その時俺は、情報収集のためにとある城下町で商人のふりをしていた。フリーとして働き始めてまだ2年。そんなに華々しい仕事があるわけでもなく、地道な仕事をこなしていた。生来の性格が災いして、思わず商売のほうに力がはいりすぎるきらいもあったが、それでも確実に忍者としての仕事は増えていっていた。
 そこに、ごくふつうの農民を装った利吉さんが訪ねてきたのは、正月も終わりの、寒い日だった。 「土井先生が亡くなられた。」
利吉さんは、まるで仲間の忍者が業務連絡をするみたいに、無機質にそう言った。
 ドイセンセイガ、ナクナラレタ?

 俺は阿呆みたいに利吉さんに伴われて忍術学園に、なつかしい母校に戻った。だれに何の報告もせず職場放棄して。
 学園で、かつての恩師、山田先生が迎えてくれた。すごい痛々しい目をして。なぜ? なんでそんな目?
 ここへ来るまで、俺は利吉さんに何も聞かなかった。だって、今までだっていつも、とんでもない事態に巻き込まれて、もうこれまでだと思うような目に遭わされて、結局それが追試だったの補習だったのってことがしょっちゅうだった。第一、俺は夏休みにちゃんと土井先生に会っているんだ。何も変わったところなんかなかった。その土井先生が死んだなんて、たちの悪い嘘に決まっている。どうせ学園長が俺に何かさせたいんだ。おあいにくさま。俺はいつまでも忍たまじゃない。そうそうそんな手にひっかかってたまるか。そう思ったから。
 なのに、山田先生、なんでそんな目をするの? あちこちで泣いている後輩どもは何? あいつらも仕込み?
 おなじみの山田先生と土井先生の部屋には、今、土井先生の代わりに保健の新野先生がいた。新野先生も、まるで俺が、俺自身が今にも死ぬみたいな、哀れみの目で見ている。なぜ?

 「秋頃からひどく咳き込むようになってな。」
山田先生はそう切り出した。
「気管支か肺をいためていたんだろう。」
そういえば、夏風邪を引いたって言っていたかな。でも、熱もなかったし。
「それで、発作を抑える薬を調合したのですが。」
と新野先生。
「そういう薬は心臓を弱めるんだ。だからもちろん、細心の注意を払って使っていたつもりだったのだが……。」
細心の注意? だったらなんで。俺は黙って聞いていた。
「土井先生はまだ若いし、体力も人並み以上にある。なのに、寒くなってから、あれよあれよという間に衰弱し始めて……。」
スイジャク?
「多分、それまでの、ずっと以前からの心身の疲れが一気に出たのだろう。今月に入ってからはほとんど寝たきりだった。」
山田先生が後を引き取って言った。
「あの日も、とても寒かったので、温かい白湯でも持ってこようかと声を掛けたら、お願いしますと笑って言ったんじゃ。そして、食堂へ行って、戻ってきたらもう……。」
 俺は涙も出なかった。悲しいのか何なのかも分からない。信じられるわけがない。だけど、山田先生が嘘をついていないことは、俺にも分かった。分かったけれど……。
 2週間ほど前のことだと言う。俺の行き先が分からなくて、連絡が遅れたのだと。同じフリーの忍者の利吉さんが、探し出して連絡してくれたんだ。葬式は学園葬として行なわれ、俺以外の元は組の連中がみんな来たそうだ。俺だけが行けなかったってか? よりにもよってこの俺が?

 次の日、山田先生に伴われて、俺は土井先生の墓に行った。なんのことはない。俺と土井先生が暮らしていたあの町の墓地だった。土井先生の希望で、土葬ではなく、荼毘にふされたという。
「土井先生の希望って? ふだんから先生たち、そんな話をしてたの?」
「いや、遺言状に書いてあった。」
「遺言状?」
「うむ。こんな職業だからの。いざという時のために、みんな書いてある。」
そうだったんだ。俺はそんなこと知らなかった。
「なんで土葬じゃいけないの?」
俺は墓を掘り起こしてでも土井先生の死を確認しなければ信じられない気持ちだったのに。
「さあな。ご家族がみんな火の中で亡くなられたから、それと何か関係があるのかもしれんな。」
 家族? そんなもの、俺は知らない。土井先生の家族。なんとなく、亡くなったのだろうとは一緒に暮らす中で感じてはいたが、確認したことはなかった。土井先生の家族のことなんか、何も知らない。そう。土井先生の具合が悪いことすらも知らなかった。
「これを、お前に。」
そう言って山田先生が差し出した紙包みをあけると、一房の髪の毛が入っていた。聞かなくても分かる。売り物にもならない、手入れの悪い先生の髪。
「それから、家にあるものは何でも売っぱらっていいそうだぞ。」
いくら俺でも、こんな時に。そう言おうとしたけど、何か言ったら、何かが壊れそうで言えなかった。
「幾らかの蓄えもあれであったらしい。全部きり丸に譲ると。」
そんなの、遅いよ、土井先生。俺、もう自分で稼げるんだからさ。授業料もいらないしさ。
それに、逆だろ? だから俺あの時……。そうだよ、あれが最後だったんだ。最後? 嫌だ。そんな言葉、使いたくない。

 俺はそのまま仕事に戻らず、あの家に帰った。口もきかない俺を心配して山田先生が付いて来た。何度も何度も、大丈夫か、気を確かに持てとうざいくらいに繰り返してから、ようやく学園に帰っていった。
 静かだった。正月にはここに帰らなかった。仕事で忙しかったから。土井先生も具合が悪かったから学園で休んでいたそうだ。何ヶ月も無人だった家は、ほこりっぽくて、かび臭かった。学園から帰ると、いつも土井先生と二人で掃除することから始めた。バイトから帰ると、いつも土井先生が「おかえり」と笑って迎えてくれた。時にはいきなりげんこつが飛んでくることもあったけど。でも、いつも、いたんだ。先生がここにいたんだ。
 卒業してからは、俺は学園が休みの時を狙って帰るようにしていた。恥ずかしいからあんまり認めたくないけど「おかえり」って、言ってほしかったから。火の気のない家に帰るのが嫌だったから。
 だから夏休みにも、3週間ばかり俺は家に帰って、ちょっと2、3日ですむような仕事ばかりしていた。そして、先生の休みも終わりに近いあの日、俺はふと思いついて言った。今まで当たり前みたいにしていたけど、いつまでも甘えていちゃいけないことに気づいて。
「先生、俺も稼げるようになったからさ、いつまでも居候もないだろ? 今度から食費入れるね。家賃も半分こしようよ。」
俺は、先生が喜んでくれると思った。なのに、先生はちょっと困ったように笑って言った。
「まだそんなに高給取りじゃないだろ? 今までどおりでいいから、金は自分のために使いなさい。」
正直俺は傷ついたんだ。せっかくの申し出なのに、なんでいつまでも子ども扱いするんだ。もう俺は一人前なんだ。居候じゃなくて同居人になりたかったんだ。その気持ちを、先生は踏みにじったんだ。
「いつまでもガキ扱いすんなよ。」
俺はふくれてそんなことを言って、次の日、行ってきますとも言わずに仕事に出た。
「無理はするなよ。」
土井先生のいつものそんな言葉も、子ども扱いされているようで腹が立って、返事もしなかった。
 それが、最後。

 俺は掃除をする気にもなれず、火も起こさずにぼーっとしていた。
 ろくに口もきかずに家を出て、仕事に戻ってから、しばらくして俺はちょっと後悔したんだ。でも、まあいいやと思った。今度帰ったとき、謝ればいいや。土井先生はいつまでも怒っていたりしないから。今度……。
 こんなことなら、冬休みに帰ればよかった。そして、先生に謝っておくんだった。今までのお礼だって、考えたら1回も言ったことない。
 ごめんなさい、先生。先生は俺のこと思ってくれていただけなのに、生意気な態度とって、返事もしないで、手紙さえ書かなくて、ごめんなさい。
 俺はただ、一人前だと認めてほしかっただけなんです。怖かったんです。もしかしたらいつか、先生のことだから、俺みたいな生徒がまた入ってきた時にそいつを家に入れるのかもしれない。その時俺は、追い出されるかもしれない「居候」じゃなくて、大きな顔して一緒にいられる「同居人」になっていたかっただけなんです。ただ自分の都合を先生に押し付けようとしていただけなんです。それさえも素直に言えなくて。
 俺はばかだ。なんで言えなかったんだ。ちゃんと話し合えば、先生がどういうつもりだったのかも分かったのに。もう永遠に分からない。何も伝えられない。どんなに謝っても、どんなに叫んでも、先生にはもう伝わらない。先生が何を考えていたのかも、俺には伝わらない。もう二度と。
 俺はばかだ。知っていたはずなのに。人間なんていつ死んでしまうか分からないって。昨日までそばで笑っていてくれた人が、今日はもういなくなってしまって二度と会えないってことがあると。俺はよく知っていたはずなのに。
 なぜ、土井先生だけはずっといつまでもいてくれるなんて思ったのだろう。今度帰った時なんて、当たり前みたいに思っていたのだろう。どうして。
 悔しかった。自分のばかさかげんが。それさえも、もう先生に伝える術のないことが歯ぎしりするほど悔しくて。でも何もできなくて。すべてが俺の体を素通りしていくような無力感を感じていた。何が一人前だ! 俺はこんなにガキだ。無力で、何も知らなかったし、分かっていなかった。




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