破籠の階(はろうのきざはし)

 目を覚ましたとき、わたしは医務室にいた。
 老婦人が心配そうな顔で寝台の横に座っていた。
 いや、わたしを心配しているのではなく、碧の死を悲しんでいるのだろうか。
 わたしはただぼんやりしていた。何も聞きたくなかったし、何をしようとも思わなかった。
 だから何も訊いていないのに、老婦人は、あの背の高い探偵がわたしをここまで運んでくれたのだと言った。
 そしてその探偵も、探偵が呼んだ拝み屋も、探偵の友人らしい刑事も、すでに学校を去ってどこかへ行ったという。
 警察も一部を残して引き上げたらしい。
 3人も……。わずかの間に3人もの学友が命を落とした。わたしはもう涙も出なかった。

 翌日、織作家でまた何人も人死にが出て、碧の姉の一人と曾祖母だけが生き残ったと、柴田さんがわざわざ知らせに来た。
 なぜそんなことになったのか、結局どういう事件だったのか、蜘蛛は誰だったのか、説明はなかった。
 ただ、これでもう事件は終わったのだと。だからわたしはもう安心していいのだと柴田さんは言った。
 安心だって? これでもう誰も殺される心配はないと? それが何だというのだろう。


 学院は閉鎖される。
 一度家に帰るように言われた。
 それでもなぜだか、わたしは帰りたくなかった。ここに一人でいたかった。あんなに嫌だった、牢獄のように感じていた学校なのに。
 もう少しだけ夕子の、小夜子の、碧の血を吸ったこの地面の上で、ここで起きた出来事を最初から一つ一つなぞっていたい。
 でも最後までこの学校はわたしを受け容れはしなかったのだろう。すぐに両親が迎えに来て、わたしは学院を去った。
 教師たちと別れを惜しむ気などなかった。ただ、小夜子を置き去りにしていくようで悲しかった。

 生徒たちはばらばらにあちこちの学校に編入することになった。一応本人や家族の意向もできるだけ尊重してくれたらしい。県内か県外か、私立か公立か、女子校か共学か。
 わたしはただ、東京に行きたい、とだけ言った。
 東京に憧れたわけではない。正直どこでもいい。ただ、東京ならたくさんの人がいる。その大勢の中に埋もれてしまいたかった。
 こんな町を出て、遠く離れて、知ってる人のいないところへ行きたかった。
 逃げたかったのではない。切り捨てたかったのだ。
 両親は東京なんかと心配するようなことを言ったけれど、今までだって寮だったのだ。会えないことに変わりはない。
 それでも反対らしい反対はなかった。わかってる。ほっとしてるんだ。わたしが出ていくことに。
 噂なんていうものがどこからどうやって漏れるものか知らないけれど、わたしがこの事件に何か関わりがあったことを、近隣の人たちは知っていた。
 売春してたかもしれないとか、教師と関係を持っていたという話だとか、犯人とつながりがあったらしいとか、その程度のことだけど。
 陰でひそひそ言う人もいれば、気遣う振りをして興味本位に何か聞き出そうとする人もいる。母はわたしに当たるような真似はしなかったが、心底うんざりしていた。
 それでも我が家はまだましなほうだったらしい。
 小夜子のところなど、死人に口無しとばかりもっと酷い状況であるらしい。
 死んでるのに。小夜子は。娘を殺された親を心から気の毒だと思ってくれるほど、世間というものは優しくないらしい。
 慥かに小夜子は人を呪った。それは愚かなことだった。でも、そうなったのは誰のせい? 元はといえば本田が悪いんじゃないか。小夜子はなんにも悪くなかったのに。被害者なのに。どうして殺されてまで、その親まで、酷いこと言われなきゃならないの?
 人を拒絶するのは建物じゃない。人なんだ。
 もういい。
 何だか何もかも厭になって、振り切って、切り捨てて、踏み潰して、何処かへ行きたかった。


   東京の学校でも、やはり好奇の目はあった。寮があるような、つまりはまたいわゆるお嬢さん学校だ。3年生になるというこんな時期に転入してくる子は、なくはないが少ない。いたとしても大概は親が仕事の都合で外国に行くとか、地方に一時的に行くが学校は東京がいいとか、そういう娘たちが寮付きのこの学園に編入してくることはあるらしい。
 当然のこととして、今までどこの学校にいたのかよく訊かれた。わたしは隠そうとは思わなかったから、特に説明もなしに学院の名前だけを答えた。
 事件を知っている人もいれば、知らない子もいた。
 事件のために転校を余儀なくされたと察する子もいれば、田舎の小金持ちが見栄を張って東京の学校に来たと解釈する人もいた。
 どうでも良かったので放っておいた。
 それでも田舎の町のように嫌な噂をたてられることはなく、それなりに親しく言葉を交わす人たちも数人できた。

 新しい生活に馴染むことに必死だった日々が落ち着くと、枯れたように乾いていた感情と疑問が今になって湧いてきた。
 結局……蜘蛛は誰だったのだろう……。 
 あの日、織作家で亡くなった人たちの誰かだったのだろうか。碧に鍵を渡した人物……。
 それとも、もしかしたらその人もまた操られていただけで、全然別の場所にまだ蜘蛛が生きていたりするのだろうか。
 そんなことを知ってどうするというのだろう。柴田さんは、事件は終わったと言った。現に、それ以後今に至るまで何も起きていない。誰も死んでいない。
 終わったのだ。
 それでも、真相を知りたいという気持ちを抑えることができなかった。
 なぜ小夜子たちがあんな目に遭わなければならなかったのか、本当のことを知りたい。
 そう思うそばから自分で否定する。
 知ったからって、誰も生き返ってはこない。
 知ったら、わたしはその人を憎むかもしれない。きっと憎むだろう。怨むだろう。
 だけどそんなことは不毛だ。
 蜘蛛が死んでしまっているのなら、恨み言の一つも言えない。真相を知ったからって、かえって虚しくなるだけだろう。
 生きているなら? 問い詰めたいの? 糾弾したいの? 復讐したいの? その先に何がある?
 先のことなんかどうでもいい。小夜子には知る権利があったんじゃないのか。蜘蛛のいとに操られて人生をもて遊ばれ、命まで奪われた人間には。
 小夜子の代わりに知りたい。何を聞いても納得なんかできるはずはないけれど。
 いや、わたしにはそんな権利はない。それは酷い目に遭ったけれど、それは教師や大人たちが馬鹿だったせいだ。事件の直接の被害者じゃない。
 それに、絶対得心いかないことがわかっていて聞いたってしょうがないだろう。
 だけど、だけど、だけど……。

 否定に否定を重ね、正当化し、挙げ句、4月の終わりの祝日に、わたしはついに神田に向かった。    





破籠なんてことばはないです。単なる雰囲気です。突っ込まないでください。エノミユとも思えない暗さですいません。


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