破籠の階 弐

 神田の神保町としか知らない。でも拝み屋さんのことはもっと知らないし、柴田さんに連絡を取るのははばかられる、というよりあまり気が進まなかった。
 いきなり押しかけたりして不審がられるかもしれないが、あのときのお礼を云いに来たという口実がある。
 見つからなかったら見つからなかったでいい。また次の休みに探せばいい。そんなつもりで実に無計画にわたしは寮を出た。
 休日の外出は、門限さえ守れば自由だ。山間にあって、外に出てもほかにどこに行く当てもなかった千葉の学院と違って、ちょっと歩けばいろんなお店がある。
 東京に来てから、学校の外に出るのは初めてだった。
 民家の玄関先、商店の入り口には日の丸が並んでいる。人の流れに押されるようにして電車に乗ってようやく、みんな皇居に向かっているのだと解った。

 神保町で降りて、とりあえず古書店街へ向かった。探偵社が見つからなくても、古本屋でも眺めて歩いたら一応神田まで来た意味があるような気がしたから。まるで云い訳みたいでおかしかったけれど。誰に対する云い訳なのかもわからなかったけれど。
 ただ、わたしはそこに至ってまだ迷っていたのだ。
 探偵に会って、どうするというのだろうか。
 何を訊くつもりなのだろうか。
 何を云ってほしいのだろうか。
 1軒、古書店を覗いては足を止める。
 こんな、何もわからないまま尋ねても、どうしようもないのではないか。
 あるいはあの探偵は怒るかもしれない。呆れるかもしれない。軽蔑するかもしれない。自分が何をしようとしているのかも決められず、ただ他人に頼るような行為なんか。
 子供じゃない。あのとき、そう云ってくれた。
 嬉しかった。
 でも、今の自分は子供だ。他力本願の子供だ。
 迷いながら、次の本屋の前に歩を進める。
 わたしは多分今、自分が真相を知るべきかそうでないのかすら、他人に決めてもらいたがっている。
 自分の意思はどこにあるのだろう。
 そして突然、云いようのない不安に捕らわれる。
   ここに来たのはわたしの意思。それは確かだ。でも。
 それすら計算して操っていた人間がいたのではなかったろうか。
 もし蜘蛛が生きているなら、わたしのこの行動もまだ蜘蛛のいとの内にあるのではなかろうか。
 そこで足を止める。
 やめようか。
 自分が探偵に会いにいくことで、何かがまた始まってしまうのかもしれない。
 いや、違う。
 わたしは、だって、駒ですらなかったんだ。
 ただ周りで勝手に怒ったり怯えたりしていただけ。
 いや、それも違う。
 小夜子はわたしだったかもしれないんだ。
 蜘蛛にとってはどっちでも良かったはずだ。
 たまたま小夜子は死んだ。たまたまわたしは生きている。それだけ。

 大勢の人がわたしの背中を通り過ぎる。
 人が一人行き過ぎるたびに、一本糸が張られていくような気がした。
 張り巡らされた糸から、白い手が伸びてくる。
 わたしの咽に。碧の白い指が。
 ――何にすがるの?
 ――救ってくれるのは誰なの?
 ――人を救う超越者なんて……。

 ――愚か者。

   そうだ。愚かだ。
 わたしは糸を振り切るように走り出した。
 居る。人を救う超越者は居る。
 今は信じればいいんだ。わたしが信ずるべき超越者を信じて呼べばいいんだ。
 わたしはただの馬鹿な子供なんだから、わからないことはわからないと云えばいい。

 走ったら古書店街を抜けてしまった。その通り沿いには探偵社はなかった。
 仕方ないので、線路と反対側に向かって曲がってみた。この辺をしばらく歩いて見つからなかったら、線路の向こう側へ行ってみよう。そんな程度のいい加減さで歩いていたら、前方に堅牢な建物が目に入った。周囲とは明らかに趣を異にする。
 予感というより確信めいたものを感じ、走り寄った。
 見上げると、一番上の3階にだけ、仏蘭西窓があった。なんだか、らしい、と思った。探偵社らしいと思ったのではなく、あの探偵らしいと思った。
 少し建物に沿って歩いたら、すぐに入り口が見つかった。榎木津ビルヂング。やっぱりここだ。
 結局何も決めないまま、半分夢中で来てしまった。

 そっと扉を開けると、階段があった。
 静かで、自分の心臓の音が反響するかと思った。きっと走ってきた所為だ。
 一段ずつ踏みしめるようにと階段を上がった。
 「薔薇十字探偵社」と金文字の書かれたドアをノックする。
 ……。
 反応がない。
 もう一度ノックする。
 と、磨硝子の向こうに人影が見え、「はいはい」などと声がして、やっとドアが開けられた。
「おや」
 相手はわたしを見て驚いて目を見張ったが、わたしも驚いてしまった。てっきり、おそらく本名益田の益山さんが出てくると思ったのに、そこに立っていたのはわたしの知らない人だった。
 もっとも考えてみれば、探偵助手が益山さん一人とは限らない。益山さんと探偵しかいないと思い込んだわたしのほうが厚かましい。
「おや、この事務所の扉をノックするなんて珍しい客もあるものだと思ったら、こりゃ可愛らしいお嬢さんだ。何か御用で?」
 人の好さそうなその青年が愛想良く応対してくれた。
 その背後から
「何ですよ、和寅さん。飛び込みの依頼人ですか?」
と、今度は間違いなく益山さんの声がした。
「あ、あの、呉美由紀と申します。千葉でお世話になった」
 中にまで聞こえるように大きな声で名乗ると、
「呉美由紀さん?」
 益山さんが「和寅さん」と呼んだ青年を押し退けて戸口へ出てきた。
「ああ、本当だ。呉さんじゃない。よくここがわかったねえ」
「あの……」
 挨拶もろくに云えないうちに、益山さんはわたしを事務所の中に引き入れた。
「榎木津さん、ほら、こないだの女学院でお会いした呉美由紀さんですよ。そういえば東京の学校に転校したんだってねえ」
 軽い調子でそう云いながら益山さんはわたしの背を押すようにして、正面の大きな机の前に連れてきた。
 そこには、理事長室に突然現れたときのように(本当は向こうが先にいたのだが)探偵が椅子に深々と反り返って座っていた。
 今の今まで寝ていたかのような、寝惚けた顔をして。
 普通ならわたしはそこできちんと頭を下げて挨拶し、いきなりの訪問を詫びるべきなのだろうが、その顔を見たら、もしかしたらわたしのことなど覚えていないかもしれないと不意に心配になり、ついその寝惚け眼を覗き込んでしまった。
 探偵はしばらく半眼のままわたしのほうをぼうっと見て、それから急に椅子の背凭れから体を起こして、やっとぱっちりとその大きな眼を開いて、はっきりとわたしを見た。
「おお! 君はいつかの女学生!」
「呉美由紀さんですよ。たった今そう云ったでしょうに」
 益山さんが改めて正確にわたしの名前を告げてくれたが、この探偵に云っても無駄だということはもうわかっている。
「女学生君は女学生君だろうが。ね、女学生君」
「はい。まあ」
 わたしが女学生でないことはないのだから、違うとも云い難い。花子君より女学生のほうがよほど正確というものだ。
「和寅、珈琲」
「はいはい。お嬢さんはお紅茶のほうがいいですかね」
「あの、お構いなく……」
 探偵は机を離れてソファのほうに行った。
 益山さんに勧められて、わたしはなんだか恐縮しながら探偵の向かい側に座った。
「で、今日はどうしたの?」
 座ると同時に益山さんに訊かれた。
「あの」
「なんだ、君は迷ったのか」
「え?」
 いきなり探偵に思いがけないことを云われて、わたしはまたお礼を云う機会を逸してしまった。
「ああ、君も道に迷ったの? そうだよねえ。僕も初めてここに来た日に迷っちゃったんだよ。ちょうど草臥れた頃に目についたビルがあったんで来てみたら、たまたまここだったんだけどね」
 益山さんがなぜかちょっと嬉しそうに云った。自分と同類がいたのが嬉しいのだろうか。
 でも申し訳ないけど、わたしはそんなに云われるほど迷ってなんかない。
 迷っていたのは、むしろここに来るか来ないかということで。
 それは慥かに自分の行く道に迷ってはいたのだけれど。
 探偵にはそれを見抜かれたような気がした。
 それに益山さんも、探偵の云ったことをそのまま受け入れてしまって、わたしが迷ったということを疑っていない。不思議な人たちだ。
 でも、不思議だけれど不快ではない。
 むしろわたしは少し安心し、自分の選択が正しかったと思えた。
 大丈夫だ。この人はやっぱりみんな解っている。
 探偵はわたしの返事を待ってか、まっすぐにわたしの顔を見ていた。
 わたしも探偵の、そのすべて見透かすような眼を見返した。
「はい。迷っていました」
 自然に過去形で答えてしまった。
 わたしは自分の意思でここへ来た。そしてそれは正解だった。蜘蛛のいとなんか関係ない。
 和寅と呼ばれた青年がお盆にカップやらポットやらを乗せて、にこにこしながら戻ってきた。
「仕事でこんな可愛いお嬢さんと知り合いになれるなんて、羨ましい限りだな。益田君。こんなお若い方ががここへいらっしゃるなんて、事務所始まって以来のことですよ。ねえ、先生」
 やはり益山さんは本当は益田さんというらしい。
「よし! じゃあ今から遊びに行こう」
 探偵がいきなり立ち上がってそう宣言した。呆気にとられるとはこのことだ。何が「じゃあ」なのかさっぱりわからない。そして珈琲と紅茶の立場は。
「遊びにってど、どこにですよ」
 わたしの代わりに益山さんが質問してくれた。
「東京名所巡りだ! いいか、迷路なんてものは上から見たら全部解るんだぞ。解らないから迷うんだろうが。入り口と出口が見えれば迷わない! さあ、出かけるぞ」
「出、え?」
 やはり探偵はわたしが単に道に迷ったと思っただけなのだろうか。
 でもそれと迷路と東京名所は関係ないと思う。
 思いながらも、勢いにつられてわたしもうっかり立ち上がってしまった。
「先生、お嬢さんにお紅茶ぐらい……」
「馬鹿者。東京には喫茶店というものがあって紅茶ぐらいそこで飲めるんだぞ」
「いや、そんなこたァ知ってますけど、そういうことじゃなくて」
「中学生の女の子を勝手に連れ回したりしたら犯罪ですよ、榎木津さん」
 益山さんが別方向から異議を差し挟む。
「煩瑣い益山お前なんか箱根で永遠に遭難してろ。大体本人の同意を得て遊びに行くのにどこが犯罪だ」
 同意は――まだしてない。
 しかし、出かけるぞと云われて立ち上がっているのだから、きっと誰が見たって出かける気満々だ。
 探偵は今度はわたしに向けて幾分柔らかい口調で
「さ、行くよ。ぐずぐずしない」
と云った。
「はい!」
 同意してしまった。
 さっさと先に事務所から出ていってしまった探偵を慌てて追いかける。
 探偵は相変わらず早足で、どんどん階段を降りていってしまう。
 なんだかわたしはいつも探偵の背中を追いかけているような気がする。
 後ろを気にかける余裕もなく、ぐいぐいとただ前へ前へと引っ張られる。

 先に階段を降りきった探偵は扉を開けて、そこで初めて足を留めてわたしに振り向いた。
 春の陽光の中で、探偵の明るい色の髪が日をはじき、それよりもさらに明るい笑みを浮かべて。
 知らず知らずわたしも笑顔になり、日差しの下へと駈け降りた。





美由紀ちゃんの迷いや悩みはいずこへ……。いや、そんな簡単に割り切れるもんじゃなかろうと思ってうやむや。でもきっと美由紀ちゃんは榎さんに振り回されてるうちになんだかわからないけど元気が出て、当面それでいいんだと思うんですよ。って、解説しなきゃわからん文章を書くなと怒られそうです。 


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