薔薇十字探偵社の当然・中

 理解できない。
 どうして此処に、この探偵社に、こんなまともな少女が居るのだろうか。
 いや、それともまともではないのだろうか。
 何しろここは探偵事務所なのだ。何故探偵事務所で女の子が何やら料理を作らなければならないのだろう。経緯いきさつの想像が全くつかない。
 年齢的に見て家政婦とは思えない。第一家政婦にしては食事でなく菓子を作っているというのは解せない。しかも、失礼だが見るからに軒並み失敗している。
 もしかしたら探偵の親類か何かだろうか。あの探偵の親戚なら、此処で意味不明の行動をしていたとしてもありそうな気はする。
 とりあえず、少女の格好から見て此処の客ではなく身内の人のようなので、僕は自己紹介をしなければと気を取り直したとき、少女の方がぺこりと頭を下げた。
「すいません、失礼しました」
 それからぱっと益田のほうに振り返って
「益山さん! お客様です!」
と云った。
   いや、どうやったらこの状況で僕が益田の目に入っていないと思えるのだろう。
 その前に、この少女、益田のことを益山と呼んだか?
「いやいや、美由紀ちゃん、この人はお客様じゃないよ」
 益田も平気で酷い事を云う。今日の僕は依頼人なのに。客なのに。
 しかし、益田が「美由紀ちゃん」などと馴れ馴れしく呼ぶということは、榎木津の親類ではないということだろうか。
「美由紀ちゃん、この人は本島さんといって、以前ここに依頼人として来た人だよ。今は、何だろうな。まあ何となく協力者ってとこかな」
 何だその紹介の仕方は。何となくって何だ。泥棒の真似までさせられて協力したのに。
 で、この少女は誰だろう?
 僕が尋ねるまでもなく、調子の好い探偵助手が紹介してくれた。
「こちらは呉美由紀さん。東京の寄宿舎のある学校の生徒さん。榎木津さんのお気に入りですから手を出したら殺されますよ」
 榎木津のお気に入りでなくたって、姪よりもさらに年下の少女に手なんか出すものか。
 少女が、初めまして呉美由紀ですと挨拶してくれたので、僕もやっとそこで名前を名乗って、一応職業も告げておいた。僕は至極真っ当な社会人なのだから。
 それにしても、この呉美由紀という少女とこの探偵社の関係は何なのだろう。
 何故こんなところに未成年が出入りしているのか。
 そしてこの菓子と思しき物は?
 まだ状況が呑み込めずにいると、寅吉が呉美由紀に近寄ってきて鍋を覗き込み、
「いやでも美味しそうな匂いがしてるじゃないですかい」
と、慰めるようなことを云った。慥かに良い匂いではある。
「でも色が変なんです」
「美由紀ちゃん、それはそういう色でいいんだよ」
 横から益田も覗き込んで口を挟んだ。
「え、そうなんですか?」
「うん。僕が横浜で食べたのはそんな感じでどろっとしてたよ」
「どろっじゃなくて、とろっとさせたいんですよ」
「だけど美由紀ちゃん、プロの料理人みたいにはいかないよ」
「じゃあ、済みませんけど、これも味見していただけます?」
 益田はテーブルからスプーンを持ってきて、鍋から黒と茶色の中間の色をした、水飴のようなものを掬い上げて口に運んだ。
「うん、美味しい。これでいいんじゃないかな」
「ほんとですか? ああ、でも肝腎のプディングのほうがスが立っちゃって……」
「やっぱり茶碗蒸しと同じじゃ駄目なんですかねえ。あたしじゃあ分かりませんや」
「火加減は本に載ってないの?」
「中火とか弱火とか書いてあるんですけど、コンロによって違うと思うんです」
「そうなんですよねえ。慣れるまではなかなか難しいもんなんだよ、益田君」
「でもスが立ったぐらいどってことないよ。美由紀ちゃんの作ったものなら何だって喜んで食べるよ、あのおじさんは」
「何だってってどういうことですか、益山さん」
「いや、物の譬えってやつだよ、美由紀ちゃん。ほんとだって! 悪い意味じゃなくてさあ」
 突っ立ったままの僕を無視して繰り広げられる会話から、漸く少しだけ状況が見えてきた。プディング。その単語は僕も聞いたことがある。
 それは山颪事件と僕が名付けた事件の最中、榎木津探偵が口にした食べ物の名だ。多分探偵はプディングが好きなのだ。だから呉美由紀は探偵の為にどうやらそれを作ろうとしているが、上手くいっていないというところらしい。
 尤も、どうやら赤の他人らしいこの少女が、何故探偵のためにそこまでしているのかはやはり理解が出来ないのだけれど。
 呉美由紀と寅吉は、そもそも日本と英国の火加減がとか何か訳の解らないことを云いながら台所に入っていった。
 僕は、そうだ、益田に依頼をしなければと思い直したのだが、益田がソファにまた戻りながら
「とりあえず本島さんも座って。ちょっとこれ召し上がりませんか?」
などと云うものだから、まずは座ることにした。
 さっき、茶碗蒸しだとかスが立ったとか話していたが、テーブルの上に並んでいる物は、どう見ても茶碗蒸しの親戚には見えない。
「これ、何です?」
 つい、訊いてしまった。
「プディングですよ」
「これがですか? いえ、これ全部ですか? でも……」
 皿の上に載っているのは、似ているようだけれど色や形が少しずつ違っている。
「中禅寺さんのせいなんですよ」
「はあ……」
「まあ一口ずつどうぞ。いや、全部召し上がってくれても構わないんですがね」
 匙を渡されたので、成り行きで一番端にあった皿の上の菓子を掬って口に入れてみた。
 とても柔らかいパンのような感触だった。
 ただ、味も香りもずっと複雑で、甘いだけではなくて、何かすっとするような香りがした。
 慥かに未体験の味だが、不味くはない。寧ろ美味しい。
 もう一皿、手を出してみた。今度はちょっと粉っぽかった。何か果物を煮詰めたような物が入っている。
 慥かに、食感は今ひとつだが、これも味は悪くない。
 次の皿はどうだろう、などと手を伸ばしかけたとき、台所から少女が出てきた。
 盆の上に、器に入った黄色いぷるぷるしたものが載っている。
 慥かに茶碗蒸しのようだ。
 少女は僕が匙を手にしているのを見て、ちょっと困ったような、恥ずかしそうな顔をした。
 それが妙に可愛かった。
「益山さん、そんなものお客様に無理に食べさせないでください」
「無理にじゃないよ。だって勿体無いじゃない。美味しいのに」
「でも、形が崩れてたり、巧く混ざってなかったり、何かしら失敗してるんですもの」
「いや、美味しいですよ」
 何故だか僕は慌ててフォローしてしまった。
「そうですか?」
 少女の顔が少しだけ笑顔になった。
「本、本、えーと……」
「本島さん」
 横から益田が助け船を出してくれた。
「本島さんも本物のプディング食べたことがあるんですか?」
「い、いえ、ないですけど……」
 なきゃいけなかったのか。
 慥かに、僕に美味しいと言われても、僕の舌なんか全然当てにならないわけだけれども。
「本物のプディングって何なんです?」
「英国で作られてるようなプディングです。わたし、わからないものだから、中野の拝み屋さんに頼んで、お知り合いの洋書専門の方からお菓子の作り方の本を仕入れていただいたんです」
 この少女は中禅寺とも知り合いなのか。
 もしかしたら元はそっちの関係者なのか?
 寄宿舎に入っているということだし、上流階級の娘なのかもしれないが、それにしては雰囲気が庶民的と云うか、近寄り難いところが少しもない。
「英語の勉強にもなるとか云われてその気になったんですけど、あんなにたくさんプディングの種類があるとは思わなかったんです」
「そ、そうなんですか」
 と云われてもわからないのだが。とりあえず相槌を打っておく。
「材料だって、何だか判らないものや、日本には売ってないものとか、高くて買えないものとか」
「はあ、そりゃそういうものかもしれませんねえ」
「だから手に入る範囲で代用できるものを選んで幾つか作ってみたんです」
「なるほど」
「でもなかなか上手くいかないし、これでいいのかどうかもわからないし。探偵さんはご実家が元華族様でお金持ちだから、きっと本物を食べたことがあるんだと思うんです」
 ああ、やっと話が見えてきた、ような気がする。
「益山さんは、カスタードプディングというのなら食べたことがあるって。作り方も簡単そうだからやってみたんですけど……」
 少女は盆の上に目を落とした。
 スが、立ったわけか。
 益田が遠慮なく横から手を出して甘い匂いのする茶碗蒸しを一口食べた。
「うん! これこれ。この味だったよ。美由紀ちゃん、見映えなんかカラメルソースをかけちゃえばわからないって。美味しいよ」
「タネが余ってたから今やり直してるとこなんです。味はこれと同じなんですけど……。良かったらこっちも味見してみてください、本山さん」
「本島です」
 つい今し方紹介されて、さらにもう一度益田が名前を云ったのに、もう忘れたのか、この娘。
 しかし悪気のない顔をしている女の子にムキになるのも大人げない。
 差し出された盆の上のものを僕も一口食べてみた。
 美味い。
 これがカスタードプディングと云うものか。
 茶碗蒸しよりも柔らかくて、穏やかな甘みがとろりと口の中に広がった。
「美味しいですねえ」
 心から出た言葉に、じっと僕の反応を窺っていた美由紀が、ほっとしたのが見て取れた。
「最初からこれにしておけば良かったんですね……」
 美由紀はテーブルの上を哀しそうに見回して、益田の隣に腰を下ろした。
「仕方ないよ。中禅寺さんが、そもそもプディングと云うものは、なんて講釈を始めるからいけないんだ」
 目に浮かぶようである。
「あ、いけない」
 美由紀は手に持っていた盆をテーブルの上に置いた。
「お茶、お淹れしますね。本村さん」
「本島です」
 もしかして態とかなのか? 
 ちらりと益田に目を遣ると、口の端が少しひくついているように見えた。
「ごめんなさい。本島さんは緑茶とお紅茶と珈琲とどれがお好みなんですか?」
「え、いや、僕はその……」
 素直に謝られた上、そんな丁寧な対応をされたのでは怒るに怒れない。
 尤も、僕はここでどんな扱いを受けても怒ったことなどない。怒っても無駄だし、そんな度胸もない。
「お嬢さんがそんなことなさるこたぁありませんよ。はい、お茶」
 寅吉が台所から戻ってきて、無造作に僕の前に湯呑みを置いた。
 益田と美由紀と、それから自分の前にも置いた。ついでなのだ。
 しかし、こんな幼気いたいけな少女に悪戦苦闘させて、当の榎木津は何処に行っているのだろう。
 そう訊いてみると、なんでも今日はお父上のお誕生日だそうで、実家、いや、実家などと、親戚の叔父さんが嫁の里帰りの話題に使うような言葉で云ってはいけないのだろう、御本家に召還されたとのことだった。
「わたし、何も知らないで来てしまって」
「先生がなんにもおっしゃらなかったんでしょう。今日だって奥様からお電話がなかったら、忘れた振りをして行かなかったに違いありませんよ」
 寅吉は、困ったものだと云うように頭を振った。
「そういう訳ですからね。先生に御用事だったらいつお帰りになるか判りませんぜ」
「いえ、榎木津さんに用事ではないんです。実は、益田さんに依頼したいことがありまして」
 榎木津がいないなら寧ろそのほうが好都合というものだ。あの探偵が浮気調査なんかに興味を示すとは思えないが、万一榎木津が話に絡んだりしたら、只の浮気疑惑がどんな大事件に繋がってしまうか判ったものではない。
 僕の言葉を聞いて、益田は物凄く微妙な顔をした。
 そして美由紀は腰を浮かしかけた。
「あ、じゃあやっぱりわたし帰ります」
 益田と和寅が慌てて彼女を引き留める。
「ま、待ってよ美由紀ちゃん、今日は居てもらわなきゃ困るよ」
「そうですよ。大体まだ火にかけてるプディングがあるじゃないですかい」
「でも、どっちにしろ探偵さんも何時に帰るか分からないですし」
「御前様のお仕事関係の方々がたくさんお集まりでしょうからねえ。屹度さっさと切り上げていらっしゃいますよ」
「ぎりぎりまで待ってよ。榎木津さん、帰ってきたら絶対機嫌悪いから。でも美由紀ちゃんが居てくれたらすぐ機嫌直るよ」
 どうやらこの少女は対榎木津最終最強防御壁であるらしい。それにしてもなぜ、こんな歳の離れた少女をそこまで榎木津は気に入ったのだろう。
 大の男二人に縋り付かんばかりに懇願された美由紀は、少々困惑した顔を僕に向けた。
「でもお仕事のお話なんでしょう? あの、本、本」
 やっぱり態とだろう。
「本島です。僕はべつに構わないんですが……」
 いや、未成年の女の子の前で、新婚夫婦のいざこざなんか話すべきではないのか。
 僕が迷っていると益田が
「本島さんの依頼って微妙なんですよねえ、いつも」
などと、仮にも依頼人に対して失礼なことを云った。
「いや、正確には僕のとこの社長の依頼なんですけど」
「ほら、そこが微妙なんですって。本来無関係の筈のあなたがそうやって依頼を持ってくると、何故だか珍妙な事態になっちゃうんですよねえ」
 それは榎木津のせいだろう、間違いなく。
 あの男が絡むと……。
 バン!! カッ−−−−ン!
 遅かった。









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