妙法蓮華経 如来寿 ほん 第十六 真読 (自我 private 現代語訳、付き ,,, in Shift-JIS en-code

■自我得仏来  所経しょきょうしょこつしゅ 無量百千万 億載阿僧 (無数)私(=お釈迦様)が仏になって以来、 既に数えきれないほどの永い永い 歳月が経っている。 (久遠実成の仏陀)
※29歳で出家。 35歳で正覚(悟り)し仏陀(覚者)。成道。
一説において2月15日安祥として80歳で入滅(死去)。
  説法せっぽう  無 しゅ 衆生しゅじょう  りょう 仏道  来無量 こう仏以来、常に法を説き、衆生を教化してきた。 無数億の衆生を仏道に入らしめた。
その時以来無量劫である。
  衆生故 方便現涅槃       常住説法衆生を済度せんが故に、 方便で涅槃を現わした。
つまり、実際には滅してはおらず、 常にこの娑婆世界にいて、常に説法し続けていたのだ。
   ■我常住於此 以 ずう 令 てんどう衆生  すいごん而不見私はいつでもここ (娑婆世界/ あなたの心の中) に居るけれども、
諸々の神通力により、 心がひっくり返った(自己を中心に物事を見る)衆生には、 私が近くにいるにも拘わらず、私の姿は見えないようなっている。
 ■衆見我滅度    広供養舎利  げんかいれん   しょうかつごうしん普通の衆生は、私が死んで、 仏舎利に線香を上げ、いわゆる供養するときだけ ことごとく皆、私を偲び、 逢いたいという渇仰の心を起こすだけです。  衆生 ぶく  しちじき意柔軟 『一心 よっ ぶつ  しゃく、しんみょう』。私を信伏している衆生は、 心も柔軟で素直であり、
『私に逢いたいと一心に願う。 逢えるなら身命をも惜しまない、とまで考える。』
 時我  ぎゅうしゅそう   りょうじゅせん  我時  衆生 『常在此そういう状況になった時、 私は弟子とともに霊鷲山に繰り出し、 衆生に言うのです。
『私はいつもにここに居て、死んでなんか、いないんだよ、 と。
 ■以方便りっ故 現  余国有衆生  ぎょう、しんぎょう、者、方便力によって、 滅と不滅とを現わしている (= pretend する) のだよ。
だから、たとえ他国であろうが 私を敬い、法を学びたいと、心から願う人がいるならば、
 ■我ちゅう  無上法』無上の法を説いてあげるために、
私はこちらの方から彼の所へ、出向く程なのだよ。』と。
 にょ聞此  たん我滅度   しかし、あなた方は、私が滅度したということ以上のことを考えようとない。
だから、あなた方は私のこの言葉を聴くことは無い。
 ■我見衆生 もつ在於苦海  為現身 令 ごう私には、殆どの衆生は、 苦しみの海の中に沈んでいる、ように見える。
だからといって、私は自分の姿を容易に見せる様なことはしない。
仏の教えを求める渇仰の気持ち(真の信心)が生まれるように、 逆に、敢えて、身を隠すのだ。 

--- いつでも仏と逢える、いつでも教えを聴けると、一心に教えを求め、道を求めようとしないもの、だから。---
 ■因心恋慕  ない出為説法 神通力如是 阿僧祇どうしても私に逢いたいとの恋慕の心こそが、 私が説法に出向くかの要因なのです。
阿僧祇劫という無限に永い年月の間、 いつも、神通力是くの如し、である。
 ■常在りょうじゅせん  ぎゅう しょ しょ 衆生 こう尽  だい しょしょう時、私は霊鷲山と 他の国土に常に居たのである。
年月が尽きてこの世の終りが来ると、 大火で全てのものが焼き尽くされるのだ、 と衆生が考えるとしても、
 安穏 天 にんjow充満  おん堂閣 種種宝 しょうごん実は、私の国土は安穏な世界であり、 常に天人で満ちあふれ、
美しい花園の中の御殿は、 皆種々の宝で荘厳に飾られている、
 ■宝樹 衆生 しょ、遊楽  ぎゃく 、く 常 衆妓 がく宝の樹木は華や実に満ち溢れ、 衆生が楽しく遊ぶ所であり、 天人たちは天の鼓を打ち鳴らし 常にもろもろ(衆)の音楽を奏でる、  ■雨曼陀羅 散仏 ぎゅうだい衆 我浄土   衆見焼尽、曼荼羅華の花の雨を降らせ、 仏や大勢の人々の上に散る。
このように、私の浄土は壊れないのであるが、 しかし、衆生はこの世は焼け尽きる、と考えている、
 怖諸苦悩 如是 しつ充満  衆生 以 あくごう因縁、また、恐怖とあらゆる苦悩 そして、この類がことごとく世に充満する、と考えている。
この多くの罪深き衆生は 悪業の因縁により、
 阿僧祇 聞三 ぼうみょう  しょしゅどく 柔 しちじき者、阿僧祇劫の歳月を経ても(= 永久に) 三宝 (仏[私の名前]・法[悟りの内容]・僧[坊主]) の名も聞くことが無いかも知れない。
しかし、諸々の功徳を修めた、 心が柔和で素直な者達は、
  そっかい見我身  ざい説法 わくじ、衆 説 寿無量すなはち皆、 私がいつも、この世に居て、説法している、 その私の姿を見るのだ。
私は、時にはこういう人達の為に 仏の寿命は無量だと、説くのである。
 ない見仏者 為説仏難値 我智りき如是 慧光照無量、また、久しい時を経て、やっと私を見れた人に対しては、
それ故、仏の教えを得るのは難しい、と説く、のだ。
私の智慧の力はこのようになっているのです。
-- ( お釈迦様は、ちょっと、あまのじゃく。 ) --
つまり、智慧の慧光は照らすこと無量にして、
( or 無量の人を照らし、 仏の智慧の力で救われない者は居ない)、
 寿命しゅこう 久しゅごう所得  にょ有智者  もっ しょう疑。智慧の寿命は無数劫の永きにわたる、のです。
これらは、私が久しい間、修行して得た結果に他ならない。
真に智慧のある者は これを疑ってはな(勿)らない。
 tou りょうよう尽 仏語実   如医善方便  おうこれは、断じて、永遠に尽き守るべき事柄である。
仏である私の言葉は真実であって、決して偽りはない、と。
これは、 狂った我が子を救おうとした、 医善方便の譬えと同じである、
 実在而ごん死 無 のう 妄 我 やく  しょげん者。実にはあれども、しかも死すと言うに、 能く、その医者をうそつきだと言う者はいない、の如し。
我も亦、これ、世の父として、 諸の苦患を救う者なり。
 ぼんぶ、てんどう 実在而 ごん滅 以常見我故  しょうきょう、しん凡夫の心は転倒しているから 彼等には、実在していても滅したと言う、のです。
、また、絶えず仏の姿を見ていると、 それが当たり前と思い、ありがたみの気持ちを無くす。
すなわち、おごりの心を生じ、
 ほういつじゃく五欲  悪道中 我常知衆生  ぎょう行道、勝手気ままとなり、五欲に執着し、 地獄・餓鬼・畜生の境界に堕ちてしまうのである。
私はいつでも衆生が 道を行じているか、行じていないか、が分かるのです、
 ■随応所可度  じゅ法  まい是念 以 衆生  得入無上道 速成就 ぶっだから、その人に応じた済度が可能であり その為に、手を変え品を変た説法を実践するのです。

そして、私は、いつも念じているのです。
どうしたら衆生を 無上の仏の道に入らせて、 仏の境地に、速やかに成就 (= 悟りを得る)させてあげられるか、と。


© 徒温堤湾 F.IMAI as of Nov.17. 2007.      Link: 方便品
いっしょう、大 おうじょう,, (小喬) (キョウ、おご・る) is only one unicode &x618d; の source ,,,,
こう or かつ--梵 kalpa の音写「劫波」の頭略、古代インド時間最長単位
而,爾=2, 此=4, 其=5, 為,以,謂=1, 無=6, 於=O/ To, 亦=89, 諸=所=処
三宝/寶名 -- text は、ぽう(P176)、方便力故のりっ/りき、も同様
前の五単語を読み切る前に、次の五単語の頭の発音を確認しておく、となめらかになる。
五音絶句の偈形式は、先頭と、真中の発音と、を確保すると、覚え易い??!!。
• Paradigm shift パラダイム シフト(枠組み移行)している。 ever lasting life. 『信心』が私に逢える keyword.
• 衆生が悟り(法)を得る、心をより深くする、のを助ける効果向上の為の方便として、入滅、というシチュエイションを組み入れた...
---- イエス・キリストが十字架の刑で、人類の罪を一身に背負って人柱になられた.... との、キリスト教の話、と、シナリオが似ている -- why?。
• 釈迦の命が∞、なんて理屈はどうでもよいことだ。神通力の性質(信心の法則性)を記している所が偉い。 ..我智力如是.. ココ goo.
2000年以上前(このお経は、そのタイムカプセル) にこのレベル、とは、スゴイ。鳩摩羅什も偉い。聖徳太子もこの漢文を読んだ。
• 釈迦の出家/正覚の年齢 29歳/35歳説 , 19歳/30歳説 -- どちらが正しいの?