君の言葉 2
ジョージはゆっくりと階段を降りた。 アーチの前に立つ。 アーチはぼろぼろでひびが入っているが、石と石の継ぎ目には少しの揺るぎもない。 部屋の中に風のあるはずもないのに、アーチに掛けられた黒いベールがゆらめいていた。 ジョージは足元の床を見ながら、ゆっくりとアーチの周りを一周した。 ベールの内側から、ひそひそと人の声が聞こえるような気がした。 ──これは、生きている。 でも……。 ジョージは手を伸ばし、ベールを掴もうとしてその手を止めた。 そのまましばらくの間葛藤した挙げ句に、ゆっくりと腕を下ろした。 そして名残惜しそうに何度か振り返りながら階段を昇り、ドアを開け、元の場所に戻った。 それから、開けた五つの扉の印を消し、最後に入ってきた扉に手を掛けてからその印も消して、廊下へ出た。 出たところで、ガタガタとエレベーターの音が聞こえた。 ジョージは持っていた鞄を開けると、中から1枚の布を取り出した。それを広げて頭からかぶると、壁にぴったりとくっつくようにして息を潜めた。 エレベーターから降りてきたのは神秘部の職員だろうか。廊下の真ん中をつかつかと歩いて、ジョージに気付くことなく扉を開けて入っていった。 扉が閉まった音を確認してから布を外して、ジョージはそのままエレベーターに乗り込み、平然と魔法省から出ていった。 透明マントなどではない。まだ試作段階のちょっとした悪戯グッズだ。 数秒間一箇所にじっとしていると、カメレオンのように周囲の背景と同化するだけなのだ。魔法省の廊下のように背景が単純ならいいが、外ではあまり役には立たないし、透明マントの代わりにはならない。その分お手軽ではある。 これを作ろうと考えたのは、もう随分前のことだった。 マグルの映画を観に行った後、フレッドが言い出したのだ。 映画はアメリカ製だったと思ったが、なぜか日本のニンジャが出ていたのだ。ニンジャが何やら布をぱっと広げて被ると、すっと周囲の景色に溶け込んで、どこにいるのかわからなくなったのだ。 ジョージは映画を観ながら、魔法の事を日本ではニンジュツと呼ぶのだろうか。それともこれはただの映画の中での作り話なのだろうかと考えていたのだった。 あの時フレッドは何と言ったのだったか。 マグルの映画館を出たすぐ後のフレッドの、面白そうなものを見つけたときの目の輝きは覚えている。 ──ああいうの、いいと思わないか? そう言った声も思い出せる。 それから。 作ろうぜ、と言ったのだったか。いや、あれなら作れるんじゃないか? とジョージが先に言ったのだったか。 少しずつ、少しずつ、記憶はさらさらと薄れていく……。 こんなにはっきりと、フレッドの声も、笑った顔も怒った顔も思い出せるのに、20年分すべての記憶など、やはり留めようもない。 5歳の頃には、2歳のときの記憶があったような気がする。 7歳の頃には、5歳のときのことを一日残らず覚えていたはずだった。 でも11歳になったときには、7歳の時の記憶さえもうあやふやで。 歳月の進むごとに、だんだんと子供の頃の記憶は薄れていく。 そうしておそらく「あの時」には覚えていたはずのことも、砂時計が下に落ちるように、少しずつ消えていくのだ。 決して忘れることのできない幾つかの出来事は、自分で映画でも作れるぐらいに脳裏に焼き付いているけれど、今ジョージにとって大切なのは、ただ楽しく忙しく過ごした「普通の」日々の記憶だった。 自分が生きてきた日々のすべての記憶を保っている人間などはいないだろう。だからそういうものだと思ってみんな生きている。 自分の人生の記憶ならばそれでもいい。 でも、あいつは、たった20年しか生きられなかったんだ。 あいつがやりたかったことを、思い残したことを、自分以外の誰ができるというのだろう。 自分だけは、ほんの一言さえもフレッドの言葉を忘れてはいけない、忘れたくないとジョージは思っていた。 あのアーチは“生きている”。でもあそこでは無理だ。現に神秘部の人間がすぐに来たではないか。あの部屋を開けないという保証はない。 リスクは小さいほうがいい。僕は戻るつもりなのだから。 魔法省を出たジョージは、その足でパディントン駅へ向かった。 |