五月雨のころ・ 三
氷ノ山からほど遠からぬところで戦がもうまもなく始まろうとしていた。そういう情報をキャッチするのはさすがに山田家辺りは早い。山奥とはいえ、その山の周囲には忍びの家が多い。どちらの陣営で何をしているかはわからないが、きっと幾人かは今回のことにかかわっているに違いない。その上、元くの一の母親は、何か独自の情報網でも持っているのではないかと利吉は勘ぐっていた。 一度それとなく聞いてみたことがあったが、 「あら、わたくしだってご近所の奥様方と井戸端会議ぐらいするのよ」 と、ほほ、と笑ってはぐらかされてしまった。どこまで本気なのか全く読めないのがややこしい。 大体自宅から見渡せる範囲に家がないのだから、そもそも近所がどこなのかわからない。むろん、何かで顔を合わせることがあるのは確かだが。奥様方同士が井戸端会議で近隣の大名の動向分析をしている図を想像すると背筋が寒くなるものがあった。 父がいれば、と利吉は思った。利吉もこれまで、山にこもって武術や体技の訓練だけしてきたわけではない。実戦訓練にも何度か出ていたし、合戦場に行った経験もある。ただそれはもちろん、伝蔵が家にいるときのことだった。今その父がいれば、きっとこの戦で何か経験させてくれるだろうにと、利吉はじとじとと降る雨を家の中からぼんやり見つめながら焦りを感じていた。 「こんな時季に戦だなんて、困ったものね」 乾かない洗濯物を軒下に干しながら、母親が半分独り言のように言った。 「雨で火縄が使えませんしね」 深く考えもせず、やはりぼんやりしながらそう答えた利吉に、母親が向き直った。 「そんなことじゃありません。田植えの時季に戦をされてはお百姓さんたちに迷惑だということです」 この時代、武士と農民の区別はまだ曖昧だ。戦になれば小国ほど農民が足軽に駆り出される。相手の国力を削ぐために、わざと田植えや刈り入れの時季に戦を仕掛ける大名もいる。むろん、リスクは自分のところにもあるが、多少のことはしのげるだけの力を持った国ならば有効な手段だ。母親だってそんなことぐらい百も承知のはず。 「仕方ないではないですか。いずれ天下統一が成るまでは」 母親は何か言いたそうに少しの間、利吉を見たが、結局何も言わずにまた洗濯物を干し始めた。 「殿方はみんなそうおっしゃる……」 「え?」 手を動かしながら独り言めいてそんなふうに母親が言ったような、聞き違いのような、利吉は聞き返したが、それきり返事はなかった。 翌日、利吉が半助のところへ行くと、半助はいつものように出かける支度をしておらず、翠庵を手伝いながら利吉を少し奥の部屋で待たせた。 なんだろう。単に忙しくて待たせるだけなら、わざわざ中へ入れる必要はない。 確かに、忙しそうではあった。それも患者が押しかけてというのではない。あちこちの忍者から何事か頼まれているのだろう。利吉には子供のころから何度か経験している雰囲気だ。 こんなときに訓練なんて。早く実戦に出たい。はやる気持ちは、若い忍びならば誰でも覚えのあるものであったろう。 やがて半助が何冊か書物を抱えたまま入ってきた。今日は学科の勉強か? と利吉は思ったが、そうではなかった。半助はにこにこしながら 「ごめんよ、まだこれを翠庵先生のところへ持っていかなきゃならないから時間がないんだけど、とにかく大事なことを伝えるよ」 「は、はい」 「山田殿からの指令だ。実地訓練として千倉城の軍勢の勢力分布をできるだけ詳しく調べてくること。できれば本陣の位置もね」 利吉は血が沸き立つのを感じた。だが興奮を見せまいとして冷静に言った。 「期限はいつまでですか?」 「特に定めはない。でももちろん、戦が終わってしまってからでは遅いよ」 「そ、それぐらいわかってます」 利吉は、今度は少々の不機嫌さを隠しきれずに答えた。 「ああ、そうだよね。ごめんごめん」 半助は悪びれずに笑顔でそう言ってから表情を引き締めた。 「それじゃ、すぐ出発して。くれぐれも無茶をしないように。気をつけてね」 「はい」 利吉はすぐ庵を出ると、いったん家へ戻った。戦場に赴くにはそれなりの準備がいる。家までの道のりがいつになくもどかしくてたまらなかった。 久しぶりの実戦訓練も嬉しかったが、父が自分のことを半助に任せきりにせず、気にかけてくれていたことも嬉しかった。 家へ帰ってすぐ出かける支度をしていると、当然のことだが母親が何事かと尋ねてきた。利吉は手を止めず、さっさと荷物を背負って飛び出しながら、実戦訓練に出るということを告げた。 「どこへ?」 ごくさりげなく母親が聞いた。息子がどこかへ出かけようとしているなら、普通の母親が当然口にする言葉だろう。だが、忍者となるとそうでもない。利吉は一瞬立ち止まって考えた。そしてにこりと笑って 「母上、任務の内容は家族にも秘密ですよ」 と答えた。母親は苦笑して 「気をつけてね」 とだけ言って見送った。 あぶないあぶない。今までは父親がいるときに家から直接出ていたから、自分が母親に説明する必要がなかった。うっかりここで行き先を漏らしたりしたらきっと母から連絡が行って減点になるに違いない。さすがに利吉は気分が浮き立っていてもその辺りは冷静だった。 一方半助は利吉が出ていくといささか暗い顔で溜息をついた。それから立ち上がって書物を翠庵に届けようとしたとき、戸が開いて翠庵のほうが入ってきた。 「おお、ご苦労さん。それはわしが持っていくから、おまえさんも早く出立しなさい」 「は、はい……」 「なんじゃ、浮かない顔じゃの」 「だって、こんな任務経験がないですからね。難しいですよ。気づかれないように行動を監視して、いざとなったら援護して、でもぎりぎりまでは本人にやらせて、で、採点する……」 半助は伝蔵からの指示をぶつぶつと復唱した。当人に気づかれないように護衛するという仕事ならしたことはある。だが、そのときは危ないと思ったら単純に助ければよかった。今回は違う。「ぎりぎり」を見極めることができるだろうか……。万一のことがあっては山田殿に申し訳ない。だが下手なことをしては利吉のためにならない。それもまた山田殿の信頼を裏切ることになる。 しかも尾行する相手は同じ忍者だ。こんなにやりにくい相手はない。まだ一人前でないとはいえ、利吉は勘が鋭い。しかも自分は今は……。 「不安なのはそれだけではあるまいて」 翠庵が言った。その口調はのんびりしていたが、半助は図星をさされた思いだった。 「大丈夫じゃ。わしが治療して、その後もずっと経過観察してきたんじゃからの。おまえさんも十分以上鍛錬してきたじゃろうが」 「はあ……」 「気にしすぎるとかえってよくないぞ。わしが保証するから足のことは忘れてきちっと任務を果たしてこい。おまえさんもプロならな」 「はい!」 半助は改めて翠庵に感謝した。そうだ。これは任務だ。山田伝蔵から請け負った任務なんだ。失敗などするものか。 半助は翠庵に一礼して部屋を出ていった。 半助を見送ってから、翠庵はふとつぶやいた。 「利吉の試験なのか、半助の試験なのか……伝蔵殿もなかなかやりおるの」 その日、千倉城の軍勢が出陣した。 |