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それ以来、私は彼に同伴を頼んで、少しずつあちこちに出掛けるようになった。
初めは人混みを避けて、日比谷公園や御苑などを散策するところから始めた。 それから美術館に行ってみた。平日だったのであまり客もいなかった。存外に彼は興味深そうに眺めていた。 そう云えば彼は芸術にも堪能なのだと、昔噂で聞いたことがあった。 けれど、その後音楽会に行ってみたときには、五分もしたら寝入ってしまって、終わるまで起きなかった。 音楽はお嫌いですかと訊くと、音楽は好きだがクラシックは眠くなるから嫌いだと云った。 でも、華族の家柄に生まれた者が、クラシック音楽ぐらい幼少の頃からたしなんでいない筈はない。何か楽器を習わされませんでしたかと訊くと、だから嫌いになったのだと、厭そうな顔をした。子供の頃に強制されたものは大概嫌いなのだそうだ。 社交界にそんな事を云う男性はいなかった。自分の技能や知識は披露したがるものだし、苦手なら隠すものだ。 その屈託の無さに、私は思わずくすりと笑った。笑ってから、それが本当に久し振りだったことに気付いて自分で驚いた。 一度笑ってしまったら、何だか気分が軽くなった。 映画も観に行った。 街の喫茶店という所に行ったことがなかったので、神田で人気のあるお店に連れて行ってもらったりもした。 帰り際、いつも私は、またお願いできますかと尋ねた。何処に行きたいと云っても、彼は付き合ってくれた。 行った先で寝てしまうことはあるにしても。 電車や乗合に乗るときには、今川橋に行ったときのように、私をガードするように立ってくれたし、馴れ馴れしく私に触れて不快にさせることもない。 だから私はとても安心していられた。 もし、見合いをしていたら、こんなにくつろいだ気持ちで彼の どうしたって、自分を飾ろう、少しでも良く見せよう、相手に気に入られようと意識せずにはいられなかっただろう。 幸か不幸か、もう私たちは そうやって何度か外出を重ねて、出歩くことに慣れた頃、私は、今度は少し遠出をしてみたいと申し出た。 私が大好きだった場所。 とても大切だった場所。 妹との想い出の深い場所。 それだけに、悲しみも恐怖も大きくて、今まで足を向けることができなかったけれど。 でも一生このままにはしたくなかった。 もう一度、以前の私に戻るために。 ──武蔵野の馬場へ。 ──馬に、乗りたいのです。 ずっと妹と一緒だった。もう一人なのだと思い知るのはきっとつらい。 また誰かに、邪な人間に見られるのではないかという恐怖もある。 だけど、こんなことで大好きだったものを捨ててしまわなければならないのは悔しい。 あんな人間のせいで、私はこれ以上何も諦めたくはなかった。 神田の喫茶店でそう云ったとき、向かい側に座った彼は、私の申し出に初めて意外そうな顔をした。 と云うよりそれは、彼が私に初めて見せる不可解な表情だった。 驚いた、という様子でもなかったけれど、一瞬固まったように見えた。 僅かに眉を顰めたような気がしたけれど、かと云って迷惑そうでもなかった。 乗馬はお嫌いですか、と訊いてみた。きっとこれも子供の頃強制されている筈だから。 「いや……」 彼にしては何だか曖昧な返事をして、彼は そしてそれは初めてのことではなかった。私は気付いていた。時折、彼が私を通して何か別の物を視るような視線を向けることに。 それは比喩ではなく、文字通り、 何を視ていらっしゃるのですか──。 何度かそう訊きかけては どんな答をもらっても、何だか寂しいような気がしたから。 だからその時も、黙って彼の返答を待った。 「貴女は馬が好きなんですか? 乗馬が好きなんですか?」 「は?」 予想外の質問に少し、考えた。 それは同じことなのではないのだろうか。 それとも、私の答如何によって、武蔵野に行ってくれるのか断るのか決めるのだろうか。 どうして今回に限ってこうなのだろうか。 「両方、ですわ」 正直に答えたつもりだった。 「あんな狭いところでぽくぽく歩いていて、よく退屈しませんね」 「あら、歩いているだけじゃありませんわ。駆歩もあれば障害物もありましてよ。外乗することもありますし」 「それだって歩いているのと大して変わらないじゃあないか。僕は子供の頃すっかり飽きてしまった」 やっぱりそんなところか、と、私は少し可笑しくなった。 「ちょうど馬もつまらなさそうだったから、大人どもの隙を突いて思いっきり走らせてみた。馬も気持ちよさそうだったぞ」 得意げに話す彼が、なんだか可愛らしかった。 初めて、彼と儀礼的でない会話をしているように思った。 「そういう時の馬の筋肉の動きはね、ぽくぽくしてる時より絶対綺麗だよ」 そう云って彼は愉しそうな笑みを浮かべた。 そうなのかもしれない。所詮私は馬の望むままに全力疾走などさせたことはない。本能の赴く儘に、最大限にその力を解放させた時の動物は美しいのかもしれない。 目の前にいるこの男もそうだろうか。 彼が幾つぐらいの時の逸話か知らないが、周りの大人はさぞ慌てふためいたことだろう。でも屹度彼は、幼い時からそういう生き物なのだ。何物にも捕らわれないほうが生命力に溢れて美しいのではないだろうか。 軍隊とか、財閥とか、そんなものの中で幾ら能力を発揮できたとしても──。 「でも──」 何故だか私は初めて彼に反論したくなった。 「乗馬倶楽部の中で生まれ育った馬ならば、その枠の中で生きるほうが幸せかもしれませんわ。人間社会しか知らない犬を、好きに生きろと云って突然野生に放り出してもありがた迷惑でしょう?」 そう云うと彼は、慥かに、と云って、また私越しに何かを見るように、少し目を細めた。 「本当に、大丈夫なんですか? 「大丈夫ではないかもしれません。でも行きたいんです」 なら行きましょうか、と、やっと彼はそう答えた。 |