それから一年近くを、私はほとんど屋敷に引き籠もって過ごした。
 妹が亡くなって消沈しきっていた両親も、数箇月たつと少しずつ元の生活に戻ろうと努め始め、私の身を案じて地方へ旅行に連れていってくれたりした。
 それでもやはり華やいだ所には行く気になれず、人里離れた温泉場で、山深い景色を愉しむという程度だった。

   事件から一年が経つ頃、私は漸く自分の将来を考え始めた。
 一生こうしているわけにはいかない。いずれは両親も年老いるのだから。
 結婚などもう望めそうになかったし、何より私自身がとてもそんな気にはなれなかった。他人と接するのが厭だった。見知らぬ男性など、視線を感じるだけで鳥肌が立った。
 ならば、どうにかして自力で生活が立つようにならなければ。
 そうは思っても、すぐには職業婦人になろうという気力も湧かない。自分に何ができるのかも解らない。
 ぼんやりと、親しくしていた乗馬倶楽部の調教師の女性を思い出す。
 私より幾つか歳上だった。慥か結婚はしていないようなことを云っていた。親の遺産で生活には困らないのだという事も云ってはいたけれど、それがなくても調教師の腕だけで食べてはいける筈だ。
 あんなふうに、独りでも颯爽と生きられたら、いや、生きなければ。
 少しずつ、ぼんやりとだけれども、屋敷から出て何かしなければいけないという思いだけは、私の中に芽ばえ始めていた。
 私と同じくあの男の被害に遭った女性と話してみたいと思った。けれど、そんなことは調べようもなかったし、中禅寺さんは譬え私にでも明かさないだろう。
 あの男の犠牲者でなくてもいい。同じように性的被害に遭った女性と話してみたい。どうやって事件を乗り越えてきたのか。これからどうすれば善いのか。
 自分から事件を公表でもすれば、そういう女性達と接触することも可能かもしれないけれど、もちろんそんな事は出来なかった。
 結局、私は一歩も動けないままだった。

 そして妹の一周忌を迎えた。
 法要もひっそりと行われた。
 妹の死について、その後も新聞では真実ほんとうのところは取り上げられなかった。
 私も両親には中禅寺さんから聞いたことを告げなかった。
 それでも不審死というだけで、我が家としては盛大な葬儀や法要を行うにはどこか後ろめたかったのだ。
 親しくない人間が集まって、何やかやと詮索されるのが厭だったのかもしれない。
 妹が哀れだった。
 もしの世というものがあるのなら、魂などというものがあるのなら、妹は今、私に何を云いたいだろうか。
 恨み言だろうか。
 それとも悔恨や、親への謝罪の言葉だろうか。
 情けない私を、叱咤するだろうか。
 何をどう思っても妹に申し訳なくて、私はあれ以来初めて、自分から外へ出た。
 運転手に命じて、神奈川県の大磯へ向かった。

 八月の終わり。海の近くにも人影は少なかった。
 車を道路に止めさせ、私は一人で海岸に降りていった。
 これから青春の最も輝かしい時間ときを迎える筈だった妹。その最後の日々をこんな田舎で、家と連絡を取ることも出来ず、どれほど心細かっただろう。

 松林を抜けて砂浜に出たところで、私は驚いて足を止めた。
 大袈裟でなく、心臓が止まるかと思った。
 人が、居たのだ。
 それが地元の子供だったら驚きはしない。
 飾り気のない綿か麻のざっくりしたシャツに、アメリカ人がよく履いている濃いブルーの筒服ズボンを穿いた、背の高い男性。海からの強い風に煽られる髪は茶色く陽に透けて。煙草を銜えて海を見ている鼻筋の通った横顔は白く。その姿は絵空事のように綺麗だった。
 やがて、私の視線に気付いたのか、彼が此方を向いて、少し目を見開いた。
 如何どう、すれば善いのだろう。何と云えば……。何か、云うべきなのだろうか。
 彼は、私のことを覚えているだろうか。あの見合い写真の私と、今のこの私が同じ人間だと判るだろうか。
 少しの間見詰め合った後、私は只頭を下げた。
 顔を上げると、彼は銜えていた煙草を取って、頷くようにほんの僅か会釈をし、そのまま私に背を向けて砂浜を歩いて行ってしまった。
 私はそこに佇んだまま、何時までもその後ろ姿を見ていた。  







 
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