それぞれの花



 忍術学園の朝。上級生たちはともかく、1年生の廊下はひときわにぎやかだ。あわてて食堂に走るもの、あわてて厠に走るもの。食堂から戻るものや、教室へ急ぐもの。
 そんな足音や話声のほかに、その日は小さな小競り合いの声も混ざっていた。
「どうせおまえら補習ばっかりなんだから、朝から補習してろよ!」
「うるせー! 悔しかったら補習で学園長のきまぐれに付き合ってみろよ! おまえらなんか腰抜かすぜ!」
「やめなよ、きりちゃん」
「遅刻するよ」
「へん、1年は組は先生も遅刻するって有名だぜ!」
「なんだとー!!」
「きりちゃんてば!」
 1年は組のきり丸と、犬猿の仲の1年い組の佐吉と伝七が廊下のまん中でけんかをしていた。あわてていた乱・きり・しんの3人組と佐吉・伝七がぶつかってしまったのがきっかけだった。そこへ
「おい、いいかげんにしろよ。遅刻するぞ。周りにも迷惑だ。きり丸もこんなやつら相手にするなよ」
は組の学級委員長、庄左エ門が止めに入った。乱太郎としんべエは助かったと思ったが、きり丸とい組の二人は庄左エ門のこのもの言いにむっとした。
「こんなやつらとはなんだよ!」
「おまえは悔しくないのかよ! いっつもいい子ぶっちゃってさ!」
「なっ……」
これには庄左エ門のほうがむっとして言葉に詰まった。
「おい庄左エ門、どうせおまえは組なんだから、そんなにガリ勉したって無駄だぞ」
佐吉がからかうように言った。
「どうせは組ってなんだよ」
さすがの乱太郎も言い返した。
「行こうぜ、乱太郎、しんべエ。学級委員長の庄ちゃんは遅刻なんてするわけにはいかないってさ」
きり丸は捨て鉢に言ってさっさと歩き出した。
 きり丸も佐吉も、けんかの勢いで庄左エ門に八つ当たりの憎まれ口をたたいただけだった。い組はともかく、きり丸が庄左エ門を嫌いなわけではなかった。が、庄左エ門は唇をかんで立ち尽くした。


 その後の1年は組の教科の授業は変だった。変というのは、常識に照らしてではなく、いつものは組の授業と比べて変だということだ。いや、本当に変だったのはは組ではなく庄左エ門だった。
 まず、遅刻して教室に入ってきた。こんなことは今までなかった。乱太郎は、あれ? と思った。自分達が間に合ったのに、庄左エ門が遅れるなんて。
 土井先生は、さすがにいきなり怒ったりはしなかった。庄左エ門のことだから、何か仕方のない理由があるはずだと思ったのだ。
「どうしたんだ、庄左エ門。珍しいな」
庄左エ門は怒られなかったというのに、ほっとした顔も見せず、むしろむっとした顔をして
「ちょっと、忘れ物をして取りに戻ったので」
と答えた。
「そうか」
土井先生は、庄左エ門の表情にちょっと不審を感じながらも、さして追求せずに、席に着くように促した。
「さあ、じゃあまず昨日の宿題を出しなさい」
「あーっ、忘れてた」
「先生、すみません、忘れました」
「ぼくも」
「あ、あの、僕やってる途中で寝てしまいました」
例によって3人組、それから喜三太。そして、
「すみません、ぼくも忘れました」
「庄左エ門!?」
土井先生とは組の全員がいっせいに驚いて庄左エ門を見た。
(?)
伊助は不審に思って庄左エ門を見た。庄左エ門は確かに宿題をやったはずだ。同室の自分と分からないところを相談しながらやったのだから間違いない。なのになぜ忘れたなどと言うのだろう。しかし、伊助はなぜか、それをみんなの前で言おうとは思わなかった。きっと何かわけあってこんな嘘を言ったに違いないのだから。
 もちろん土井先生も庄左エ門の言うことをそのまま信じたわけではない。これくらいの嘘が見破れないようでは、忍者も教師も勤まらない。だが、ここで庄左エ門を問いつめるのは良くないと、教師としては判断した。
「ま、まあ忘れたなら仕方ないな。そういうこともあるよな。今日だけは大目に見るが、今度やったら怒るからな」
「はい、すみません」
度胆をぬかれた土井先生は、3人組と喜三太をげんこつで殴ることも忘れて授業に入った。きり丸も、庄左エ門だけ怒られないのは不公平だと怒るのも忘れるくらい驚いていた。
 さて、授業中のことだった。土井先生が質問をした。
「これは前にもやったな。覚えている者いるか?」
だれも手を挙げない。もとより土井先生もたいした期待はしていない。しかし、そう前のことでもなく、そう難しいことでもない。いつもならほかの生徒はともかく、庄左エ門だけは手を挙げてくれるものと思っていた。
「庄左エ門、どうだ?」
指名したのはたいした意図はない。こういう状況になった時にいつもしていることだ。が、
「なんで僕なら分かるって決めつけるんですか!?」
「え?」
庄左エ門の思い掛けないきつい目と言葉に、土井先生はまたびっくりした。
「ああ、いや、べつになんでってことはないけど……す、すまんな」
思わず教師のほうが謝ってしまった。

 授業が終わってみんながぞろぞろと教室を出ていく時、伊助は土井先生に呼び止められた。
「伊助、きのう庄左エ門は何かあったのか?」
「あ、それなんですけど」
伊助はちょっとほっとした。土井先生はやっぱり庄左エ門がおかしいと分かってくれたんだ。
「庄左エ門はきのうちゃんと宿題やってるんです。でも、べつに変わったことはなかったと思いますけど……。それに今朝だって普通に元気だったし、僕にも分からないんです」
「そうか。ならいいんだ。もう少し様子を見てみよう。ありがとう。もう行っていいよ」
「はい」


 その日の夕方、自室で土井先生が次の日の授業の準備をしていると、実技の授業を終えた山田先生が妙な顔をしながら入ってきた。
「土井先生、今日午前中に庄左エ門に何かあったのかね?」
「庄左エ門?」
土井先生は手を止めて山田先生のほうに向き直った。
「実技の時間もおかしかったのですか?」
「うむ。手裏剣の的を少し小さくしたのだ。まあほかの連中ならともかく、庄左エ門なら練習すればこれぐらい、という程度なんじゃが、まるっきり駄目でな。駄目というより、やる気がないのが見え見えなんじゃ。何かわけがあるのだろうと思って、そう厳しいことは言わなかったがな」
「そうでしたか……」
「実技の時間も、ということは、教科の時間に何かあったんじゃろう?」
「ええ、実は……」
土井先生は午前中の出来事を山田先生に話した。
「ふーむ、すると今朝、授業の前に何かあったのかもしれんな。後でちょっと庄左エ門に聞いてみてくれんか?」
「わ、わたしがですか?」
「いや、わしはもう少し様子を見ても大丈夫だろうと思うんだがな。何も人に迷惑がかかることをしているわけでもないし」
「だったら……」
「しかし、あんたは気になるじゃろう?」
「はい、それはもちろん」
「なら聞いてきなさいよ」
「山田先生! それって!」
 結局、土井先生は気になって、庄左エ門を捜して月見亭に連れていった。
 庄左エ門は身構えて、何も話すものかとでもいうふうに、口を固く結んでいた。
「伊助に聞いたんだが、ちゃんと宿題やってあったそうじゃないか。なんであんなことを言ったんだ?」
庄左エ門はうつむいて何も言わなかった。
「山田先生も心配しておられた。何かわけがあるのだろうからと」
庄左エ門は、いきなりきっと土井先生をにらんだ。
「なんでそんなこと言うんですか!?」
「なんでって、庄左エ門はいつもしっかりしているじゃないか。だれだって、何か事情があるんだろうと思うだろ?」
「乱太郎たちだったら、いつも先生たちすぐ怒るくせに!」
「あいつらはいくら言ってもやらないからだろ」
「ぼくだって、いつもいつもしっかりしているわけじゃありません! そんなに心配なんかされたら、ぼく、ちょっともさぼれなくなっちゃうじゃないですか!」
 土井先生は、さぼるなよ、と思ったが、やはり何か今日の庄左エ門は変だと思って、ちゃんと話しをきこうとした。
「そりゃ、おまえだって居眠りすることは知ってるし、そういう時はちゃんと怒ってるだろう? だけど、今日はそういうのと違うだろう? 心配して何が悪いんだ? 乱太郎は乱太郎、きり丸はきり丸、庄左エ門は庄左エ門なんだから、同じようにしないからって、なんで悪いんだ? それともしんべエみたいに鼻をかんでほしいのか?」
「そ、それはちょっと……」
「それとも、何かわたしたちに不満でもあるのか?」
「そんなんじゃありません!」
庄左エ門は顔を赤くしてあわてて否定した。結局庄左エ門は賢くて優しい子だったので、これ以上先生を悩ませてはいけないと思って、朝の出来事を話した。
 土井先生は「ふーん」とうなって難しい顔をした。
「けど庄左エ門、い組はただは組の悪口を言いたいだけだし、きり丸だって、いらいらして八つ当たりしただけだよ。本当におまえのことを悪く思っているわけじゃないよ。それは分かるだろう?」
「それは分かってます」
「なら、どうして?」
庄左エ門はうつむいてぽそぽそと話し始めた。
「うまく言えないんですけど……」
「いいよ、テストじゃないんだから。ゆっくりで」
土井先生が笑って言ったので、やっと庄左エ門は安心した。
「僕、今朝のことで怒っているってわけじゃないんです。それに当たっているところもあると思ったし……」
「そうか?」
土井先生は目を丸くして庄左エ門を見た。
「だって、きり丸や乱太郎やしんべエは、テストの点は悪いかもしれないけど、いろんな経験してるからいざとなったら度胸はすわってるし、機転もきくし、きっと忍者としてそういうことが役に立つと思うんです。僕みたいに勉強の点だけ良くたって……」
「うーん」
土井先生はまたうなってしまった。
「そりゃ、あの3人は大切な経験は積んでいると思うよ。だけど、それは成績とは無関係だよ。あいつらのあの性格だったら、たとえちゃんと勉強していたとしても、どうせトラブルに巻き込まれるんだ。おまえが宿題をさぼっても、それが忍者として将来役に立つわけじゃないよ」
「……」
「むしろ、あいつらみたいに行き当たりばったりじゃ駄目なんだ。ちゃんとした知識を身に付けた上で、正しい状況判断ができなければね。だから、庄左エ門みたいにしっかり勉強することはとても大切なことなんだよ。それをやめたりしたら本末転倒だ。」
「そうかも、しれない、けど」
庄左エ門はまだ納得しきれない様子だ。
「それとも引っ掛かっているのは別のことなのか?」
庄左エ門はこっくりとうなづいた。
「僕、やっぱり嫌なやつに見えるのかなーと思って……」
「そんなことないだろう。きり丸はだれにだってそういう言い方するじゃないか」
「でも、もしかしてふだん思っているからつい口に出ちゃうのかもしれないし、みんなだって本当はそう思ってるのかもしれないし」
「だれかそんなこと言ったか?」
庄左エ門は首を横に振った。
 土井先生は小さなため息をついた。それから庄左エ門から目をそらして、ちょっと遠くを見るような顔になった。
「そういうことなら……先生はちょっとおまえの気持ちが分からないわけでもないんだ」
「ほんと? 先生、僕を慰めようとしてそんなこと……」
「違うって。こんなこと言うと自慢みたいだけどな、先生も昔はけっこう成績が良かったんだよ」
ああ、と庄左エ門は思った。きっとそうだろうと思う。土井先生は何でも知ってる。きっと僕なんかよりずっと勉強ができたに違いない。
「ただ、こんなに大きな学校じゃなかったけどな。数えるぐらいの生徒で、教師は現役の忍者であいている人が教えてくれるって感じで」
「へえー」
庄左エ門は、土井先生が自分のことを話してくれるのが初めてなので、なんだか嬉しくなってきた。
「だから、困ったことにな、追い抜いちゃうこともあったりするんだよな」
「追い抜くって、何を?」
「年上の人を」
「ああ……」
庄左エ門は、土井先生ならきっとそういうこともあったろうと思った。だけど、土井先生の口調はどこかのんびりしていて、本当はそんなに困っていなかったのではないかと思った。
「それで、やっぱり嫌なこと言われたりしたの?」
「ま、たまにはそういうこともなくはなかったかな」
土井先生はちょっと遠回りな言い方をした。庄左エ門は、多分、そういうことがあったのだろうと思った。
「でも、だからといってわたしは手を抜いたりなんか絶対しなかったぞ」
土井先生は、庄左エ門を見て笑って言った。
「だって、べつにいいかっこしようと思ってやっていたわけじゃない。先生にほめられるためにやっていたのでもない。早く一人前になりたかった。そのために必死だったんだから」
「先生もがんばっていたんですね」
「そう。庄左エ門だって、楽して何でもできてるわけじゃない。一所懸命努力していることを、先生はちゃんと知っているよ」
庄左エ門も、やっと笑った。
「だから、一所懸命やることが悪いなんて、絶対思ってはいけない。自分のために自分が努力しているなら、他人がどう言おうと関係ない。そうだろう?」
「はい。先生、僕、ほんとは分かっていたんです。何も悪いことなんてしていないって。だけど、何か不安になってしまったんです。そんなふうに見られてたのかなって。でももう大丈夫です。ありがとうございました」
庄左エ門は元気に答えた。
「そうか。えらいぞ」
土井先生は、庄左エ門の頭をなでてあげた。
「だけど、もしまた何か落ち込んだりしたら、一人で悩んでいないで、いつでも言いに来なさい。いきなりあんなことされたら胃に悪いからな」
「はい、すみませんでした」
「いいよ。謝らなくても。さ、夕飯食いに行くか?」
「はい!」
 そうだ、自分のために頑張るだけなんだから。でも、やっぱり先生がほめてくれたら嬉しいな。
「あの、先生、昨日の宿題、部屋にあるんです。今からでも見てくれますか?」
「もちろんいいよ」
食堂に行くと、きり丸がもじもじしながら庄左エ門に近づいてきた。
「あの、庄左エ門、今朝おれ、何か、ごめんな。べつに悪気はなかったんだけど、ちょっとおれ……」
「ああ、気にしてないよ。あんなの。気を使わせてごめんな」
きり丸はほっとした顔をした。
 すっかりいつもの庄左エ門に戻っているのを見て、は組のみんなは不思議に思ったが、だれもその理由を追求しようとしなかった。そしてそのことが、庄左エ門はとても嬉しかった。


蛇足ですが私の主張→