落日・第二章  前編




テロ勃発−1回



 テロ勃発』

日曜日の朝8時過ぎに目を覚ました瑞希は、窓のカーテンを開けて目の前に広がる
宝塚の山肌を眺めた。12月に入ったばかりだが、今年は夏の暑さが遅くまで続い
たため秋になっても朝晩の冷え込みが弱く、今年の紅葉はくすんだ色合いのままこ
の時期もまだ色づいている。
「お嬢様、おはようございます」瑞希がダイニングルームに降りていくと青木芳江
と佐伯優子、長岡瑠美が声をかけた。佐伯優子は木曽福島の山荘からそのままこち
らに来ていて、長岡瑠美は半年前に新しく来たお手伝いだ。
「瑞希さん、おはよう」奈緒子は朝食を済ませているのか、読んでいた新聞をたた
んで瑞希に笑いかけた。
「奈緒子、何時ごろに行くんや?」
「2時に予約を入れてるから1時過ぎに出れば間に合うやろ」芳江が茶粥を瑞希の
前に出すのを見ながら返事した。
「ほんまに上手いんか?噂倒れやないやろな」瑞希が茶粥に箸を付けながら笑った。

「それは大丈夫。腕は折り紙付きだよ。理容学校の学生の時に学生限定のチャンピ
オンになって、理容師になりはってから関西の大会で優勝しはったんよ。その後全
国大会でも優勝しはってん。その頃から予約しても1週間、週末はもっと待たされ
てたみたいやわ。子供が出来てから暫く離れてはったけど、少し大きくなると子供
をつれて来てはってたんよ。その子供が可愛くて、子供と遊びに来るお客さんも居
てはったみたいやわ。うちも大学の頃何度かお願いしてたんやけど、木曽福島に行
ってからは全然行ってなかったやん。その間にワールドチャンピオンシップってい
う世界大会に出はって、そこでも優勝しはったらしいわ。週刊誌にも載ったしテレ
ビでも特集を組んで放送しはったらしいねん。その番組は見損なったけどね。6月
に久しぶりにお店に行ったら辞めてはって、伊丹の方でお店を開きはってん。仲の
良いお友達とやってはるわ。そのお店には毎月行ってるんやけど、週末やったら予
約しても2週間は待たなあかんくらい人気があるんよ」奈緒子はそう言うとダイニ
ングを出て写真集を持って来た。

「この人やねん。大原有希さんといって33、4くらいやと思うけど若く見えるや
ろ」奈緒子は笑いながら写真集を瑞希に渡した。瑞希は茶粥を食べながら写真集を
開き、理容学校時代と説明書きのしてある写真や登山の写真、カットをしている写
真、子供と一緒の写真のページを開いた。2冊目の写真集には瑞希も留学していた
ロンドンのピカデリーサーカスやオックスフォード・ストリート、バッキンガム宮
殿の近衛兵の行進などの懐かしい風景に続き、舞台の上でカットしている写真、何
処かのホールでカットしている写真、舞台の上でトロフィーを掲げている写真、夫
婦で子供を抱いている写真などが載っていた。
「そっちの写真集は世界大会の後で出しはったらしいけど、凄く売れたらしくて中
々手に入らんやったんよ。何度か増刷したらしくてやっと手に入れたんよ。女の子
が可愛いやろ〜。その子、子供服のモデルをしてるらしいわ」瑞希は奈緒子の話を
聞きながら写真集の女の子を見つめた。

「ほんまに可愛い子やな。奈緒子も早く子供を作りや」瑞希が笑いかけると、奈緒
子は瑞希さんと言いながら顔を赤らめている。
「浩貴は?」
「清水さんと一緒に出かけています。石田さんと会うと言ってました。もう半年に
なるけど一度にあれもこれもって無理やし、少しずつやけど頑張ってもらわんとね」
奈緒子は瑞希に笑いながら湯飲みに口をつけた。
午後からタクシーを呼び、奈緒子の案内で伊丹へ出かけた。3階建てで1階部分の
半分くらいが店になっていて他の部分は住居のようだ。店にはカットハウス・サロ
ン・ド・ユキと看板が掛かっている。
「こんにちは〜」奈緒子がドアを開けて挨拶し、奈緒子に続いて瑞希も店に入った。
鏡が4面とオレンジ色の椅子が4脚だけの小じんまりした店だ。道路側に面したガ
ラス窓にはロールカーテンが引いてあり、天井の照明と間接照明で店内は明るく感
じる。

「奈緒子さん、いらっしゃい。もう少し待ってね」奈緒子に見せてもらった写真集
に載っていた女の人がカットの手を止めて奈緒子に笑いかけた。
奈緒子と一緒にソファーに座って店内を見渡すと、壁には写真集で見た夫婦で子供
を抱いている写真が飾ってあり、その下にトロフィーが飾って有る。瑞希たち以外
に2人の客が待っている。店には4人の女の人が居て、1人は若くて二十歳くらい
に見えるが他の3人は30代前半くらいに見える。
瑞希は奈緒子に声を掛けた女の人の手の動きを見つめた。子供の頃から何度もカッ
トに行っているが、あれだけ早く指が動くのかと驚いた。

「瑞希さん、凄いやろ」瑞希の驚いている様子を見て奈緒子が笑いかけた。一番端
でカットしていた客が終わると、先に待っていた女の人が案内された。
「奈緒子さん、お待ちどうさま、どうぞ」しばらくして奈緒子が声を掛けられると
瑞希に先にするように勧めた。瑞希は椅子に案内されるとカバーを掛けられながら
「有希といいます、今後ともよろしくお願いします」と鏡に映った瑞希に微笑みな
がら声を掛けられた。
「噂は奈緒子に聞いたけど、こちらこそよろしくね」瑞希も鏡の有希という人に笑
いかけた。カットが始まったが瑞希は鏡を見ながら驚いた。髪がカットされている
のは分かるが髪に抵抗が無いのだ。最初にコームで揃えられる時は抵抗を感じたが、
カットが始まるとまるで抵抗が無い。今までの店では髪を揃えて指に挟み、揃える
ようにカットしていたが、揃える時や指に挟む時には少なからず髪に抵抗を感じた
ものだが、この人のカットは指に挟まずコームの背で掬い上げるようにしながらカ
ットしている。

僅か十数分でカットが終わると若い子がシャンプーを始めた。瑞希がシャンプーを
している間に奈緒子がカットされている。シャンプー、トリートメントをしてドラ
イヤーで乾かしている間に奈緒子もカットが終わり、もう1人の女の人がシャンプ
ーを始めた。
「香織、ちょっと頼むね」有希という人はもう1人の女の人に声を掛けると奥のド
アから出て行った。この人も写真集に数カット載っていて、奈緒子の話では全国大
会で3位になったと言っていた。瑞希が終わって奈緒子を待っていると、奥のドア
から女の子が出て来た。
瑞希にこんにちは〜と微笑むと横に座ってカットを見ている。奈緒子に見せてもら
った写真集に載っていた女の子のようだが、150センチを超えていそうな背丈は
とても小学生とは思えなかった。瑞希も子供の時から大柄だったがこの子も小学生
にしては大きい方だろうと思った。

「希ちゃん?」瑞希は写真集に書いてあった名前を思い出して聞いてみた。女の子
は瑞希に振り向くと、はい、と微笑んだ。
「何年生?」
「今3年生で来年4年生になります」瑞希は3年生と聞いておどろいた。身長から
みて5年生か6年生くらいと思ったからだ。この子も瑞希と同じくらい大きくなる
だろうと女の子を見つめた。目のクリッとした可愛い女の子だ。奈緒子が子供服の
モデルをしているらしいと言ったがそれも頷ける。
「の〜の、いいよ」瑞希たちより先に待っていた人が終わると女の子に声を掛けた。
「奈央姉ちゃん、前髪だけ揃えてね」女の子は笑いながら椅子に座るとカバーを掛
けられている。瑞希たちより先に来ていた2人が店を出ると直ぐに2人の客が入っ
て来た。奈緒子はシャンプーが終わり、香織と呼ばれた女の人がブローをしている。
若い女の子は床に散った髪の掃除を始めた。

暫くして奥のドアからから有希という人が出て来ると、女の子をカットしていた人
がカットを終わって出て行った。奈緒子が終わると先ほど入って来た人が椅子に案
内されている。
「奈緒子、お茶でも飲んで帰ろうか」料金を払いながら瑞希が振り向いた。
「瑞希さん、この近くには喫茶店が無いんよ。駅の近くに行けば有るけど、歩くに
は遠いしタクシーに乗るほどの距離やないし・・・帰った方が良いかも」奈緒子が
言うと瑞希は笑いながら頷いた。
「奈緒子さん、紅茶で良かったら奥で飲んでいったら ? 口に合うかどうか分から
ないけど」有希さんという人が笑いながら声をかけた。瑞希と奈緒子が顔を見合わ
せていると
「お姉ちゃん、おいでよ」希という女の子が愛くるしい顔で笑った。瑞希は女の子
ともう少し話がしてみたいと思って頷くと奥のドアから案内された。奥のドアから
入ると左手にドアがある。
「ここはロッカー室だよ」女の子が笑いながら更に奥のドアを開けた。中に入ると
住居の方のリビングらしく、テーブルとソファーが2つあり、その奥がダイニング
になっていて右手が玄関になっている。

先ほど女の子をカットしていた、奈央姉ちゃんと呼ばれていた女の人が休憩してい
て横に男の子が座っていた。
「おばあちゃん、紅茶を入れて」女の子が奥の襖を開けて声を掛けると、祖母らし
い女の人が出てきた。芳江婆やより少し若そうだが、女の子に見せた笑顔は優しさ
に溢れている。
「お邪魔します」瑞希と奈緒子は声をかけてソファーに座ると、女の子が男の子の
横に座った。
「弟なん?」瑞希が女の子に聞いた。
「はい、弟で翔っていいます。今幼稚園です」女の子が瑞希に言って男の子に向け
た笑顔はこのうえない優しさに満ちている。紅茶が2つと女の子と男の子にジュー
スとケーキを持って来ると、2人の子供は嬉しそうな顔をしている。
「翔ちゃんが可愛いんだね」瑞希が笑いかけると女の子は嬉しそうな顔で頷いた。

「お父さんは何をしてるん?」瑞希は無性に女の子と話してみたいという衝動に自
分自身が驚いた。今までこんな気持ちになった事がなく、女の子の笑顔に不思議な
ものを感じていた。
「パパはね、大工さんだよ。工務店をやっててこのお家もパパが建てたんだよ」女
の子が嬉しそうに言うと、男の子も女の子を見ながら嬉しそうにしている。瑞希は
この姉弟(きょうだい)を見ながら瑞希と浩貴が子供の頃の姿と重なった。瑞希も弟
の浩貴を可愛がっていたから女の子の気持ちが分かるような気がする。瑞希はリビ
ングとダイニングを見渡しながら、外壁はコンクリート仕様だったが、内部は天然
木をふんだんに使っていて落ち着いた感じがする。壁には父親と一緒に山で撮った
と思われる写真がパネルに入れて飾ってある。

「そう、このお家はお父さんが建てたん。凄いね。希ちゃんはお父さんが好きなん
だね」瑞希が笑うと女の子は更に嬉しそうな笑顔を見せた。瑞希はその笑顔に吸い
込まれそうな錯覚を覚えて戸惑った。奈央姉ちゃんと呼ばれていた女の人が失礼し
ます、と挨拶してお店の方に出て行った。入れ替わりに香織と呼ばれていた女の人
と若い子が一緒に入って来た。
「あのね、みんな交代で休憩するんだよ」女の子が笑うと、2人はそれぞれにコー
ヒーと紅茶を入れている。女の子がリビングにおいてあったアルバムを持ってきた。
「これは子供服の撮影にパパと行った時のだよ。撮影の後カミナリが落ちてロープ
ウェーが動かなくなって歩いて降りたんやけど、途中から足が痛くなって困ってい
たらパパが背負ってくれたんだよ」女の子は嬉しそうに話しながらアルバムを見せ
てくれた。

瑞希と奈緒子は千畳敷と書いてある看板の前で撮った写真や登山道を歩いている写
真。木曽駒ケ岳山頂の看板の前で笑っている写真を見ながら、9月の終わりごろに
新聞やテレビで騒いでいた、落雷でロープウェーが動かなくなったというニュース
を思い出した。
「あの時に登ってたん?ニュースでは大勢の人が降りれなくてホテルや山小屋に泊
まっていたって言ってたけど、パパと歩いて降りたん?」瑞希は山の事はあまり知
らないが、木曽駒ケ岳といえば3000メートルクラスの中央アルプスで、歩いて
の登下山は本格的な登山経験者のする事と思っていたが、小学3年生が歩いて下山
したと聞いて驚いた。女の子は笑いながらその時の様子を話してくれたが、女の子
の口振りは父親に全幅の信頼を寄せているようだ。女の子がこれから少し勉強です、
と笑いながら二階に上がったのを機に瑞希たちも帰る事にした。ロッカー室の方か
ら店に入ると有希さんという人にお礼を言って店を出た。

「ねっ、有希さんって良い人でしょう。大阪のお店に居た時からそうやったけど凄
く優しいんよ」奈緒子は一緒に歩きながら瑞希に笑いかけた。
瑞希は奈緒子に頷きながら、有希という人より希という女の子の方に惹かれていた。
有希という人のご主人、希という女の子の父親とはどういう人なのか、興味が沸い
て会ってみたいと思っていた。
「奈緒子、あの子の父親っていう人に会った事はあるんか?」
「いえ、会った事はないけど優しい人らしいよ。お店に奈央さんと香織さんって居
たやん。あの人たちもお兄さん、お兄さんって慕っているらしいわ。大阪のお店に
行ってはった時もみんなが慕ってはったんよ。一度だけ大阪のお店で見かけた事が
有るけど話はしてないんよ。でも、優しそうな人やったわ。希ちゃんね、お父さん
にベッタリなんよ」奈緒子は笑いながら言うと通りがかったタクシーに手を上げた。



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