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若田接骨院移転


現在の接骨院が若田の交差点に移転したのは、以前の接骨院の横に、福松不動産があった事がきっかけとなっている。

2004年のある日、旧接骨院の前で、現在の社長である江松君(当時は彼の父親がご健在であったので、その当時は彼の父親が社長であった。その頃から彼のほうが年下なので、江松君と呼ばせていただいている)とたまたま出くわした時に、接骨院の前でしばらく雑談をすることになった。

その時、何気に私が「あの若田の交差点にある空き地、地主さんが売ってくれるなら俺が買うよ!」と、 えらそうに言ってしまったのがきっかけだった。 私はそのようなことを言った事すら、すっかり忘れかけていた1週間後に、江松君が私のところに得意げに来て「先生!地主さん、あの土地を売ってもいいそうです!」と言ってきた。


移転後の若田接骨院外観


地主さんは、今までに何度も不動産屋が売ってくれと言ってきたそうですが、その時まで売る気は全く無く、地主さんは「いつも不動産業の方が、売って欲しいといってきた時は断っていたが、若田接骨院がここに移転する事でこの土地が、地域の人たちが喜んでくれるように役に立つことに使ってくれると言うならば、お譲りしてもいいですよ」と言うことだった。

「買うよ!」と偉そうに言っていた私は、まさか本当に売ってくれるとは思っていなかったため「ごめん、1週間だけ考えさせて」と返事をした。1週間どうし ようと本気で悩み考え、このようなチャンスは二度とないと、ここに移転することを決意した。そして、この決断から再び私の借金生活が始まることとなる。



接骨院を建築し始めて、基礎工事が終わった頃に、新しい接骨院が出来ることを1番楽しみにしていた父が、自分に原因が無くお腹が少し膨らんできたため、病院で検査をしたところ、末期の肝臓癌あることが分かった。お腹のふくらみは、腹水が溜まったためである。

そして、日に日に身体の調子が悪くなっていき、入院してから2週間ほどで他界した。新しい接骨院の地鎮祭の時には、一緒に元気にお参りしてくれていたのに、父の最期はあっけなかった。

私は、医師から病状を聞かされたときに、せめて接骨院が完成したところを見てもらおうと考えた。それが一番の親孝行になるのではないかと考え、何とか完成を早めてもらい間に合わせたいと思ったところであった。


仏壇の写真


現在、私がこうして元気に仕事に励むことが出来るのは、心から父のお陰であると思っている。



私が柔整(接骨院の先生になるための学校)に行きたいと親に話した時に、サラリーマンの家庭であった我が家では、親戚や家族みんなから反対されていた。将来開業すれば、自営業となるため、不安定な生活をおくる可能性があるためであった。当時、膝が悪くて接骨院に通っていた祖母までもが反対をしていた。「出来れば公務員になって一生を安定した形で過ごして欲しい」と、母は毎日のように私を説得しようとしていた。

ある日の夜、父が時間をとって柔整に行く事を諦めるように、私の説得にかかった時、「俺は親父のようにはなりたくない!」といった瞬間に父は、私を説得するのを諦めた。「分かった!好きにすればいい!」と、寂しそうに、席を立ったのである。この一言がなければ納得してくれなかった父に、言ってはいけない切り札を言ってしまった。いまだにこのことで後悔している。

もっと他に良い言い方は無かったものかと・・・



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