宮島会50周年記念座談会

「宮島会の昨日、今日、明日」

出席者氏名

 野村龍雄さん(顧問、元会長)

 山崎忠弘さん(笹倉三区民生委員) 

飯田徹栄さん(元副会長等)

 西田修三さん(顧問、元副会長等)

 高橋利博さん(企画委員)

 小山昌枝さん

 大浦文雄さん(企画委員、元会計等)

 (司会)

 中村剛和(宮島会会長)

会長 お忙しいところありがとうございます。宮島会が50周年を迎えるにあたり、今日は宮島会について色々お話を頂き、これからの宮島会のあり方について考えていきたいと、こうした座談会を開かせていただきました。よろしくお願いいたします。

まず、宮島会の成り立ちについてお話をいただければと思います。

  ここに47年発行の宮島会会報がありまして、その中に、今は亡き笹木長作さんが書かれました「宮島会誕生の因」という文章があります。

西田 そうそう、それは会報の第1号で、ガリ版刷りですが私の作ったものです。

    話のきっかけとして読んでみますので、ちょっとお聞きください。(座談会記録末尾の「宮島会誕生の因」参照)

これを読ませていただきますと、宮島の誕生は、最初は子供達に何かをしてやろうということで始まったのだと見受けられるのですけど、宮島会当初に関わった方で、何か当時の思いでというものがおありでしょうか。

西田 そうですね、当時、公民館で私が6年生として前へ出てラジオ体操をやっていたのを長作さんが見て、「こんな狭いとこでせんと、お宮さんへ行ったらどうか」といわれ、それでお宮さんへ行ったらラジオが聞こえない、そこで、電器屋をやっていた私の隣の瀬戸さんへ、笹木さんが頼みに行って、屋根にスピーカーを付けてもらって、お宮さんに向けてラジオ体操を流した。それが、きっかけでした。最初、笹倉三区の子供達でやっていたのが、次の年には、1区、2区、3区、4区全部寄るようになってだんだん子供達が多くなり、あの境内に入りきれないぐらいになった。また、ラジオ体操が終わったら笹木さんがボーイスカウトをやっていたことから、ボーイスカウトでやるゲームをしり、1分間黙祷をさせられたり、それから終戦後まだ5,6年だから、あの人も兵隊に行っておられて戦地での話を聞いたりしていた。そん中、さらに海水浴へ連れていけ、或いは、運動会するかとか野球をするかとか言うことで、それじゃ何か親睦会でも作れば良いんじゃないかと言うことで高辻さんだとか、中村謙二さんだとか、そういう人たち10人程寄られたと思うんだけど、沢田の酒屋さんだとかね。

飯田 高橋さんのお父さんが、やはり一番真剣になってね、やられた。

西田 やはり、なんと言っても笹木長作さんと高橋さんは向かい同志だから、よく相談しておられた。

高橋 あの時代、どこでもそうだったように、近所の人がお茶のみに良く寄って来られた。笹木長作さん、それから、横井米蔵さん等が集まったとき、「速星に五星会というものがある。地域でまとまって、いろんな事をやっている。ここでもそんな会を創りたい。」というようなことを話していた。それが、何回も公民館によって話し合いをしても実らないんですね。やはり、反対する人もいらっしゃったんですね。やはり、地域の問題とか、これからやっていこうとすることが見えないと言うことがあったんですね。現実的には、修ちゃん(西田さん)が話されたように、子供達の数が増えてきたりして面倒を見なくちゃいかんという現実があった。そして、地域として面倒を見ていこうという人達が何人もいた。最終的に、中村二さんが地域の活性化のために尽力され、結成されることになった。会の名称も、幾つも候補があってなかなか決まらなかった。最後に、中村会長が決断して、宮島会という名称になったんです。この会が生まれ、会の目的は、先ほど修ちゃんが話されたように子供にあったわけです。

会長 子供達を地域で面倒みようと言うことをきっかけとして、笹倉三区の住民の親睦を目的として宮島会が結成されたわけですね。

野村 その前に、おそらく、中村謙二さんと私の親父などの射水出身の人達、山田さんもいたね。今でも何人か笹倉にいらっしゃるだろうと思いますが、射水郷友会というものを創っていて、年に一度か二度、旅行したり一杯飲んだりしていた。それがおそらく宮島会の母胎になったんじゃないかと思います。

西田 そうそう、そういう方々が宮島会に寄付をしてくれ、会費以上の収入がありそれで1年間の事業ができたくらいだった。

飯田 当時は、笹倉三区全員が宮島会の会員だった。否応なしという感じでね。それにも批判がやっぱりでて、親睦会がなぜ強制的なのかとね。

野村 当時は今と違って、車もない時代、プールもないし、海水浴へまとまっていくことが非常に楽しい時代だった。

西田 海水浴だといえばバス3台満員になった。子供が来れば親も来ると言うことで、座席に座れず立ってまで行った。

野村 親が一杯飲む企画もやっていて、そうした活動を積み重ねることで、三区といえば宮島会という風になり、強制的云々という批判もなくなってきた。

西田 それから牛岳に行くようになり、10年ぐらい続いたのかな。

野村 小鳥山へツグミを食べにいったこともあった。

高橋 歩こう会もあった。

西田 子供中心ということで始まった宮島会だったが、親もということで、総会をやり1杯飲むようにしたり、秋のレクレーションは、親を中心に企画したり徐々に活動の幅を広げていった。

会長 初期の子供中心の行事は、今も強くみなさんの記憶に残っていると思いますが、そんなところを少し話していただけないでしょうか。

野村 やはり、海水浴ですね。海水浴など家から行くということがなく、行くとすれば小学校とかの団体で行くしかなかった。今の環境とは全然違っていて、車もないしバスで海水浴へ行くと言えばみんな集まってきた。

飯田 親睦会で海水浴へ行ったのは宮島会がこの地域では初めてだった。

西田 そう、部落と言うことで行ったのは初めてだった。

飯田 記憶といえば、私が初めて企画委員になったとき、子供達を海水浴へつれていくについては、危険が伴うと言うことで、企画委員だけで下見に行ったこともありました。

高橋 氷見の大境まで海水浴に行ったことがありましたね。

西田 氷見から、千里浜からそして柴垣までえらい遠いところまで行きましたね。

会長 それは子供にとっては楽しかったでしょうね。

今、皆さんにお話しいただいていることは、50周年記念誌に載りますが、50年間の宮島会のことをいろいろお話しいただいていることで、宮島会あるいは三区から育って行かれた方で、地区外で住まいしておられる方もたくさんいらっしゃいます。そうした方々に宮島会のことを懐かしく思い出していただけると思いますので、企画委員の中で、そういう地区外の人たちにも読んでいただきたいという話もしております。

飯田 外へでたのは、ここでは私だけですが、やはり宮島会のことは忘れられなくて外へでてからも12年ほど席を置かしていただきました。

会長 発足当初は、子供達を中心にということだったそうですが、色々の活動中で楽しい思い出がたくさんあり、大変よい時代だったんだな、ということが感じられました。

そこで、野村先生が宮島会に携わられたのは15周年前後と聞いていますが、その当時の宮島会はどうだったのでしょうか。

野村 私がこちらへ帰ってきたのは昭和44年で、そのときの会長が関剛三郎先生でした。帰ってきて2年目にその会長から役員をやれというので、おってもおらんでもいいような役員でした。(笑い)それで、先生から「あんた、会の組織を勉強しられ」と言われたんです。それからもう一つ、あんまり良い話じゃないけどね、宮島会の歴史は町会議員の選挙の歴史でもあるんで、島林秀直さんが企画委員で非常に世話をしていただいたものだから是非町会議員にということで選挙のお世話をした。当時、町会議員は笹倉で4区、7区、1区からという風に笹倉から沢山でておられ、選挙が大変だった。結局、私は10年間会長をやったわけだけど、その間はまるで選挙の歴史でした。(笑い)どうしたら勝てるかと、そんな事ばかり考えていたような気がします。私が会長の10年間は、宮島会が一番華やかだった時期でした。だから総会をやっても会員が沢山出ておられてね、色々質問するやつが一杯おって大変だった。ま、誰だか言うと語弊があるので言わないけれど。(笑い)

会長 先生(野村先生)が会長の時はどんな活動をやっておられたのですか。

野村 私の時は、沢田さんや西田さん、それから横井さんが副会長をやってくれたりして、だいたいそれまでと同じような活動をしていたんですが、牛岳の山菜取りは、私が会長の時始めた行事でした。最初、山菜採りやらんまいかと言ったとき、欲の皮が突っ張った人達が沢山来て、おっかちゃん達も沢山とっていたし、飯田さんなんか、リュックに満杯とっていた。(笑い)あれが大ヒットしたんですよ。だから、その後、ずーっと続いたんですね。

西田 千光寺へバスで行ってブドウ園まで歩いたこともあったけど、あれはずいぶん遠かった。腹が減って、ジンギスカン2人前づつ食べた思い出がある。(笑い)

小山 会が発足した当時は、役員の方はどのくらいおられたのですか。

高橋 会長、副会長1名、区長、そして会計1名。これだけで色々な企画をやっていたんですね。

会長 今と違って区の人達も仲が良かったじゃないですか。今はもう、すれ違っていても誰だか分からないような時代になってきている。今年あたりは宮島会の役員の人達が活発にやってくれていますからいいんですが、活動が低調なときは、やはり住民のつながりも薄くなるような気がしています。

高橋 隣組とか隣保班という言葉は日本ではもう死語になっていますが、隣保班という言葉がまだ生きていた当時の時代背景のなかで、宮島会が機能していたし、皆さんが思いを寄せていた。それで、何か行事をやろうと言ったら集まってくる。ところが、今こういう時代になってくると、つまり、一人一人の楽しみが違ってくる、即ち、非常に価値観が多様化してきている時代の中で、宮島会の旗を振り続けることはかなり難しい物があるような気がします。

会長 この地域で育っていない私が、一番うらやましいと思うことは、60過ぎの人達が色々の集まりがあった時、「何々ちゃん、何々ちゃん」という感じで話をしておられるのが非常にうらやましい。でも、今の子供達が我々の年代になった時、そんなつきあい方ができないのではと思うと大変寂しく思います。

野村 当時子供達は、学校から帰ってきたらみんな外で遊んでいた。大学へ行っていたのだが、帰省するとお宮さんで子供達とよく野球をやっていました。それを見て親父は「何やっとる、勉強でもせんかい」とよく怒られた。そんなことですから子供達のつながりは強いし、またその世話をした親たちのつながりも強かった。今、外で遊ぶ子供達はいませんね。

会長 大変寂しいですね。しかしそんな中でも宮島会の活動が、少しでも地域の子供や大人達のつながりを作っていくことに役立てればと思います。そんなことも考えながら、今後、若い人達と一緒に宮島会の運営をしていくことが大切だと感じました。

小山さんにお聞きしたいのですが、女性の立場から見て宮島会の活動についてどう思っておられますか。

小山 私は、平成元年にこちらに移ってきて、笹倉三区の住民になったんですが、今皆さんのお話をお聞きして、宮島会の歴史はすごいなと感心しています。昔、子供のためにとの思いで会を創りあげてこられたものを、今もう一度、お年寄りのため、そして子供達のために地域がまとまって行くように努力をしたいですね。ただ、じゃ何をしようかと言ったとき、具体的なことはなかなか思い浮かばないんですが。

会長 若い人達の参加がが少ない事が、今後の活動のイメージを創りあげていく上での大きな問題だと思います。

西田 今の若い人のほとんどがサラリーマンと言うことでなかなか活動に参加してもらえない現状があり、大変寂しいですね。

会長 若い人がまだまだ地域に沢山にいらしゃいます。その人達が、地域で活躍する場を作っていってほしいと思います。そこで、大浦さんにお聞きしますが、これからの宮島会の活動を担っていく立場から、宮島会の活動について何か思うところがありませんか。

大浦 私も小さい頃から宮島会のお世話になっていて、ナイター運動会などは思い出の一つになっています。昔との一番大きな違いは、テレビと車だと思います。昔は、家にいても楽しみがない。だから外に出て皆と遊ぶ。今は家に色々楽しみがある。テレビもあればゲームもある。行楽には、家族単位で自家用車で行く。またもう一つは、学歴社会の中で、子供達のほとんどが学習塾へ通っている。そんなことで、子供達を取り巻いている環境は昔とずいぶん違ってきていて、外に出て遊ぶという環境でなくなってきています。

会長 宮島会の子供達の数が減るに従い、お年寄りの数が増えています。

そんな中で、山崎先生は民生委員等して、今、大変ご苦労されています。先生のお立場から宮島会のあり方、方向性について何かございましたらお話しいただきたいのですが。

山崎 一つ問題点があろうかと思います。婦人会のことです。宮島会の予算の中には若妻会に対する援助がありますが、婦人会が今なくなっています。是非、婦人会の復活か、または、若妻会の充実化を図っていく必要があるのではないかと思います。それから、高齢者については、今75歳以上の方が三区では73名いらっしゃいます。その中には閉じこもりの傾向がある方もいます。さらに何人かのおばあさん方が「何か集まれる場所があればいいね。」とも言っているわけですね。ある地域でやっているような「生き生きサロン」というような場、気安く集まって気安く話せるような場を設けることも今後考える必要があるのではないかと思います。

小山 山崎さんが言われたように、私も、お年寄りのたまり場、身近でいつでも行けて、そこへはお年寄りだけでなく子供達も含め誰もが気軽に行ける所ががあればいいなと思います。今、お年寄りをねらった悪質商方や「おれおれ詐欺」などがあって、色々相談できるたまり場があればそうした点からも役立つと感じます。また、中高生の重大犯罪が増えていますが、そういう子供達でも誰か事前に話を聞いてやっていれば事件が防げたという教育者の話もあって、お年寄りに限らず誰でもが気軽に相談できる場が必要だと思っています。

野村 皆さんのおっしゃることはよく分かります。しかし、なかなか難しい。私も、医院の2階が空いているので皆さんの溜まり場になれば良いと、こたつもお茶も用意して、皆さんに来てもらおうとしたんですが、なかなか利用してもらえなかった。やはり、リーダーシップをとって皆を引っ張り、お世話をしてくれる人が必要です。今日、宮島会の発足の歴史を聞きましたが、あれはやはり島林秀直さんとか笹木長作さんとかが強いリーダーシップで引っ張っていってくれたからできたことで、そんな人達がいなければなかなかできないことです。

それと、現在、地域には60歳の定年をを過ぎた方が沢山おられます。この人達はまだ壮年です。そういう人達をターゲットにするよう方向転換する必要がある。それにしても引っ張っていってくれる人がいる。

山崎 なかなか心強いお話を伺ったわけですけど、やはり、条件整備と言うことが大事だと思いますね。宮島会とも協議させていただいて、当初は5人か6人でいいと思いますが、小さい輪からどんどん口コミで輪が広まっていくように、中期的、長期的な視点から宮島会傘下の元進めていきたいと思っておりますので、ご協力をお願いします。

会長 地域を守るということも宮島会の使命だと感じています。先ほど、高齢者相手の詐欺の話が出てきましたが、何かあれば宮島会に相談してもらう、そんな会にしていきたいと思っています。宮島会50周年をステップにして、この地域に住む人達が安心して暮らせる、そのために若い人達、また、退職された壮年の方々の協力も得て、宮島会も努力をしていきたいと思います。今後とも皆さんのご指導、ご協力をお願いして、今日の座談会を終わりたいと思います。皆さん、今日は、沢山の貴重なお話、ご意見ありがとうございました。





<昭和47年発行宮島会報より>

 「宮島会誕生の因」 笹木長作

昭和30年10月に宮島会が発足して17年余、年々発展していく会を見るにつけ、私は、宮島会が発足されるまでの、色々の苦労を思い出します。当時の町長浅野長隆氏より、町青年団の設立と、町第3隊ボーイスカウト隊の設立を依頼され、一方、婦中体協の結成に時間をかけていた頃のことです。小学校の夏休みにはいると「仲良し会」ができ、毎朝、笹倉神社に集まり、ラジオ体操をしていました。小学校の高学年がリーダー格で行っていましたが、統制も取れず烏合の衆であったのを、陸上の選手として毎朝トレーニング中の私は、見るに見かねて、体操のガキ大将をかって出て(25年頃)以後、毎年夏休み中、体操にかり出されました。そもそも、宮島会(当時の親睦会)の設立の動機は、ここから始まったのです。体操をしている内に、子供達から海水浴に行きたいと、毎朝せがまれ、諸般に働きかけ、色々苦労してようやく海水浴は実施できました。これを機会に映写会、野球、相撲にと子供達を中心に3〜4年続きました。その時、今は亡き高辻さんが、積極的に助言下され、今日の市街化を予想し、住み良い地域造りに、又親睦を深めることを目標に、指導下さったのを忘れることが出来ません。私は、この陰の援助を得て、又、各有志の方と計り、初代会長中村謙二さん、総務係(事務局)に高橋利隆さんと私とで細々と設立の段階に入ったのです。会名も昔の字名宮島をとって、中村会長が提唱され宮島の名がつけられたのです。