五月雨のころ・五


 それからほんの数日後のことだった。
 利吉はその日も翠庵のところへ、すなわち半助のところへ向かっていた。その途中、利吉はふと気配を感じて足を止めた。道の脇の繁みに視線を向けると、かさこそと音がする。じっと見てみると、明らかに誰かが隠れている、というより、見つかってしまったことに気付いてそれ以上隠れることを諦めてはいるが、出てくる度胸もなくて隠れようとしている、といった様子の男が1人。特に危険は感じられない、というのは利吉の驕りではなく、忍者としての勘が正常に働いたといってよかったかもしれない。
 互いに様子を窺うこと数瞬。埒が明かないので利吉のほうから声をかけようとしたそのとき、男が伏せていた上半身を起こした。
「お、おまえ、侍じゃないな、こ、子供か」
男は、相手がまだ少年と分かった途端に居丈高に口を開いたが、それも虚勢にすぎないことが、上ずった声から明らかだった。
 利吉は思わず目を見張った。その男の着物に見覚えがあったからだ。つい数日前見たばかりの、石蕗軍の足軽の装束。だがそれはすでに泥にまみれ、右袖は大きく破れていた。そしてそこにある大きな黒っぽい染みは、きっと泥ではなく、血。
「何してるんですか? そんなところで」
 利吉は努めて驚きと不審を隠し、単なる若者の好奇心を装った。
「村、村に帰るんだ」
男は利吉を睨みつけるようにして言った。
「村? どこの?」
「手越村だ。おまえ、道を知らないか?」
 問われて利吉は困惑した。手越村……石蕗の領内だ。それは知っているが、詳しい道を教えろと言われても無理だ。いずれにしろ大きく方向違いだが。それよりも、この男が今このタイミングで村に帰ってどうなるか、それが心配だった。
 石蕗軍はすでに敗走しているはずだった。
 利吉はそこまでの情報しか得ていない。もし、千倉軍がそのまま石蕗領内に侵入していたら、そこへのこのこ石蕗の足軽が戻って見つかったらどうなるのだろう。もし石蕗軍が無事城まで退却していたとしても、この男、今ここにいるということはおそらく脱走してきたのだろう。お咎めなしで済むのかどうか。もっとも男も、見つかったらまずいということが分かっているから、こうやって隠れ隠れ進んできて、それで迷ってしまったのだろう。
 利吉の沈黙を、男は、村への道を知らないのだと受け取ったようだ。
「早く帰らなあ……。田植えの途中で、おかあ1人で……」
 男は切実な顔で、利吉に訴えるというよりほとんど独り言のようにぶつぶつとそう繰り返した。もう何日もろくに食事も休息も取っていないのだろう。頬はこけ、顔色もひどく悪かった。
 利吉はしばしあれこれと思いめぐらした後、男に声をかけた。
「あの、よかったらこれから知り合いの家に行く途中なので、一緒に来ませんか? その人は医者だから、まずその傷の手当てをしてくれると思います。もしかしたら村への行き方も知ってるかもしれません」
ともかくも、翠庵と半助に相談したほうがいいだろうと判断したのだった。
「医者? 俺は銭なんぞ持ってねえ」
「大丈夫。会えば分かります。それに、道を聞いてみるだけでもいいでしょう? 絶対信頼のおける人ですから」
 利吉の説得に、男はしばらく疑わしそうに利吉を見つめていたが、藁にもすがる思いだったのだろう、やがて
「ああ、なら頼む」
と言って、そこでようやく藪の中からがさがさと出てきた。
 利吉はそのまま黙って先に立って歩き始めた。気の毒だとは思うが、何をどう言ってあげればいいのか。今さら天気の話題でもないだろうし、重苦しい雰囲気をただ黙って我慢しながら歩いた。
 と、うしろでどさりと音がした。振り向くと男が倒れていた。慌てて駆け寄って抱き起こす。呼吸も脈拍もしっかりしている。腕の傷も、致命傷ではなさそうだ。どうやら疲労と空腹から、もしかしたら助けてくれる人が見つかった安心感から気を失っただけのようだ。
 仕方なく利吉は男を肩に担ぎ上げ、半ば引きずるようにして翠庵の庵までの道のりをぜいぜいと歩いた。男の懐からは、その母親が持たせたものでもあろうか、古ぼけたお守りが半分顔を覗かせていた。
 こんな時季に戦をされてはお百姓さんたちに迷惑です……そんな母親の言葉が脳裡に浮かんでくる。
 中には出世や金銭目当てに、進んで戦に出たがる農民もいる。しかし、もちろん全部が全部そうではない。戦場に出て初めて、その恐ろしさが分かって後悔する者もいる。弱小の軍になれば士気も低く、逃げ出す本業百姓の者もいるだろう。なんとか無事に帰れれば良いが……。利吉は汗びっしょりになって翠庵の庵へたどり着いた。


「きみも大概人が好いねえ」
半助が意外そうに、どこか面白がるように利吉に言った。
 男は翠庵の診療所に連れてこられたころ、目を覚ました。とりあえず銭はいらん、ある時払い、現物払いでいいと言われて、最初は半信半疑だったようだが、何度も同じことを繰り返されてようやく手当てを受けた。その後ゆっくり食べるようにと差し出された薄い粥を一気にがつがつと食べてしまい、今はやっと落ち着いて眠っている。
「見つけてしまったものはしょうがありません」
利吉は意識して半助から顔をそむけるようにして答えた。
「だからって拾ってこなくても」
半助がくすりと笑って言った。
「先日のこともありましたし……なんだか気の毒になって……」
利吉は仕方なく本音を認めた。
「この後、この人どうなるんでしょうか」
「どうって?」
「だって脱走兵ですよ。敗軍の。無防備に帰ったら命が危ないでしょう」
「うーん……」
 半助は軽く握った右手を口元に当て、しばらく無言で考え込んだ。
「ま、本人がどうしてもと言うならそういう事情があるんだろう。体力が回復したら我々が強いて止めるわけにもいかないだろうし」
 ようやく答えた言葉がこれだった。
 利吉は少し意外な気がした。患者や近隣の老人・子供に対する態度を見ていると、大概お人好しなのは半助のほうだ。確かにわざわざけが人を拾ってはこないかもしれないが、戦の犠牲者にもっと同情的な人間かと思っていた。
 いや、と利吉は思い直した。この人はプロの忍者だ。いちいちそんな感傷に浸っているわけはない。そういうものなのだ、と。    




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