土井半助というその若い教師が忍術学園にやってきた時、山田伝蔵はすぐに彼に興味を持った、というわけではなかった。
もちろん、まだ二十歳を少し過ぎたばかりの半助は、ここの教師としては格別に若かった。 とはいえ、学園長が採用した男だ。優秀であることは間違いない。だとすればなおさら、なぜこの若さで忍者として名を成すことよりも、教職という道を選んだのであろうか。そのような一般的な興味は持ったものの、それだけといえばそれだけだった。 ちょうど同時に、半助よりも五つほど年上の、これもやはり若い忍者が、新任教師としてやってきたところだった。名を板野仮井名という。学園長はこの二人を、すぐには担任を持たせず、まず1年間は試用期間として、この学園自体と「教える」ということに慣れさせることにした。そのため二人はいろいろな学年の子供達に不定期に授業を受け持ったり、学園内のさまざまな用事をこなす生活を送っていた。 伝蔵のほうはしっかり担任を持っていたから、クラスの子供達の世話で忙しく、格別この若い二人にかかわっている暇はなかったのだった。 それでも一度、板野とは話す機会があった。夕食のとき、板野のほうから伝蔵の横に来て、あいさつしたのだった。 「ここで一緒に食べてもいいですか?」 「ああ、むろんかまわんが」 板野は嬉しそうに伝蔵の向かい側に腰をおろした。 「どうかね、だいぶ慣れたかな?」 伝蔵は若い教師の緊張をほぐそうと、愛想よく自分から話し掛けた。 「いやー、まだまだ、覚えなければいけないことが多すぎて……」 板野は苦笑いしながら答えた 「それより、山田先生のような優秀な忍者の方と、こうやって御一緒させていただけて、光栄です」 「世辞なら学園長に言ったほうがよいぞ。喜ぶからな」 「そういうものですか?」 「……冗談じゃ……」 板野に真顔で聞かれて、伝蔵はちょっと困った。 「いえね、僕の父は一流とは言いがたかったですし、甲賀とか伊賀とか丹波とか、有名な里の出身でもありませんしね。こんな一流の学園の先生に僕がなれるなんて、思わなかったんですよ。実際、先生方は皆さん一流ですしね。そんな中で僕みたいなのが正式に採用してもらえるには、学園長にお世辞のひとつも言えないと駄目なのかなと思いましてね」 「大切なのは実力じゃよ。出身など関係ない。あれで学園長は人を見る目は確かだ。安心なさい」 「そうですかあ? でも僕なんて今までずっと……」 それからしばらく、板野は自分のことを話し続けた。 伝蔵は、あいづちを打ったり、励ましたりしてはいたが、板野には悪いがだんだんどうでも良くなってきた。 実際、少なくとも伝蔵にとってはどうでもいいことだった。板野はずいぶんと血筋や家柄を気にしていたようだが、そんなものは忍者としての実力には関係ないし、この学園で教師としてやっていくのにも必要はないと、伝蔵は思っていた。 しかし、おかげでこの板野という男についての情報はかなり豊かになったし、そのせいか顔をあわせれば言葉を交わすことも多くなった。 だが、やがて時たつうちに、伝蔵も、また他の教師たちも、次第に土井半助に対する興味が強まってきた。 その異例の若さが目を引いたのは当然として、この男、いつもにこにこと笑顔を絶やず、あっというまに子供達の心をつかんでしまった。どんな雑用もせっせとこなすし、先輩教師たちに対する礼儀も心得るため、年上の者としてはつい目をかけてかわいがってあげたくなるタイプだったから。 ただし、「かわいがってあげたくなる」のは普通の社会の場合である。ここは忍者の学校なのだ。教師陣は皆一流の忍者ばかりとなると、少し話は変わってくる。 こんなお人好しの好青年が本当に腕の立つ忍者だったのかだろうか。 これがもし演技なのだとしたら恐ろしい。しかし、純粋な低学年の子供達があれだけなついているのだ。おそらく、これが彼の地なのであろう。では、こんな裏も表もなさそうな明るい青年が、一流の忍者だったとは思えない。それなのになぜ、この学園に来たのか。 一般社会ならば好意をもって受け入れられるはずの彼の資質が、ここではむしろ、疑念を引き起こす結果となっていたのだ。 伝蔵の場合、それは単なる好奇心に過ぎなかったが、半助に強い不信感を抱く者もいた。 それが遠慮なしに表に出るようになったのは、半助が来てから半年ほどたった頃だった。学園長が土井半助を火薬庫の責任者に任じたのだ。 数年前まではやはり、火薬庫の管理を任された教師がいたのだが、その教師が引退し、学園を去ってからは道具管理の吉野が兼任していた。それでは大変だということで、火薬庫はほかの道具とは切り離し、半助に任せたのだった。 これに対して、半助を以前からうろんな顔で見ていた教師たちが、ろこつに反発し始めた。 といっても、学園長の決定に逆らえる者などいない。なぜ、彼なのかと聞いてみたところで、「半助が適任じゃ」の一言で終わってしまう。 必然的に、教師陣の不満は半助本人への攻撃となって現れてしまった。 その急先鋒が安藤だった。半助のいる前で、「学園長もさすがにお年を召されて、神通力を失われたのではないですかな」とか、「最近の若い者は、腕を磨くよりまいないで上に取り入る者が多いといいますからな」などと平気で嫌みを並べていた。そして自分では何も言わなくても、安藤の言葉にうなづいてみせる者も少なからずいた。 もちろん、すべての教師がそうではなかった。 ある時、伝蔵は大砲の授業で使うから火薬を出してくれるように半助に依頼した。すると半助は、何寸の筒を使うのか、何年生が使うのかと尋ねてきた。火薬の質や配合により、筒の大きさに最適のものがあるのだそうだ。特に下級生ならば、最適の火薬を使ったほうが、狙いを付けやすいだけでなく、安全性の面でも安心だ。しかし、上級生ならば、実戦でいつも最適の火薬が手に入るわけではないので、いろいろ試してみるのも勉強になるだろうと言う。 正直伝蔵は舌を巻いたのだ。そのようなことが重なって、次第に伝蔵は、学園長がなぜこの若者を採用し、大事な火薬庫を任せたのか分かる気がしてきた。そしてそれは伝蔵だけではなく、ほかにも、何人もの教師が、半助の資質を認めるようになっていったのは確かだ。 にもかかわらず、半助に対する批判や陰口は消えることはなかった。伝蔵はむしろ、そのことのほうが不思議だった。 ある時伝蔵は率直に、しかし角の立たない言い方で、その疑問を口にしてみた。「なかなか出来るやつだと思いますが」と。 相手も不承不承それは認めた。しかし続けて、 「たしかにそうかもしれません。しかしなんと言うか、あの者は板野と比べると、得体の知れないところがありますな。ここはただの忍者集団ではなく学校なのですから、もう少しオープンになってもらわないといけませんな。それとも山田先生は、あの土井半助がどこの出身だとか、親の職業だとか、ここへ来る前何をしていたかだとか、チラとでも聞かれたことがおありかな?」 そう言われてしまえば返す言葉もない。 伝蔵は、さして他人の過去など知りたいとも思わなかったが、少なくとも半助と同時期に来た板野のことは知っているが、半助のことは知らない。それは事実だ。 「まあ、あんたの言うことも一理あるとは思いますよ」 伝蔵はそんなふうに言って、なんとなく曖昧にしてその教師と別れた。 その日の晩のことだった。伝蔵は食堂で、近くにいた安藤と、板野の会話を耳にはさんだ。 「そうなんですよ。同じ部屋にいる僕の身にもなってくださいよ」 板野はすっかり安藤とはうちとけているらしい。何か愚痴をこぼしているようだ。 ふだんならばどうでもいいことと聞き流すのだが、「同じ部屋」ということは、土井半助のことだろう察しがついた。昼間のこともあったので、伝蔵はつい聞き耳を立ててしまった。 「べつに僕だって、根掘り葉掘り聞き出そうってわけじゃないんですよ。だけど、一緒にいたら、世間話ぐらいするじゃないですか。それとも先生方は、自分のことは秘密にしなければならないんですか?」 「そんなことはないよ。特にコンビを組む先生のことは、お互いに知り合えば知り合うだけ、息も合うからねえ」 安藤は板野の言うことに同調している。 「でしょう? 僕もそう思うんですよ。彼とコンビを組むかどうかは分かりませんが、少なくとも今は同じ立場で力を合わせなければと思っているのに、向こうにはそういう気はまったくないみたいなんです。僕が一流じゃないからバカにしてるのかもしれないと、このごろでは思えてきましたよ」 「いやいや、きみはなかなか優秀だよ。学園長が認めたんだからね。その君をバカにしているとしたら、これは問題だよ」 「でも彼は大切な仕事を与えられたのに、僕には何も……」 「まあ、それについてはいろいろな噂があるからねえ」 安藤は意味ありげな言い方をした。 「それについては僕はべつに……。ただ、愛想がいいだけに無気味なんですよね。何も分からないというのは」 「そうだねえ」 そんな会話はいつまでもうだうだと続いた。 伝蔵はなんとなく、なぜ半助に対する批判がなくならないのか分かったような気がした。 おせっかいかもしらんが……。と思いながら、伝蔵は半助の姿を捜した。が、自室にもいなければ、忍たま長屋にもいない。火薬庫にも行ってみたが、しっかり閉まっている。 心当たりをあちこち捜してみて、再び職員寮に戻ってきた伝蔵は、ふと、何かを感じて屋根を見上げた。 登ってみると案の定、半助が一人でぼんやり月を眺めていた。いや、月などどうでもいいのかもしれない。膝を立て、ほおづえをついてただぼーっとしていた。 考え事、というふうでもない。寂しそうでもない。だが、伝蔵が今まで見たことのない、空虚な表情をしていた。 「土井先生」 伝蔵は努めて明るい声で呼び掛けた。 半助は、はっとして振り返るとすぐに、いつもの笑顔を見せた。 「こんばんは。山田先生もお月見ですか?」 「土井先生もお月見、というわけではなさそうですな」 半助はちょっと驚いた顔をしてから、ばつの悪そうな表情になった。 「山田先生は、私になにかおっしゃりたいことでも?」 「なぜそう思うのかね?」 「……なんとなくですよ」 「言いたいことがあるのはあんたのほうじゃないのかね?」 半助はちょっと考えてから、つぶやくように言った。 「私は、べつに何も、考えてはいないのです」 伝蔵は一瞬、あっけにとられた。 「考えてない?」 「ですから、目の前にあることに精一杯で、何か企んだり手を回したりとか、そういうことは何も」 「なるほどな」 伝蔵は、半助の言うことはきっと本当なのだろうと思った。 それにしても、こういうことを言うということは、やはりいろいろな噂や中傷が耳に入っていて、それなりに気にはしていたらしい。 「わしはあんたが何か画策しているとは思っておらんよ」 半助はほっとしたように伝蔵の顔を見た。 「しかしな、いろいろ言われることには、あんたにも多少の原因はあると思うぞ」 「それは、私が欠点だらけの人間だということはもちろん承知しています」 「そういうことではない。あんたは優秀だし、人柄もいい。だが、だからこそギャップが激しいんじゃよ」 「ギャップ?」 「そうじゃよ。わしも疑問に思ったことはあるぞ。優秀だと思うからこそ、なんでまたその年で忍者としての栄達を諦めて教師になろうなどと思ったのか。人柄が良いわりには、なんでだれとも腹を割って話そうとしないのか」 伝蔵の穏やかな口調ながら率直な物言いは、半助の心に届いたようだった。まっすぐに伝蔵の目を見つめている。伝蔵は、この青年は、本当は人間関係に真摯なのだと思えた。 「何も無理に話せというのではない。こんな仕事をしていれば、だれだって脛に傷の一つや二つあるものだ。話したくないことはだれにでもある。だが、さしさわりのない世間話程度にもあんたが乗ってこないから、一緒に頑張ろうと思っていた板野くんなどにしてみれば、不信感を抱いても仕方あるまい。まあ、あれはあれでちょっと、しゃべりすぎの面がなきにしもあらずだが」 半助は月に目を戻した。が、やはり月など見てはいないようだ。その横顔がひどく寂しそうに見えた。 「私は、ただ癖になっているだけなのです」 どうも半助の言うことは、少々意外性があって着いて行くのに戸惑いを覚える伝蔵だった。 「癖、とは?」 「板野さんが話すようなことは……自分は言ってはいけないと……」 半助が口籠るのは、今は伝蔵と話したくないからではなく、本当は何かを訴えたくて必死に言葉を探しているのだと、伝蔵は思い、しんぼう強く耳を傾けた。 「生まれ故郷のことも、両親のことも、一時期はこの土井という姓さえも、決して口にしてはいけないと……。ヘタなことを口にすれば、命にかかわると、子供のころに、そう思い込んでしまったのです」 伝蔵は胸を衝かれた。そうだったのか。伝蔵にはそれで十分だった。幼い子供が、愛する親のことも、誇りにしてよいはずの姓さえも口にできないとは。戦忍びとして働いてきた伝蔵には、そのような状況に置かれた子供というのがどういう立場なのか、聞かなくても察しはついた。 半助はなおも言い募った。 「もう、関係ないのです。昔のことで、どうでもいいことなのです。けれど……」 半助の声が震えてきて、膝の間に顔をうずめてしまった。 「自分でもどうしてなのか……私は、私にとっては昔のことなど……」 伝蔵は生徒にするように、半助の頭をなでた。 半助が自分のことを語らないのは、話したくないのではない。肩に負ったものが重すぎて、心につかえたものが大きすぎて、言葉になって出てこないのだ。 「もうよい、もうよい。分かった、分かった」 半助の肩が震えた。 「私は、ただ子供達が可愛くて、ただそれだけで……」 「だからもうよい」 半助はそれ以上何も言わなかった。 「あんたはきっといい教師になる。わしが保障する」 「ほんと、に……?」 「ああ。本当じゃよ。大丈夫じゃ。あんたはいい教師になれる。大丈夫」 伝蔵はずっと、半助の頭をなでていた。 は組の子供たちを追いかけて怒ったり泣いたり、笑ったり、安藤の嫌味にムキになって言い返す半助を、伝蔵は目を細めて見ていた。 今でも、職員の中で半助の生い立ちを知る者はごくわずかだったし、まして子供達には決して語ろうとはしない半助だった。が、あれ以来、降り積もった雪が端から少しずつ溶けるように、半助は伝蔵に打ち解けていった。 例の板野のほうはといえば、1年が過ぎる少し前に、知り合いがべつの忍者の学校に誘ってくれたからと学園を去った。 半助は、伝蔵とコンビを組んでクラスを受け持つことになった。伝蔵も半助も何も言わなかったが、学園長がなぜかそのように取りはからった。 (たしかにいい教師になった。だが……) 伝蔵はひとりごちた。 (一人前になるにはまだまだじゃな) 半助が一人前になる日が楽しみなような、いつまでもこのどたばたを見ていたいような、複雑な気分の伝蔵であった。 |
あとがき?→