朝顔

 

 

 

「受け取ってください」

 それを差し出すと、古泉君は笑顔の中にちょっとだけ困ったような色を混ぜた。

 

「あの、朝比奈さん・・・・・・?」

「受け取ってください、古泉くん。コレ自体は、持ってないんですよね?」

 わたしは更に、緩く降参しているような古泉くんの掌にそれを押し付ける。

 いつもと同じ、放課後の文芸部室。早く受け取ってもらえないと涼宮さんと彼が来てしまう。

 

「ええと・・・女性から指輪を受け取るわけにも・・・・・・」

「はぐらかさないでください。違うの、わかってるでしょう」

 そう、判っている筈なのに。この指輪の効能を知っていると、古泉くん自身が言ったのだから。

 

「・・・・・・いただけません」

「駄目です、認めてください」

 古泉くんの笑みに、涼宮さんがこの場に居たなら欠片も見せないのだろう、困惑が滲み出てきた。

 困らせたくはないのだけど、わたしも退けない。

 わたしは捨てようとしていたけれど、古泉くんはわたしにそれを捨てないでと言った。

 それで、古泉くんも同じだと、気付いたの。

 

 この人も、同じ想いを抱えていると。

 

 

 

 

 この指輪は、駅前のファンシーショップで見つけたもの。

 効能を見て、どうしても通り過ぎる事ができなかった。

 隣には、もっとはっきりしたものもあったけれど、それはわたしには大それた願い。

 だけど、これくらいは。そう思って、思ってしまって、ついエメラルド色したプラスチックに手が伸びた。

 

『好きな人に、好きと言える勇気が湧く指輪』

 それが、この指輪の効能。

 

 恋愛成就なんて望みません。そんなのは、誰も望みはしない事。

 誰も。そう、わたしも、望みません。

 それは、わたしがここにいる意味を失うという事だから。

 

 だけど・・・・・・だから。

 いつか、彼に。最後の時でいいから、伝える事さえできれば。そう願う事は愚かなこと?

 そう、愚かなのでしょうね。だけど、この胸に秘める想いを無かったものにはしたくない。

 

 伝えればきっと、優しいあの人はわたしを気遣ってくれる。彼を困らせる、苦しめるこの恋。

 一度この世界を危険に晒しておいて、それでも消す事のできない我侭なこの心。

 

 重かった。それはひ弱なわたしに、とてもとても重く圧し掛かった。

 あまりに重くて、わたしは折角買った玩具の指輪に全て押し付けて、捨てようかと思った。

 形有る物に預けて、捨てる。きっとわたしはこの為にこの指輪を買ったのだと。

 

 

 それを、押し留めたのは古泉くんだった。

 わたしの恋は、彼の立場からしてもマイナスにしかならない。

 なのに持ち続けて欲しいと請うたのは、古泉くん自身の想いがあるから。

 彼は、わたしに重ねたのだ。だからこそ謝った。わたしに投影することで身軽になりたがった。

 だけども、そんなのは、認めるわけにいかない。

 古泉くんもわたしと同じだけの物を背負わなければ狡いと思う。

 

 ・・・・・・ううん、違うの。

 狡いとか、そんなんじゃない。

 わたしはあの時、ただ古泉くんに捨てて欲しくないと思った。

 古泉君が、想いを伝える、ただそれだけの事すら既に諦めてしまっている事がわかって、悲しくなった。

 ただ優しい気持ちだけではいられない事をもう知っている、この恋という想いは、だけども綺麗なものだと信じたくて、古泉くんの持っているのも綺麗な感情と信じたくて。捨てて欲しくないと、強く思った。

 わたしは、あなたに止められて、捨てなくて良かったと思っているから。

 だから、

 

 

 

「お願いします古泉くん、わたしと共犯になってください」

「え?」

 古泉くんの拒絶が少し弱まった。その隙にわたしは指輪をその形の良い掌に押し込め、握らせた。

「あ、あの・・・」

「男の子に指に着けろだなんて言いません。わたしはこうしてお守り袋を作って入れてますから、良ければ同じものを作ります。お願いします、わたしと一緒に、願いくらいはわたし達だって持っていていい筈です」

 必死に言い募ると、古泉くんはキョトンとした表情をしていた。

 いつも落ち着いている彼だけど、今は年相応に『後輩らしい』顔で、ちょっと可愛かった。

「古泉くん?」

「・・・・・・ああ。なんだ。もう一つ買われたのでしたか」

「え?」

「いえ、朝比奈さんの身につけておられた物かと早合点しまして、すみません・・・・・・」

 そう言って、古泉くんはちょっと罰の悪そうな顔で笑った。

 ああ、そっか。

 わたしが、古泉くんと同じ事をしようとしたと疑ったんだ。

 

「しませんよ、そんなこと」

「そう・・・そうですね。大変失礼致しました」

「ううん、いいの。でも信じてください。もうわたしは捨てません」

 そう、もう二度と捨てたりはしない。

「わたしは、勇気が欲しいんです」

 わたしの決意をできる限り瞳に込めて、彼を見た。

 

 古泉くんは少し驚いたような顔をして、それからゆるゆると微笑んでくれた。

「・・・・・・はい」

 その笑顔は、やっぱりちょっと可愛かった。

 

 

「じゃあ、これ受け取ってくれますよね?」

「え・・・・・・」

 今なら、と思ったのだけど、それとこれとは別らしい。やっぱり渋られた。

 

「どうしても、嫌ですかぁ」

「嫌・・・と言いますか、実はですね」

 古泉くんはちょっと逡巡する様子を見せた後、しゃがみ込んでズボンの裾に手を掛けた。

「実は、既にこのようなものを身につけておりまして」

 男の人にしてはすんなりとした左足首に、わたしの指輪と似た雰囲気の細い鎖が巻きついていた。

 

「古泉くん、それって・・・・・・」

「ええ、駅前の」

 古泉くんが口にした店名は、確かにわたしが指輪を買った店と同じものだった。

 

 アンクレット・・・・・・アンクレットの効能は何だったかな?

 でも、こうして古泉くんが今、見せてくると言う事は、

 

「認めてくれた、と思っていいの・・・?」

「・・・・・・はい。負けましたよ朝比奈さん」

 古泉くんはそこで眼を閉じると一度深く息をつき、

 

「認めます。僕も、あなたと同じ想いを抱えていると」

 

 確かに、そう言った。

 

 

 

 

「ありがとう、古泉くん」

「いいえ。こちらこそ、ありがとうございました」

 古泉くんのありがとうがどんな意味なのか、わたしには推測するしかできないけれど、多分それでいいのだろう。

 

「でもどうしましょう。この指輪」

 たかが100円の安物であるけれど、意味合いから言って適当に扱いたくはない。

 ちょっと困ったわたしに、古泉くんが少し悪戯っぽく微笑んだ。

「共犯というなら、もう御ひと方、引き入れてみては?」

 そう言って、窓辺を示す。・・・・・・ああ。

 

「強敵ですね」

「ええ、本当に」

 ふふ、笑みが漏れたわたしに、古泉くんもクスクスと笑う。

 窓辺の彼女は、恋敵としては本当に強敵で、共犯として申し分ない。

 

「古泉くん、お願いできますか?」

 本当はわたしから誘うのが筋なのかもしれないけど、やっぱりちょっと彼女は苦手で、古泉くんの方が上手くやってくれると思って。

「了解しました。そうですね、朝比奈さんはお茶を淹れてくださいますか?」

「わかりました」

 

 わたしがお湯を沸かしていると、古泉くんはごそごそと鞄から何かを取り出した。

「ちょうど今日はお茶請けを持ってきたんですよ。頂き物の横流しで恐縮ですが」

 その掌に乗っているのは、小さなブリキのお菓子缶。

「わあ、可愛いですね」

「でしょう?」

 男の子の手には不釣合いな洒落たデザインの缶は、だけどもどこも良く手入れされていそうな古泉くんにはやけに似つかわしかった。

 

「長門さん、クッキーはいかがですか?」

 古泉くんの呼びかけに、長門さんはずっと本に向いていた顔を上げた。

「お、お茶も入りましたぁ」

 古泉くんがクッキー缶を差し出すのを見て、慌ててお茶を注いで机の端に置いた。

 

「頂き物の横流しで恐縮ですが」

 古泉くんが全くさっきと同じ台詞を紡いだ。

 あれ?と首を傾げていると、気付いた。ブリキ缶の蓋のツマミに、わたしの買った指輪が引っ掛けてある。

「ついでのようで、申し訳ありません」

「ふえ!?いっ、いいえっ!」

 古泉くんが頭を下げたので、わたしは慌てて首を振った。

 わたしが押し付けたのだから、渡す方法に文句なんてある筈がない。

 そんなわたしに、古泉くんは柔らかく目を細め、長門さんに向き直る。

 

「よろしければ、それごと受け取っていただけませんか?」

「お、お願いしますっ!」

 頭を下げたわたしの視界の上端で、長門さんが蓋から指輪を摘み上げたのが映った。

 

「・・・・・・・・・」

 そっと伺うと、長門さんは無機質な瞳で指輪を見つめ、それから気のせいでなければ少しだけそれとは違う色を混ぜた感のある眼差しで、わたしと古泉くんに順に視線を流し、口を開いた。

 

「……そう」