傍に居て・前

 面会ですよ、と云われて美由紀は少々不審に思いながらロビィへと降りた。
 美由紀に面会に来るとしたら家族しかいない筈だったが、家族ならば事前に連絡をくれてから会いに来るのが常だった。
 ロビィに一歩足を踏み入れて、美由紀は一瞬目を疑った。
 そんな都合の好いことがあるだろうか。
 しかし自分は幻覚を見るような人間ではないし、この人を見間違えることなどあろう筈もない。
 ロビィのソファに長い足を組んで座っている面会人は、美由紀の気配を察したかのようにふいとこちらを向いた。
「探偵さん……」
 美由紀は思わずそう声に出して呼んでしまってから、ずっと会いたいと思っていたその人に会うことに躊躇した。
 探偵に自分を、あの日の記憶を視られることを恐れた。
 探偵は、そんな美由紀の葛藤も知らずに、美由紀の姿を認めると、ふにゃりと笑った。
 その顔が何だか酷く幼く見えたので、美由紀は開き直って、と云うより寧ろそんなことは如何でも善くなって、探偵の元へ歩み寄った。
 今まで探偵は美由紀を送って学校の寮まで来たことはあったけれど、わざわざ会いに来たことなどない。
 何かあったんだろうか。
 自分に会いに来てくれて嬉しいと思うより先に、日常いつもと違うことが起こると不穏な気持ちになってしまう。
 ほんの数年前までの自分はもっと単純だったような気がする、と、美由紀は少し残念に思う。
 美由紀は近付いて、立ち上がった探偵を見上げた。
「探偵さん、な」
「海へ行こう」
 何か御用ですか、如何したんですか急に。そんな質問を美由紀にさせないうちに、何の前置きもなく、挨拶さえなく、探偵はそう云った。
「車で来たんだ。今行こう。すぐ行こう」
 美由紀はとまどった。探偵が唐突なのは常時のことだが、今行こうと云われても、もう夕方である。美由紀のほうには手続きも準備も要る。
 それでも美由紀は、大急ぎで部屋に駆け戻って上着を一枚ひっ掴むと、またロビィへ下りて時間外外出届を書き殴って提出した。
 靴を履いて上着を羽織りながら外へ出る頃には、探偵は既に数メートル先を歩いていた。
 小走りにその後を追い掛ける。
 門の前に、黒塗りの高級車が止まっていた。探偵は助手席のドアを開けて、美由紀を待っていた。
 こんな高そうな車、美由紀の父だって持っていないし、助手席に乗ったこともない。何よりドアを開けていてもらうなんてお嬢様扱いはされたことがない。
 美由紀は気恥ずかしくなって少し頬を赤らめながら車に乗り込んだ。

 乗り心地は快適だった。
 シートの座り心地は今まで体験したことがないものだったし、以前益田などから聞いていたような乱暴な運転でもなかった。
 にもかかわらず、美由紀はドライブを愉しむという気分には程遠かった。
 窓の外はすぐに暗くなり、どこを走っているのかさっぱり判らない。
 探偵の様子は明らかに常時と違う。自分から強引に誘い出したくせに、少しも愉しそうではない。
 一言も喋らず、美由紀のことも見ず、ハンドルを握り続けている。
 どこへ行くのか、不安というより心配になる。
 何か事件でもあったのだろうか。探偵に何か善くないことでも起こったのだろうか。
 美由紀は何も訊くことが出来なかった。只前方を見据えている探偵の横顔に、どんな言葉も拒絶されてしまいそうな気がした。

 どれほどの時間が経ったのか判らなかったが、とうとう探偵も美由紀も一言も発しないまま、どこかの海辺に着いた。
 探偵が車を止めて降りた。
 美由紀もすぐ後を追って降りようとしたのだが、ドアの開け方がわからなくて戸惑っているうちに、探偵が車を回ってきて外から開けてくれた。
 しまった、わざとじゃないんだけど。まるでそうしてもらうのを待ってたように見えたかなと、美由紀は少しへこんだ。探偵はお構いなしに、またさっさと歩き始めた。
 道路から脇道に入り、松林を抜け、砂浜に出た。
 海からの強い風が吹き付け、美由紀はコートの前を合わせるように両手でぎゅっと握った。
 もっと暖かい格好をしてくるんだった。慌てていたので、部屋で着ていたブラウスの上に薄いカーディガンという出で立ちに、コートを一枚羽織っただけだった。ポケットを探ってみたが、手袋も入っていなかった。 
 前を行く探偵も、街中と同じ格好で、防寒の準備万端というふうには見えない。多分本人も本当に急に思い付いて来てしまったのだろう。
 それでも探偵は身を縮めるでもなく、コートのポケットに手を突っ込んだまま、波打ち際を大股でゆっくり歩いた。 
 美由紀は少し間を開けて付いていく。
 海へ来たのはいいが、こんな季節のこんな時間、只暗くて寒くて、貝殻集めすらする気にならない。
 探偵さんはどうして海に来たかったんだろう。本当は何をしたかったんだろう。
 何も云わないということは、美由紀には話せない事なのか、あるいは話してもしょうがない事なのか。
 やがて探偵は立ち止まって、沖の方に目を向けた。
 月光に照らされて、冬の荒い波の頭が白く見える。
 美由紀は海辺育ちだから、海を見るのは好きだ。その代わり海の怖さも知っている。だから夜の海を見ても爽快な気分にはなれない。人間が立ち入ってはいけない場所のような気がするからだ。
 手が寒さでかじかんできた。
 それでも、今ここに居ることは厭ではなかった。探偵がここに居たいのなら。探偵が自分を連れてきたかったのなら。
 ふいに、探偵が口を開いた。
「たくさん人が死んだんだよ。死ななくてもよかった人たちが」
 探偵は海を見たままだった。
「僕とは関係ないところで起こったことだけど、それでもやっぱり僕のせいなのだ。きっとね」
 それは──。
 何かの事件のことなのだろうか。それとも──。
 美由紀は、探偵が自分の知らない海を見てきたことを知っている。
 その海は今のように暗かっただろうか。透き通るような南国の青だったろうか。それとも赤く染まっていただろうか。
 いずれにしても、美由紀には探偵が何のことを云っているのか計りかねた。
 訊いて上げたほうがいいのだろうか。如何どうしたんですか、と。
 それとも、何も訊かないままで、何か元気づけられる言葉を云ってあげるべきなのだろうか。
 何を云えば善いんだろう。
 この人は今何を云ってほしいんだろう。
 結局、美由紀の手には余るような気がして、何も云えなかった。
 自分なんかが何を云ったところで、慰めにもならないだろう。
 もっと大人だったら、こういう時如何したらいいのか解るのだろうか。
 例えば古書肆だったら、小説家だったら。
 あの綺麗な女性だったら……。
 今一番適切な言葉を掛けてあげられるのだろうか。

 強い風に、思わず震え上がる。
 両腕をさすりたくなって、コートの前から放した手を、しかし美由紀はそのまま握りしめた。
 体の芯にぐっと力を入れて、震えを止めようとした。
 自分が寒がっていることを、探偵に悟られたくなかった。
 歯の根が合わずにカチカチ云いそうなのを食いしばる。
 何も云ってあげられないから、何もしてあげられないから、せめて、探偵が好きなだけここに居たらいい。
 わたしは寒くないから。平気だから。
 冬の波浪が少しばかり乱暴に打ち寄せる音だけが、繰り返し繰り返し美由紀の耳に聞こえていた。    







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