「それぞれの花」というこのタイトルは、すぐ分かる人も多いと思いますが、SMAPの「世界に一つだけの花」に触発されたものです。
ちょっと待って、それなら庄ちゃんメインというのはおかしくないの?
ナンバー1の庄ちゃんではなく、オンリー1のしんべエとかにすべきではないの?
と思う人はいませんか?
でも、そこに落とし穴があると思うのです。
ホント言うと、庄ちゃんでもぴったりというわけではないのだけれど、成績がいいというと庄左エ門というイメージで分かりやすいので、こうしました。ま、アニメで一時期ひどい描かれ方をしたということに対する反発もあるのですが。
よく、世間では「勉強ができなくても例えばスポーツができれば」とか
「勉強だけできても性格が悪ければ」という言い方を無神経にしませんか?
それで、メガネかけていたり、性格が大人しかったりすると「がり勉」という先入観で見られる。
だけど冷静に考えてほしいの。勉強ができなくても、たいていほかの人には分からないし、人に迷惑かけるわけでもない。逆にスポーツでもできればヒーローになれる。
だけど、実は私がそうだったわけですが、勉強ができて運動オンチだったら、運動会やマラソン大会では全校生徒の前でびりを走ったりするわけだし、球技なんかすれば、心無いクラスメートに「おまえのせいで負けた」とか言われるんだよ。で、そういうこと言うやつって、成績は良くなかったりするんだよね。成績もいいし、スポーツもできるみたいな子って、親切な子が多かった記憶があります。
だいたい、実際に勉強だけできて性格の悪いやつって、どれぐらいいます?
冷静に公平に考えてみて。ドラマや漫画で、安易にそういう優等生像を描きすぎて、成績がいいと性格が悪いのが多いみたいに思っていませんか?
私も、自慢じゃないけど、勉強以外にもそこそこ得意なものはあったのね。だけど中途半端で、まあクラスの中で私のイメージといえば、勉強が多少できるぐらいのものだったと思うのね。
それでも、クラスはいいクラスだったら、先生が、一人一人の個性を認めてくれる先生の時には、べつに嫌なこと言われることもなく、良かったんだけど、うちの親なんかは言いましたよ。
「勉強だけできてもだめ」って。
で、私は強烈にコンプレックスを抱いて育ってしまったわけです。その反動で、もしかして成績がいいことを、心の中で支えにしていたので、言動に出てしまったこともあったかもしれない。そういうのを見た人は、やっぱり勉強ができるけど嫌なやつって思ったかもしれない。だけど私だって、親に「テストで100点取るより○○ちゃんみたいにしっかり者になってくれたほうがうれしい」とか言われたり、高校のときは廊下ですれちがったよそのクラスの男子に「ぶす」って言われたこともあるし、そういうことがあると、「いいの、私には勉強があるから」とか思っちゃうわけだったのよ。
どうして、「勉強しかできない」「勉強だけできてもしかたない」と、否定的にしかとらえないのだろう。「勉強ができる」というプラスの評価をしてあげられないのだろう。
個性を大切に、なんて言われるけど、実際には評価される個性と評価されない個性があるんだ。 それっておかしくないですか?
企業が評価する個性というのは仕方ない。競争に勝つのに有利な個性を求めるものだと思うから。だけどそれは競争に有利というだけであって、良い悪いとは別問題だと思うんだよね。大人がみんな企業と同じ評価していたら、子供が病んでくるのも当然だと思うよ。
私が落乱を好きなのは、運動が苦手なしんべエも、メガネをかけている乱太郎も、勉強ができる庄左エ門も、あんまり目立たないほかのは組キャラも、みんな等しく先生や仲間たち、ほかならぬ尼子先生に愛されていると思えるから、というのが一つの理由なんです。