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その日から、私の中で何かが蓋を開けてしまったような気がした。
理不尽だ、と思った。 何故、凡てを諦めなければならないのだろう。卑劣な犯罪の被害者であるのに、なぜ此方が世間の目を憚って生きていかなければならないのだろう。 世にそのような女性達が居ることは知らないではなかった。気の毒なことだと思っていた。 けれどそれは逆に云えば、被害女性がそのような理不尽な扱いを受けることを認めていたのだ。諦めるのが当然だと思っていたのだ。だから気の毒だと思ったのだ。 そして同じようにして、私は自分自身を哀れんでいたのだ。 でもそんなのは厭だ。 戻りたい、と思った。見合いの日を指折り愉しみに待っていた頃に。 勿論戻れるわけはない。私の体は元に戻らないし、妹も帰ってこない。 それでも、幸せになろうとすることを諦めてしまうのではなく、まだこれから自分には未来があるのだと思えるところに、戻りたかったのだ。 そして私はほとんど衝動的に、探偵事務所に電話をかけた。 電話には探偵事務所の秘書を名乗る男性が出た。私は名を名乗り、探偵に直接お願いしたい事がある旨告げると、秘書は酷く狼狽えた声で、よく意味の把握できない言葉を発して探偵を呼んだ。 間もなく電話口に出た探偵は、思ったよりも低い声で、掛け直すので少し待っているようにと云って電話を切った。 一分も経たずに彼のほうから電話がかかってきた。私は改めて名を告げ、 「先日は……」 ありがとうございました、と云おうとして、そこで我に返った。 自分が妹を悼みに行ったときに彼処に居たものだから、勝手に妹の一周忌に来てくれたような気になっていたけれど、考えてみればそんなことはないだろうと思う、多分。 私は彼と見合いすらしなかった。全くの赤の他人なのだ。その妹などはさらに無関係だ。いくら探偵として事件に関わったとは云え、一年も経ってわざわざ事件現場まで足を運ぶ必要もないだろう。 「実は、お願いしたいことがございまして。個人的に」 「個人的に?」 訊き返してきた声が穏やかなことにほっとした。 「お仕事の依頼ではないと云うことです」 「それで?」 息を一つ吸い込む。 「江戸川の、河川敷に行きたいのです。妹が……罪を犯したその場所へ。でも、一人では怖くて……」 彼は黙って聞いている。 「一緒に、来ていただけませんか」 少しの間が開いた。 断られるかもしれない、というより断るほうが普通だろうと思っていたし、それでも構わなかった。 「運転手がいるのでしょう?」 「それでは駄目なのです」 電車や乗合に乗って、人混みの中を通って出て行けるようにならなくては。 そう云うと、彼は存外あっさりと承諾してくれた。 そうしてその翌日、私は自宅の最寄りの駅まで運転手に車で送らせ、そこで探偵と待ち合わせをして江戸川の今井橋へと向かった。 電車の中で、彼は私の隣に座らなかった。他の乗客の視線を遮るように私の前に立っていた。そして私の頭上の窓越しに、少し眼を細めて外の景色を眺めていた。 今井橋付近で乗合バスを降り、川縁を歩いた。浮浪者だろうか、酷く汚れた襤褸を着た人間が2、3人、川で何か捕まえようとしているのが向こう岸に見えた。 妹のことよりも、どうしてもあの男のことを思い出してしまう。まだ残暑の残る季節であるのに、私はぞくりとして自分の二の腕を 河川敷に降りると、探偵は辺りを見渡してから橋の方に向かって少し歩いた。足を止めてからまた周りを見回して、この辺だね、と云った。 私も彼のところまで歩いていった。 彼は水際の石を爪先で蹴りながら、 「ここで 「ここで……」 彼は現場に来ていたのだろうか。それとも写真でも見たのだろうか。 私は彼の示した場所に、持ってきていた小さな花束を置いた。 あの男の為では勿論ない。妹への供養でもない。この一年余、泣いて過ごした自分への訣別だった。 自分を哀れんで、あの男を憎んで、世間の目を憚って、そんなふうに生きるのはもうやめよう。 私は、私と同じ目に遭った女性達は、傷つけられたのであって傷物なんかじゃない。 人間として恥ずべきは犯人のほうであって、私たちが自分を恥じる必要などない。 妹が可愛い手を罪に染めてまで守ってくれた私の人生を、私が大切にしなくてどうするというのだろう。 そう決意したら、悲しくはないのに涙が零れた。 行きに待ち合わせた駅で探偵と別れた。 迎えに来た車に乗り込む前に、私は彼に尋ねた。 「また、お会いしていただけますか?」 彼の形の良い唇が、笑みの形を作るように口角を上げた。 人形のようだと、私は思った。 |