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 それから間もなく、私は今度は一人で出掛けてみることにした。
 一人で家を出て、歩いて駅に向かい、神田に行って、先だって連れていってもらった喫茶店に一人で入って、一人で帰ってくる。ただそれだけのこと。
 まるで小学生の御遣いのようだ。
 それでも私にとってはまた新しい一歩だった。
 神田を選んだのは、あの町なら、何となく大丈夫だ、という気がしたから。
 たったそれだけのことだけれど、それでもやはり少し緊張した。
 気を張っておどおどしていたりしたら、まるで世間知らずの小娘のように見えるだろう。それではかえって変な輩に絡まれないとも限らないから、私は不安も緊張も押し隠して、いかにも街歩きに慣れた風を装った。
 成功していたかどうかは知らないけれど。
 何事もなく、神田に着いた。無事に、と云う程の距離ではそもそもない。
 探偵に連れてきてもらったその同じお店に入り、通りに面した壁際の席に座った。
 その店は通りに面して大きな硝子窓があり、硝子には半透明に薄い青色が入っていた。光の屈折の加減なのだろうか、外の歩道からは店の中は暗くてほとんど見えないが、店の中からは通りを行く人々が見えた。
 週末だったので、店内には制服を脱いだ女子学生と思われる年頃の女の子たちも連れ立って来ていた。
 私があれぐらいの歳の頃には、戦争でそれどころではなかった。
 そんなことをぼんやり思い返しながら、頼んだ紅茶が来るのを待っていた時。
 目の端に、私はそれを捉えた。
 殆ど視界から外れかけたような位置に。
 それは見えたというより気配を捉えたというようなもので。
 けれど、厚い硝子の向こう側の気配など感じられるはずもないのに。

 僅かに色が入った硝子越しにでも分かる、周囲の人間達とは異なった色合いを持ったその人が、視界の範囲の中に入ってくる。
 探偵が。
 笑って。
 手を繋いでいる。
 店内でお喋りに興じる女の子達と変わらない程の少女と。
 私には向けたことのない、心から楽しそうな笑顔で。
 探偵が話しかける。
 少女が頬を膨らませて探偵の手を振り解く。
 探偵はそれでも笑ってその手を少女の頭に置く。
 少女も笑って。
 手を繋ぎ直す二人の後ろ姿を、無声映画のスローモーションでも観るように見送った。

 気が付いたら、目の前のテーブルに紅茶のポットとカップが置いてあった。
 ほんの数秒の出来事の筈なのに、何分間も時間が停止したような気がした。
 もしかしたら本当に数分間自失していたのかも知れない。
 気持ちを落ち着けるように、ゆっくりと紅茶を口に運んだ。
 ゆっくりと。
 今すぐここを飛び出して家に帰りたかったけれど、今出たのではどこかでさっきの二人に出会ってしまいそうで怖かった。

 出てきたときの緊張すらなく、頭の中も、足も、ふわふわしたような感覚で家に帰った。
 何が目的だったのか、何をしに神田に行ったのか、何だかもう能く判らなくなっていた。
 私は……私は……。
 何故、彼の人に電話をしたりしたんだろう。
 今川橋に行くのに、一人では怖かったから。
 外に出たいのに、出るのは不安だったから。
 彼なら、全部知っているのだから取り繕う必要もなくて楽だろうと思った。
 何かあっても、探偵が傍に付いていてくれれば大丈夫だろうと思った。
 それだけのつもりだった。
 でも、本当に?
 そんなこと、考えるまでもなかった。私は自分で瞭然と解ってしまった。
 私は只、会いたかったのだ。彼に。
 もう一度、あの事件の前の自分に戻りたいと思った。
 それは、見合いの前。あの人に会う日を楽しみに待った日々。その頃に戻りたかった。
 自分が彼に相応しいと驕っていた訳ではないが、自信が無かった訳でもない。あの人の妻になるのだと、見合いをするというのはそういうことだと自然にそう思っていた。
 何故それを諦めなければならないのか。
 今度こそ彼に会って、会って、会えば、もしかしたら……。
 会いたかったのだ。
 中等部の少女だったころに見かけた、太陽のような光度とエネルギーに溢れたあの人に。 希臘彫刻のように美しかった彼に。
 好いて欲しかったのだ。私は。

 でも──。
 彼が私に触れないのは、私を気遣ってくれていたからではなかった。
 私には触れてくれない手。
 私には向けられない笑顔。
 互いに遠慮のない軽口でもきいていたものであろうか。
 これから先、どれ程時間を重ねたとしても、きっとそれは私のものにはならない。
 私はあの少女のようには彼の傍らに在ることはできない。
 私には、解ってしまった。







 
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