Dearest








 私が生きていたことを、誰かがその記憶の片隅にとどめていてくれればそれでいいと思う。
 哀しんでくれなくていい。決してそれ以上は求めない。そんな価値が私にあるとは思わないから。
 澄んだ空気と静寂。それだけが私の回りを支配している。
 人里はなれた山の中にひっそりと佇むこの屋敷で、私はもうずっと待っていた。すべてが終るその瞬間を。
 朝と夕方に食事を作りに娘がやってくる以外に、私はすることもなく静かな時を過ごしている。好きな読書や書を嗜んで、疲れれば縁側に座り、どこかから聞こえてくる小川のせせらぎに耳を傾ける。
 春の香りをかすかに感じるそよ風を頬に受けて、芽吹こうとしている木々の枝先に留まる白く淡い光に眼を細める。
こんな時を、私は今まですごしたことは無かった。
忙しく過ぎていった毎日。駆けぬけてきた私の人生。悲しい事に、もう私がその生活に戻る事がないのだと思うと、あの慌ただしさすらも懐かしく感じる。
 一日に三食作ると言ってくれた娘に、二食だけでいいから、と私は丁寧に断った。それ以外はすっかり、学園長が整えてくれた好意に甘えてしまっている。
 洗濯物もその娘が持って帰り、次の日にはすっかり乾いて綺麗に折りたたまれて棚に収められていた。今日も、バランスの取れた夕食を作って彼女が帰っていく。慎ましい女性だった。物静かな雰囲気を纏った色の白い女性。ふもとから来ているのだと、始めてあった時に聞いた。
 私はにこりと微笑んで、ありがとう、と呟く。
 そんな時娘は、いつも私に話しかけたそうに口篭もるのだが、しまいには軽くお辞儀をして出ていってしまう。
 私は彼女の名前を知らない。聞く事もしない。私はこれ以上、この世界で人と知り合うつもりはなかった。私の人生の記憶は、この場所にくる前の部分で、すでに終ってしまっている。




「風邪かね?半助」
 と山田先生が言った。
 私は軽い咳を何度か繰り返してから苦笑する。
「大した事ではありませんよ、少し身体が鈍りましたかね」
  机に向かってテストの採点をする手を止めて、私はいくらか疲れを感じる首を回す。
 開けられたままの入り口の戸から、庭ではしゃぐ生徒達の声が聞こえてくる。
 季節の変わり目だから、と彼が心配そうに呟く。
「そのうち新野先生にでも観て頂きますよ」
 私が安心させる為にそう言うと、彼は穏やかに頷いた。こういうときに、自分が恵まれているのだと私は感じる。私はこの場所で自分の居場所をみつけられたことを幸せだといつも思う。そうすることなく、人生を終えてしまう人もいるのだろうから。
 私はただ一度だけ、自分がこの世に生まれた事を後悔した事がある。守れなかった大切な人と、運命に逆らえなかった私の存在を憎んだ。命を自らの手で絶つことすらも考えた。
 そうしなくてよかったと、今は思う。
 この季節になると決まって、私の手を必要とした幼い手があった事を思い出す。弱かった私の心に、激しさと情熱をもたらしてくれた少年。あの意思の強い眼差しに始めて見つめられた時から、私は彼を見守ろうと決めた。こんな風に暖かな時、桜がその蕾を開こうとする時に。
 瞼を閉じれば昨日の事のように思い出す。
もう八年も前の事だ。 

 資料室で次の授業の準備をしているとき、懐かしい声が私の名を呼んだ。振りかえって、私は思わず笑う。
「可笑しな事だけれど、未だに私の中ではお前たちは十歳のままなんだよな」
 眼鏡をかけた、すらりとしたしなやかな体付きをした青年が微笑む。
 そうすると、記憶のなかの姿とすこしだけ近付く。
「元気にしてるのか」
と尋ねると
「土井先生もお元気そうで」
と大人びた口調で乱太郎は答えた。
 私は手にした資料を腕に抱えて部屋を出る。隣を歩く乱太郎の背丈は私をいくらか越している。
 食堂でお茶と和菓子を出してもらって、私は乱太郎と向かい合って座る。昔の生徒と向かい合う時、私はその年月の重みに喜びと戸惑いを同時に覚える。
「それで、仕事の方は上手くいっているのかい?」
と、私は湯呑で指先を暖めながら聞く。
 彼は少し苦く笑って、まあまあです。と答えた。
 大概の生徒がそうこたえる。私はそうか、と頷いた。
 学園内の穏やかな空気に、どこかで鳴くうぐいすの声が響く。授業をする教師の声。校庭から聞こえる生徒の掛け声。
 乱太郎はしばらく食堂を見回して、何かを探しているような目をしている。私にはそれが何か分かっている。
 この場所にいたころの面影を、自分の中に探しているのだ。
 そういうとき、私はなにも言わずに生徒から口を開くのを待つ。私が何かを言って、解決する問題ではないのだと知っていた。
 しばらくしてから、
「わたし以外に、誰かここに来ましたか?」
と静かに呟いた乱太郎に、私はああ、と穏やかに頷く。
「団蔵と庄左ヱ門がね。2人共元気だったよ」
 乱太郎は少しだけ哀しそうに笑って、そうですか、と口篭もった。
「きり丸は、あいつ、元気にやってますか」
と尋ねられて、私は苦笑する。
「残念ながら、ここしばらく連絡がなくてね。まあ、なんとかやっているだろうさ」
「昔からあいつは、一人前になったら沢山働きたいって言ってたから・・」
と乱太郎が微笑む。連絡がないって事は忙しい証拠でしょ、とまるで自分の事のように楽しそうに笑う乱太郎は、あのころとすこしも変わっていないと私は思う。たとえ、その大人になった心が、哀しみに疲れてしまったとしても。
 彼はしばらくクスクスと笑ってから、ふっと笑みを押さえて
「すこし、仕事を休もうと思うんです」
と私に告げた。
 私は静かに頷く。
「それもいいかもしれないね」
そう言った私に、乱太郎はすこしだけ驚いたように瞳を見開いて、私をみつめる。
「先生は反対しないんですか」
と少し怯えたように言う彼に、何故?と私は尋ねる。
「どうして私が反対すると?」
 乱太郎はそこで息を飲んで、それから無理に微笑むと僅かに俯いた。
「いいえ、ただ・・わたしはいつになっても貴方のだめな生徒なのだなと思っただけです」
 次の授業を告げる半鐘が鳴る。私は立ち上がって、机に置いておいた資料の束を取り上げた。
「他人は色々言うけれど・・」
と私は言って、乱太郎の癖のある頭に手をのせる。
「自分の信じた道を生きなさい。人生は一度なのだからね」
 戸惑いがちな瞳が私を見上げて、私は微笑む。
「おまえは私の誇りの生徒だよ」
 彼は静かに微笑んで、恥ずかしそうに頷いた。




 子供達が巣立っていく時、私はたったひとつだけの約束をした。
 決して望んではいけない、求めてはいけない約束。
 死んではいけない、と。
 子供達は笑った。無邪気に、笑った。
  
 約束はいつも儚いと思う。未来と約束は違う。最近はそう思い込もうとしている。
 皆、期待に胸をときめかせて私の元から羽ばたいていった。わたしはそれを嬉しく思う。私の子供達が幸せで生きてくれると、生きていけると信じているから。
 私が望む事は、あの無垢な笑顔が絶え間なくあることだけだ。




 ある日、利吉くんが訪ねてきて縁側に並んで座って話していた時、私は途中で激しく咳き込んで言葉を詰まらせてしまった。
 そんな私を見て、彼が眉にしわをよせる。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
と私は喘ぎながら呟く。
 すこし呼吸を落ち着けるために二、三度深呼吸をしてから
「ときどきこうなって・・風邪だと思うんだけどなかなかよくならないんだ」
と付け加えた。
 季節はもう春を迎えようとしていた。蕾だった桜は、徐々にその薄紅色の花弁を開き始めている。
 私はふと何気なく空を見上げる。縁側からは、雲1つない青空が見えていた。果てのない、ただ永遠が存在するその場所。
「調べてみたんですか?」
と心配そうに訪ねる利吉君の声に、私は曖昧に笑う。
「お父上とおなじことを言うね、きみは」
それから静かに首を振った。
「まだだよ」
 最近、同僚の教師にも顔色が悪いと言われたことは、利吉くんにはだまっていた。言わなくても、彼なら気付いているだろうけれど。
「私も歳なのかな」
とふざけて言う私に、なにを馬鹿な、とつられて笑いながらも利吉君は納得していない顔をしている。
 私は小さく溜め息をつく。ほんとうに、吐息ほどに小さく。
 そして
「今日の夕方、新野先生に観てもらうよ」
と呟いた。
 気付かなくてもいいのなら、私はそれでもよかったと思う。全てを知ったからといって、救われる事など本当はないのだから。
 夕日が鮮やかに差し込む保健室で、口篭もる保健主任を私は黙って見詰める。
 本当はわかっていたのだから、おそれる事はない筈だろう。
「肺を・・」
と私は自分から口を開いた。
「肺を患っているのでしょう?」
 静かに、私の声は本当に静かに室内に響く。まるで他人事のように、冷たくそして穏やかに。
 彼は黙って頷いた。見逃してしまいそうに小さく、けれども確かに頷いたのだ。
 私は眼を閉じた。瞼を閉じて、ゆっくりと呼吸する。そして全てを吐き出してしまうために、深く息をはく。
 吸い込んだ空気は、甘くそして突き刺すように冷たい。
 再び瞼を開いた時、私は微笑んだ。なにも怖くはないよ。
「そうではないかと、思ってたんです」
 私の驚くほど落ち着いた声に、新野先生は視線を上げる。私は彼をしっかりと見詰め返す。
「それで、確率はどれくらいですか」
 私が意味したのは完治する確率だった。すなわち、生きる事の。
 彼は黙っていた。私はああ、と思う。
「静かな場所で療養すれば・・」
と彼は言った。
「学園長にはお話しておきますから」
 私は微笑んだ。全てが終る瞬間だった。なんて静かなんだろうと思う。思えば私が生きてきたすべてが、こんなにふうに静かだったのかもしれない。私の心の中も、凪のように落ち着いている。
「わかりました」
と頷いた。
 私は立ち上がる。そして生まれ堕ちた時のように、背伸びをする。
 新野先生はそんな様子を黙って見ていた。
「哀しくはないですよ」
と私は出口の障子戸に手をかけて言った。
「私はほんとうに幸せでしたから」
 私は、そして振り向く。長く共に働いた職場の同僚に、もっとも残酷な宣言をしなければならなかった彼は、どんなにつらかっただろうと思いながら。
「それに、私がいなくてもみんな大丈夫です」
 私の生徒も巣立っていったし、残す家族も持っていない。
 彼は黙ったままだった。
 私は戸を引いて廊下に出る。春の独特の香り。一番新しい夕日。
「あの子は」
と声がして、私は保健室内を振り返る。
「あの子は貴方を必要としている」
 新野先生は静かに、けれども必死な声で私に言った。なにかを私に残そうとしているようだった。私の気力を奮い立たせようと。
 私は一瞬立ち止まって、それから
「ありがとうございました」
と言って障子を閉めた。

 不思議だった。今まで見ていた全ての景色が、新しいもののように見えた。
 燃えるような夕日に染まる学園。私の脇を、数人の生徒が走りぬけていく。楽しそうに、笑い合いながら。
 私は彼の残した言葉を思った。きり丸のことを思った。
 私が消えて、あの子は哀しむだろうか。私はただ眼を閉じる
 それなら、とあの子は言った。私が彼等に約束を求めた時に。
― それなら先生も死なないでよ。
 どうやら私はその約束を守れそうにない。
 いつかまた生まれた時に、私はあの子達とまた出合いたいと思う。私に足りなかったものを与えてくれた存在、私の孤独と冷めたさのあいだを通りぬけていった風。
 もうニ度ともどることはない、あの時代。また出合えるのならば、私は哀しくはないと。
 
 いつだったかきり丸は言った。
― 空みたいだ。
と。
 私が曖昧に笑うと、あの子はまっすぐに私を見た。
―先生はいつだって、俺の側にいるから。


 私はどこにいくのだろう。
 この命の果てに何があるのか、私はまだ見出せてはいないのかもしれない。この命のもった意味を。
 けれどもそれもいいだろう。
 私は確かにこの場所に生きた。生きると言う事に、人は様々な理由を見つけ出す。私にとって生きるとは、この場所で過ごした時間そのものだった。私の出会いはこの場所で始まり、この場所で終る。
 たとえ私の命が尽きても、私の存在はこの場所の片隅に残るのだ。ひっそりと、静かに。私が触れたもののうえに、その存在を残していく。
 還ろうと思う。私が存在したそれ以前に。
 願わくば、この空になりたい。どんなときでも、あの子を見詰めていられるように。哀しみや痛みにあの子が倒れた時、包んであげられるように。
 そしてあの子の心の片隅に、私の記憶があればいい。あの子の心が私の還るべき場所になる。
 そうなればいい。そう信じる事で、私はこの命にけじめをつけようとしている。










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