エルディが幸せになれないような世界なら、守る必要なんてない。

 

 

 触れた瞬間に浮かんだそんな思いは、ひどく自然に己に馴染み、

だからレキウスはごく当たり前にそれを受け入れた。

 

 そっと指でなぞると、木の皮の固い感触。そこに付けられた傷を辿る。

 リチア

 拙いながらも、やはりそう読めた。レキウスにとっても、特別で大事な少女の名。

「……エル」

 この場にいない、もう一人の幼馴染の名が零れ出る。その声が少し掠れていて、どうやら自分は感動しているらしいなと他人事のように思った。

 

 数年前、二人と逸れたレキウスは大人達と共に、この場所で―――木漏れ日の森の大木の前で、彼らを見つけた。

『エルディがいたずらして木を傷つけてしまったの』

 リチアの言葉に疑問は抱いた。でも当人が何も弁明しないものだから、そんな事は忘れてしまっていた。

「そういう、ことか……」

 樹の民は、自然を尊ぶ。無闇に木を傷つけるような真似はしない。

 樹の村に、生まれの違うエルディを、だからといって余所者と思う者はいない。何よりも、エルディ自身が樹の民であると自負している。

 ならば、樹を傷つけた、そこには理由が在った筈。

 その理由を、今みつけた。

 

『ふしぎの森の最奥、言葉を操る大木に自分以外の名を刻めば、その人は幸せになれる』

 そうだった、あの日エルディは、ふしぎの森に行くと言って村を飛び出したのだ。

 けれども彼は道に迷い、ふしぎの森に辿り着けなかった。つまりは、そういう事。

「この木だと、思ったんだな」

 ふっ、と笑みが零れる。

 今のレキウスからすると随分と低い位置にあるその傷は、あの頃の自分達の高さ。

 小さなエルディは、目一杯腕を伸ばして刻み付けたのだろう。

 何より大切で、誰よりも幸せになって欲しい少女の名を。

 

 口元が勝手に綻ぶ。

 これは、エルがリチアを何よりも大切に思っている、目に見える証拠。

 嬉しくて堪らない。

 

 多分、自分はリチアに恋をしているけれど、

 エルの事が大好きだ。

 

 リチアはエルにだけ、何も背負わず、心から嬉しい、楽しい笑顔を見せる。

 その笑顔を、守りたいと思う。

 

 村も勿論大切だけれど、何より自分はエルディとリチアを守りたい。

 二人が笑っていられるような場所を守る。突き詰めればただ、それだけのこと。

 良い奴、と評される事の多い己がこんな単純な行動理念で動いているだなんて、きっと今思考を読まれでもしたら、皆驚くだろう。

 

 リチアに笑っていて欲しい。

 エルディに幸せでいて欲しい。

 それが叶わない世界なら、守る必要なんてない。

 

 ただ、それだけのことなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 見事に色づいた赤が、綺麗だと思う。

 

 手にしたくじらトマトに齧り付くと、採れたてならではの香りと味が口中に広がる。

 うん、豊作だ。

 籠一杯のトマトを手に、エルディは満足気な笑みを浮かべる。

 周りも概ね同じような反応で、喜びを共有できる感覚にまた、愉快になる。

 

 明るい表情を見渡していると、人々の中心に居たリチアと目が合った。

 笑いかける。柔らかな微笑が返る。ますます嬉しくなる。

 

 リチアが傍にいた人に話しかけられ視線が外れたので、エルディも再び周囲に目をやる。

 もう一人の幼馴染の姿は見えない。

 

「んー……」

 先日守人に就任したばかりの親友は、今日も忙しいらしい。

 さて、何日顔を合わせていないのだっけ。

 指折り数えて、エルディは少し眉を寄せる。

 村人の多くから、しっかり者という評価をされているレキウスなので、何かあるとは思わない。

 なので、これはちょっとした感傷だ。

 毎日引っ張りまわしていた相手を、こう何日も見失えるものなのか、と。

 

「うーん……」

 有体に言えば、少し寂しい。

 今、どこだろう? 少しだけでも話せないだろうか。

 それに、レキウスはしっかり者、それを否定する気はないけれど、だからと言って全く心配事が無いわけでもない。

 真面目で責任感が強い。それは確かに彼の美徳なのだけど、それが過ぎて無理をしていないか、とか。

 何事もソツなくこなすように見えて、時折やけに要領の悪い所があるのだ、あの幼馴染は。

 その真面目さや優しさ故だろう、気付くと取るに足らない事で悩んでいたり、貧乏くじを敢えて引いていたりする。

 だからできれば、毎日顔を見たい。

 今日だってリチアとは会っているようなので、聡い彼女が何も思わなかったのなら何も問題なんかないんだろうけれど、でもやっぱり自分の目で見て、何も気負っていないなと安心したい。

 

 

 どうにも煮えきらず、食べかけのトマトをもう一口齧る。

 やっぱり美味い。人間美味い物を口にすれば幸せだ。

 

「……ふむ」

 収穫物は、この場にいる者が優先して選んでいって良い。勿論この場に居ない者にも分配して届けられるけれど、それはおそらく明日になる。

 もう一口。

 明日でも充分美味しいだろうけど、この美味しさは採れたてだからこそ、だよな。

 

 結論付けて、エルディは色艶の良い物を見繕って、籠に入れていく。

 多分、本人が居たら他の者へ譲るだろう、良さそうな物を。

 今は、他の村民よりも親友を優先させてもらう。

 

 だって、誰より真面目に生きている奴が報われないような仕組みは間違ってる。

 

 リチアは、何をおいても己が幸せにしようと決めている。

 だからレキウスは、自力で幸せになってもらわないと困る。

 

 

 

 己の中にある法則は、とても単純なもの。

 二人が幸せになれないような世界は、あってはならない。

 ただ、それだけのことなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 →1章

 

 

レキウスが守人就任すぐ、ということなのでこの辺の二人は12〜14歳のようですね。←自分で書いてて推定調

いや、レキウスは就任する歳になってもなかなか言い出さなかったとあるので、13歳後半〜14歳くらいをイメージしていただければいいかな?