事はないとの報告を受けて
いた。マニラを出航した貨物船は日本近くの公海上で漁船と接触して荷物を積み替
え、大阪湾の近くで宮園建設所有の砂利運搬船に積み替える事になっている。何事
もなければあと2週間で神戸港に着く予定だ。

          *

宮園は浅野からの電話を受けると小躍りして喜んだ。一之宮秀英の娘、瑞希が大阪
で見つかったという。息子の浩貴はまだだが、娘が戻って来たとなれば遅からず戻
って来る筈だ。組の若い男に居場所を突き止めるよう指示を出していると言った。
居場所が分かれば2週間後に来る殺し屋に始末させるつもりだとも言った。後2週
間、後2週間で全てが片づく。宮園は秘書の大倉に松本の店を閉鎖して全員戻るよ
うに指示を出した。一之宮姉弟(きょうだい)さえ始末すれば怖いものは無い。青木
の老人なんか放っといても何も出来ないだろう。戻って来るはずだった主を失えば
英建設も長くはもたない筈だ。宮園が喜ぶ訳はもう1つあった。マニラから運ぶ浅
野のブツと殺し屋以外に2人の人間を運んでくれるように頼まれていた。
1人300万、2人で600万が宮園の懐に転がり込んでくる。密入国にしては法
外な値段でよほどの人物と思われるが、宮園はそんな事はどうでもよかった。浅野
のブツと同じルートで運ぶが浅野の知らない事だ。漁船の船長と砂利運搬船の船長
には20万ずつ握らせ、神戸でブツと殺し屋を降ろしたら2人は大阪まで運ぶよう
に指示していた。神戸で降ろして船を出してから連絡するように言っていた。

          ☆

2月に入ると寒さも厳しくなり、大阪や神戸でも雪がちらつき積もる日もあった。
木村雄二は午後3時を過ぎて店の準備を始めた。土曜日曜祝祭日は午前10時頃か
ら始めるが、平日は4時頃から焼き始める。前日、店が終わってから用意していた
生地を練り、具を切って用意が整ったのは4時になろうとしていた。シャッターを
開けると直ぐに3人連れの女子高生が表に並んだ。雄二は今日も忙しくなりそうだ
と思いながら、焼けたたこ焼きを3人に渡した。雄二は客が途絶えると通りに目を
やり、近くのレストランや食堂のお姉さんたちに声を掛ける。これからの時間は遅
番のお姉さんたちの出勤時間帯で、姉さんたちも雄二に気軽に声を掛けていく。
平日は店の終わる11時頃からが忙しくなる。帰る前にちょっと食べて帰る姉さん
たちが寄ってくれるから、忙しい日は終わるのが午前2時を過ぎる日もある。それ
から明日の下準備をして帰るから、アパートに帰るのが4時ごろになる日もあるが、
雄二を慕う悟や徹が手伝いに来てくれるから思ったよりも気楽な商売だ。

今日も6時半を過ぎた頃に徹が女と一緒にやって来た。
「雄ちゃん、飯はまだやろな。店番しとくから行っといでや」徹が声を掛けて雄二
と交代した。毎日顔を出す訳じゃないから誰も来ない時はたこ焼きを食べ、帰りに
終夜営業のラーメン屋に寄る時もある。軽く食べて30分位で戻ると悟も来ていて
徹と話し込んでいる。
「悟、来てたんか」雄二が声を掛けると笑いながら頷いた。徹と交代して雄二が中
に入ると3人連れの客が来た。
「姉さん、こんばんは。お久しぶりです」雄二が外国人2人、日本人1人の3人連
れに声を掛けた。
「この前はすまんやったな」日本人の女が笑いかけると、とんでもないですと雄二
も笑って手を振った。

「あの〜、間違ってたらすんまへんけど、一之宮のお嬢さんでっか」悟が日本人の
女に声を掛けると、雄二が悟っと目配せした。が、女は構わずに
「そうや、一之宮瑞希や。兄ちゃんは誰や」瑞希が悟を見据えた。
「姉さん、こいつはわしのダチで時々手伝いに来てくれまんのや。こいつはミナミ
の生まれで、子供の頃からこの辺を遊び場にしていたから大概の事は知ってまして、
姉さんが高校生の頃から田畑の兄さんたちや香田のおやじさんたちと歩いているの
を見てましたんや。それで去年の暮れに橋の上での出来事を見た時、多分一之宮の
お嬢さんやわって言ってましたんや」雄二が悟に代わって説明すると瑞希は黙って
頷いている。焼けたたこ焼きを2人の外国人に渡すと美味しそうに食べ始めた。
1人はタコが駄目らしくてこんにゃく入りを焼いて渡した。瑞希も横から一緒に食
べている。雄二は3人を見ながら、たこ焼きを食べている時の顔と身構えた時のギ
ャップに驚いていた。

3人で笑いながらたこ焼きを食べている時は、体は大柄だが何処にでもいる女の子
のような感じなのに、一旦身構えると顔つきも変わり、相手を突き刺すような視線
には雄二さえ恐怖を感じた。
「お嬢さん、こんな所でどうしたんでっか」と5人のグループが声を掛けた。瑞希
が振り向くと孝二と若い男が3人、中年の男1人が寄って来た。香田興業のもんと
分かったが、瑞希は中年の男の顔に見覚えは有るものの、誰だったか思い出せなか
った。
「お嬢さん、お久しぶりです。小池です。小池貞夫、覚えていまっか」男が笑いな
がら話しかけた。
「貞の兄(あん)ちゃん、久しぶりやん。何度か事務所に行ったけど見かけんやった
がどうしてたん」瑞希は名前を言われ、田畑の下で若いもんを束ねていた小池貞夫
だと思い出した。小池は苦笑いをしながら頭を掻いている。

「お嬢さん、兄貴は3日前に出て来たところですねん。あの事件のあと、若いもん
10人ほどで浅野の事務所に殴りこみ掛けて・・・。3日前にやっと出て来ました
んや」孝二が瑞希の耳元で囁いた。
「兄(あん)ちゃん、父のために3年も・・・・・・。ありがとう。兄(あん)ちゃん
には大変な苦労をかけたね」瑞希は父のために3年もの間刑務所に入っていた小池
に頭を下げた。
「お嬢さん、やめてくなはれ。わしらが不甲斐ないばっかりにお父さんがあないな
事になり、お嬢さんやボンに辛い思いをさせてしまって、ほんまにすんまへん」小
池は深々と頭を下げた。
「何言うてんの。あれは兄(あん)ちゃん等の所為やないわ。3年もの長い間ご苦労
さん。ところで何処に行くんや?」瑞希が小池の手を握りしめて孝二に聞いた。

「えぇ、2日間は有馬でのんびり温泉に浸かってもらったんですわ。これから飯食
いに行って由美姉さんの店でささやかですが・・・」孝二が言うと、瑞希たちもこ
れから食事に行くところやから一緒に行こうと声を掛けた。
「ちり(てっちり)でもどうや」瑞希がみんなを見渡すとお互い顔を見合わせている。
「遠慮せんときや。悟とか言うたな、ミナミで生まれ育ったんやたらこの辺は詳し
いやろ。ちりの美味しい店知ってるか?」みんなに言って悟に振り向くと、雄二が
おいっと悟の頭を叩いた。
「姉さん、ちりやったらこいつの店が一番でっせ。と言っても親の店ですけどね。
悟、案内してやらんかい」雄二が笑いながら悟を急き立てた。
「よかったら兄さんも一緒にどうや。ここで店をやってるんやったら香田のみんな
とも顔見知りやろ」瑞希が雄二に声を掛けると驚いた顔をして瑞希を見た。

「でも、今日はこちらのお兄さんの・・・」雄二が言いかけると
「それは食べた後飲む方でやるから。せっかくお嬢さんが誘ってくれたんや、雄ち
ゃんも一緒に行こうな」孝二が言うと、店番は俺がしてるわと徹が言った。雄二は
ありがとうございますと言って徹と代わり、みんなと一緒に悟の後について行った。
悟に連れて行ってもらった店は、昔田畑の兄ちゃんに何度かつれて来てもらった事
がある店だ。奥の座敷に案内されるとナターシャとアイリーンが器用に座っている
のを見てみんなが驚いている。悟も一緒にと瑞希が言うと素直に頷いて座敷に上が
った。鍋が煮えてくるとみんなのグラスにビールを注ぎ、兄(あん)ちゃん、ご苦労
さんでした。瑞希がグラスを合わせるとみんながご苦労さんでしたとグラスを合わ
せた。

「雄二っていったな。歳はうちと同じくらいやと思うけどいい体格してるな。何か
してたんか?」瑞希が笑いながら聞くと、中学高校と空手をやっていて自衛隊に入
隊して鍛えたと笑った。瑞希が弟も自衛隊に居るんやと言うと驚いた顔をした。
瑞希は大阪での事件の事は話さなかったが、悟に聞いていてある程度の事は分かっ
ているような口振りだった。
「ミズキ、これは何の魚?」ナターシャが流暢に日本語を操り、アイリーンと共に
器用に箸を使うのでみんなが呆気に取られた顔をしている。孝二がフグという魚と
説明すると頷いている。
「悟とかいってたな。あんた、顔が広いみたいやから、もし、浅野興業と宮園建設
の事で何か変わった事があったら教えてや。香田の誰にでも言えばうちに連絡が入
るから」瑞希が悟にビールを勧めながら言うと恐縮しながら頷いた。




続く