薔薇十字探偵社の当然・上
理解できない。 僕は平凡で善良でこれと云って取り柄もない唯の一市民であって、普通の会社員であるのから、事件に巻き込まれた訳でもなければ妻や許嫁が浮気をしている訳でもないのに、否、それ以前に恋人すらいないと云うのに、探偵事務所などに足を運ばなければならない理由など本来全く無い筈なのだ。 寧ろあんな所へは行かないほうが僕の安寧は保たれるのだ。 もちろん、姪の早苗の事件は、大河内に紹介されてこの探偵事務所へ来なかったら、 結局首謀者からの実のある謝罪は得られなかったが、とりあえず必要以上の復讐は果たし、僕が溜飲を下げたことは否定できない。 それに、現実、あの探偵が云ったとおりに、早苗の子供には父親ができて、早苗も今は幸せに暮らしている。 それが探偵のお陰かと云うと違うと思うのだが、それでも感謝はしている。 感謝の気持ちが高じたせいか、はたまた普通を絵に描いたような僕には、何もかも非常識にしか見えない出来事の衝撃が強すぎたのか、一時はあの探偵に認められたいような気になったこともあったが、それは大いに気の迷いであったとすぐ気付かされた。 そして二度とこんな所へは近付くまいと決心した。 したにも拘わらず、僕はその後も否応なく何度も此処へ足を運ぶ羽目になり、その度に酷い目に遭い、いいことなんか一つも無い。無いことはもう解っているのだ。 無いんだけれども、面霊気事件──と僕が勝手に名付けている事件以来、探偵に対する僕の見方がまた少し変化してしまい、いいことなんか無いのは解ってはいるのだが、断固拒否したいと云う訳でもない。 否、寧ろ僕は自分で望んでいないにも拘わらず、どうも此処と縁が切れずにいることに、どこかでほっとしてさえいるのだ。 そう、自分で望んでいないにも拘わらず。 つまり、決して積極的に探偵事務所に来たくて来ているというわけでもないのだ。 何しろ、いいことなんて絶対無いんだから。 それが解っているのに、何故僕がまた神保町くんだりまで来たかと云うと、勤め先の社長に頼まれたからである。社長は既に嫁いでいる娘さんに泣き付かれたそうだ。 娘さんはまだ結婚して二年ぐらいで、子供もいないそうだが、どうやら旦那さんが浮気をしているようだと勘繰っているらしい。 社長は、男には女房に云えない仕事上の付き合いもあるし、仮に浮気だとしても、水商売の女とちょっと仲良くするぐらいは甲斐性ではないかと宥めたのだそうだが、聞き入れないという。そこへ社長の奥さんも口を出し、ならば探偵でも雇って調査したらどうかということになったそうだ。 奥さんと娘の両方にせっつかれて社長が探偵事務所に依頼することになったらしいが、さて、どこに頼めばいいのか判らない。そもそも探偵事務所などというものが何処にあるのかも判らない。 まあ、普通の一般市民はそうだろう。僕だって大河内から勧められなければ、そんなことは思いも寄らなかったのだから。 そこで社長ははたと思い付いてしまったわけだ。 本島、おまえ何とか云う探偵事務所と親しくしていたんじゃなかったか? おまえから頼んでみてくれよ。ついでに顔見知りのよしみで安くしてもらえないだろうか。 勿論僕は断った。断ろうと努力をした。 が、 相手は日頃世話になっている社長であるのだし、しかもその「探偵事務所」に関しては、社長にも迷惑をかけているのだ。こんな時ぐらい役に立たなくてどうするというのだ。 勿論あの探偵は浮気調査なんかしない。しかし探偵事務所としてはするのだ。助手の益田に頼めばいい。 ただ、社長は勘違いをしている。僕は探偵社の人達と親しい訳なんかじゃない。料金を安くしてほしいなんて頼めるほど気安い仲ではないのだ。 では遠慮のある仲かと云われるとそれも違うと思う。 少なくとも向こうは僕に対して遠慮なんかこれっぽっちもない。すでに身内扱いである。身内と云えば言葉はいいが、要は──下僕、なのだ。 だから世間一般で云う親しさでは断じてない。 何より、譬え益田への依頼であったにしても、僕から自主的にあの探偵社に関わるのは厭だ。今さらどうしてだと云われても、知らない人間には説明のしようがない。とにかく厭だ。関わらない方が身の為なのだ。 だけど説明のしようがないから、結局は僕は、それじゃ一応頼んではみますがなどと、また自分の首を絞めるようなことを云ってしまったのだ。 そしてせっかくの日曜だと云うのに、僕は性懲りもなく神保町までやって来たという訳だ。 「薔薇十字探偵社」と金文字で書かれた硝子戸の前で、僕は一旦足を止めた。 中から漂ってくる空気が何処となく それでも、常時は扉さえ突き破って迫ってくるような狂躁的な空気が感じられない。さては探偵本人が不在なのか。ならば好都合だ。それにしても、やはり何か違う。 僕は取っ手に手を掛けて硝子戸を開けた。カラン、と常時のように鐘が鳴った。 開けた途端、やはりそこに漂っている空気は常時と違うことに気付いた。穏やかで、華やかな空気だ。 なんだか甘い、好い匂いがする。 益田か寅吉の笑い声が聴こえた。常時の騒々しさではなく、どことなく明るい、ほのぼのとした笑いだ。 鐘の音に気付いて、寅吉が衝立の陰から顔を出した。 「おや、お久しぶりですね。相変わらずの作業着ですねえ。折角ですが先生はお留守ですぜ」 客の顔を見た途端、追い返すような事を云うな。 いや、客、じゃないのか、僕は。 「丁度好い時に来ましたね、本島さん。流石に鼻が利きますねえ」 ソファにふん反り返って益田が云った。 相変わらずこの男は探偵がいないと態度が大きい。 べつに僕は鼻を利かせて来た訳じゃないし、何が流石なんだか解らない。しかし、この甘い良い匂いはなんだろう。 と、考えるまでもなく、テーブルの上に幾つもの皿が並んでいるのが目に入った。載っているのはいずれも、何だかぶにょっとした感じの、崩れかけたケーキのようなもので、見た目はともかく、そこからこの匂いが漂っているのは間違いなかった。 「まあ本島さんも試食してみてくださいよ。味はいいんですよ、味は。食感は今一つですが、ちょっと未経験ゾーンの味ですよ」 本当に美味しいのか、それは。 試食というからには未完成品なのだろうが、何故探偵社で洋菓子もどきの試食会が開かれているのか。 台所からは砂糖を焦がしたような香ばしい匂いも漏れてきている。 寅吉が此処に居るのだから、誰か他の人物が台所に居るのだろうか。 僕が何から訊こうか、何も訊かず、探偵がいない内に用件を話してしまった方が得策か考えているうちに、台所からその人物が小さな片手鍋を持って出てきた。 「和寅さん、駄目です。火加減のコツが分からなくて。こっちは焦げるし、あっちはスが立っちゃっうし、あ、あれ?」 僕は驚いて、失礼にもその人物を上から下まで眺め回してしまった。 真っ白い割烹着に白い三角巾、少し背は高めだが、何処かの賄いの小母さんなんかでは決してない、紛う方なき愛らしい少女がそこに居た。 |