久し振りに馬場へ行った。
 丁度紅葉の季節でもあり、街中とは違った、空気に草の匂いの混じっているような田舎なのに、寧ろ華やかさを感じさせる景色を見て、ああ、来てみて善かったと思った。
 馬に乗る気になれるかどうか行ってみるまでわからなかったけれど、乗馬倶楽部に着いて馬を見て、鼻面や首筋を撫でていると、その可愛らしさに、やはり乗ってみようと思えた。
 久し振りだったので、1時間ほど軽く馬場の中を回るだけにしておいた。
 乗馬倶楽部の者は、私と一緒に来た人間が榎木津家の御曹司だと判ると驚いたり狼狽したり恐縮したりした挙げ句、恐らくはあわよくば会員になってほしいという思惑の許に、気に入った馬があったらお乗りになりませんかと勧めたが、彼は結局乗馬はしなかった。
 私が馬に乗っている間、馬場の隅に立って、馬や、柵の外のほうを眺めていた。
 事件の経緯いきさつを知っている筈なので、周囲に警戒してくれていたのかもしれない。

   帰り際、私が親しくしていたの女性調教師が、もう随分前にここを辞めたと聞かされた。
 何処かほかの倶楽部の仕事が忙しくなったのか、調教師自体を辞めたのか、ここの従業員も知らないということだった。
 今度会ったときにはいろいろ訊いてみたいことがあったので、残念に思った。
 帰り道、探偵は何時になく無口で、ほとんど私の顔も見なかった。
「やはり乗馬はお嫌いでしたか?」
 無理に誘って不愉快だったのだろうか。心配してそう訊くと、やっと彼は軽い調子で答えた。
「だから乗らなかったじゃないか。馬は嫌いじゃあないよ。彼処はなかなか佳い馬がいたね」
「ではまたそのうちご一緒していただけますか?」
 別れ際の問い掛けに、彼は常時いつものように人形めいた綺麗な笑みを浮かべた。


 家に帰ると、母がさりげなさを装いながら、何かと私に話し掛けては様子を聞き出そうとした。
 最近しばしば出歩くようになった私を、両親は喜ぶというよりも、とまどっている様子だった。
 最初は、万一また私の身に何かあってはという心配だったようなので、榎木津様と一緒だから大丈夫だと云うと、今度はまた別の心配を始めたようだ。
 強姦された女が傷物だと思っているのは世間だけではない。両親からしてそうなのだ。
 だから今さら、嘗て見合いする筈だった殿方と会ってどうするのだと思っているのだ。
 いや、どうにもならないだけなら善い。万一事件のことが露見したら……。
 それでもそんなことは娘を傷つけまいとしてか、はっきりとは云えないから、ことさら遠回しに探るような云い方をする、訊き方をする。
 莫迦莫迦しい、と思う。
 本当に娘を可哀想と思うなら、もう将来の無い者のように扱うのではなく、私という存在は、事件によって少しも否定されるものでないことに気付いてほしい。
 いや、両親が守りたいのは私自身だけではなく、家の体面でもあるのだろう。
 それでもさすがに両親も、体裁が悪いから出歩くなとは云えないから、私も、榎木津様はどうせ全部御存じなのだから善いのですなどと云い訳する気にもなれない。
 そんな私をどう扱って善いのか解らないのだろう、少し他人行儀に、母が一冊の小冊子パンフレットを差し出した。
 母は母で、その日は上流階級の御婦人方の、何やらの集まりに行ってきたらしかった。
 そこでこれを配られ、寄附をお願いされたのだという。
 それを何故私に? と不審に思いながら手に取った。その内容が解って、わたしは少し驚いた。
 それは、性的暴力の被害に遭った女性達を助けるための団体の宣伝と、寄附のお願いが書かれたものだった。
 特定の思想を持ったフェミニストの団体ではなく、地道に、実際的に、被害女性の力になることを目的としているとのことだった。今苦しんで泣いている女性達は、世の中の変革を待ってなんかいられない。
 そういう人たちのために、どんな事でも相談に乗る、互いに励まし合える場を作る、もし訴えたいなら弁護士を紹介する、万一妊娠してしまい、中絶したいならば秘密厳守の医者を紹介する、そのための費用も援助する、等々……。
 こんな活動がどこまで実現可能なのか判らなかったけれど、私自身、同じような経験をした人と話してみたいと何度思ったか知れない。
 連絡してみようかしら。
 でも今さらという気もする。
 第一、本当に信用できる団体なんだろうか。
 代表者の名前を探すと、しっかり書いてあった。
 篠村美弥子──。
 篠村さん? 代議士の娘さんの?
 慥か私よりは少し年下で、乗馬倶楽部で何回か会ったことがある。
 外国語に堪能な才気溢れるお嬢様で、昔から少し気の強そうな印象のある方ではあったけれど、まさかこんなことを始めるなんて。

 手に職を持って自分の力で生計を得ている女性もいる。
 他人のために自ら行動しようとする女性もいる。
 いろんな自立の仕方がある……。
 私は母に礼を行って、そのパンフレットを持って自室に下がった。
 母が少し、嬉しそうに微笑んだ。







 
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