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9.若田接骨院が移転する
平成17年(2005年)

若田接骨院の移転にまつわる思い出
現在の若田接骨院が、若田の交差点に移転することになったきっかけは、旧接骨院の隣にあった「福松不動産」でした。現在もご縁があり、若田接骨院の向かいに数年後に移転しています。
2004年のある日、旧接骨院の前で、当時は社長の息子だった江松君(現在の福松不動産社長)と偶然出会い、しばらく雑談をしていました。その会話の中で、私は何気なくこう言ってしまったのです。
「若田の交差点にある空き地、もし地主さんが売ってくれるなら、俺が買うよ!」
少し偉そうな言い方だったかもしれませんが、その場の流れで軽く口にした感じでした。
その時に話したことは、直ぐにすっかり忘れてしまっていました。(笑)
ところが1週間後、江松君が嬉しそうな顔でやってきて、こう言ったのです。
「先生!若田の交差点の地主さん、あの土地を売ってもいいって言ってますよ!」
まさか本当に話が進むとは思っていなかったので驚きましたが、これが現在の若田接骨院の場所に移転するきっかけとなったのです。まさか売ってくれるとは。。。


移転後の若田接骨院外観
移転後の若田接骨院外観

地域のためにと譲られた土地
その土地の地主さんは、これまで何度も不動産業者から売却の打診を受けていたものの、すべて断っていたそうです。しかし今回は「若田接骨院が移転して、地域の人たちの役に立つなら」と、譲ってくださることになりました。
私は驚きつつも、「ごめん、1週間だけ考えさせて」と返事をし、本気で悩みました。そして「こんなチャンスは二度とない」と決意し、移転を決めました。こうして、再び私の借金生活が始まることになります。


父の病と別れ
接骨院の建築が始まり、基礎工事が終わった頃、父が体調を崩しました。原因不明のお腹の膨らみがあり、病院で検査を受けたところ、末期の肝臓がんであることが判明。腹水が溜まっていたのです。
入院後、父の体調は急速に悪化し、わずか2週間で他界しました。地鎮祭では元気に参列してくれていた父の、あまりにも突然の別れでした。
医師から病状を聞かされた時、私は「せめて完成した接骨院を見せたい」と思い、工事の早期完成を願っていました。それが、私にできる最大の親孝行だと信じて。


父の仏壇

父への感謝と後悔
今、私が元気に仕事に励めているのは、父のおかげだと心から思っています。
私が柔道整復師(接骨院の先生)になるための学校に進みたいと話した時、サラリーマン家庭だった我が家では、親戚も家族もみんな反対しました。自営業は不安定だからと、祖母でさえ「公務員になってほしい」と言っていました。
ある夜、父が私を説得しようと時間を取ってくれた時、私は「俺は親父のようにはなりたくない!」と口走ってしまいました。その瞬間、父は静かに「分かった、好きにすればいい」と言って席を立ちました。
その言葉がなければ、父は納得してくれなかったかもしれません。でも、私は今でもその言い方を後悔しています。
もっと他に、優しい伝え方があったのではないかと…。


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