1.心に残るソリスト


 独唱を聴く楽しみは、合唱のそれとはかなり違います。そこで、ここでは、私が今までに聴いたことのあるボーイ・ソプラノ(アルト)の名ソリストを取り上げ、その歌唱の特徴について述べます。

   1 アーネスト・ロフ  (Ernest Lough 1911〜2000)

 1911年ロンドン生まれのアーネスト・ロフは、世界で最初に録音を残したイギリスのボーイ・ソプラノの一人です。CDに復刻された1920年代前半の歌声を聴くとむしろ女声に近い清澄で繊細な響きです。これは、現在のイギリスの聖歌隊の響きにも通じるものです。また、歌っているヘンデル・シューベルト・メンデルスゾーン・ブラームスの歌は、今のボーイ・ソプラノにも歌い継がれている曲が多く、ボーイ・ソプラノの源流を探る上でも貴重な録音といえます。

   2 デレク バーシャム(Derek Barsham 1930〜 )

 1930年の北ロンドンで誕生したデレク バーシャムは、第2次世界大戦という歴史と共に生きてきました。1941年にイギリスに謎の飛行をして捕虜となったナチスの副総督ルドルフ・ヘスの前で歌ったこともあります。また、ボーイ・ソプラノとしての全盛期である1944年から1947年までデレク バーシャムの歌声はBBCラジオでライブ放送されていましたが、1944年6月にはノルマンディー上陸作戦で連合軍への信号としてヘンリー・パーセルの「ニンフと羊飼い」の歌声が使用されてきたと考えられています。1947年の録音が残されていますから、16歳ぐらいまでボーイ・ソプラノを維持していたことになります。その歌声は、高音が清澄でありながらも歌に包容力があり、温かみを感じさせる歌唱です。なお、1995年以後にはボーイ・ソプラノ時代の歌声の録音と自身のバリトンの歌声とデュエットした録音も残しています。また、孫のような世代の当時14歳のボーイ・ソプラノ ハリー・セヴァーともデュエットしています。

   3 ビリー・ニーリー(Billy Neely 1935〜2012)

 デレク バーシャムの後を継ぐように現れたビリー・ニーリーは、1935年にベルファストで生まれ、1946年にセントアン大聖堂、ベルファストの聖歌隊のメンバーとなりました。1946年から1950年までの間に多くの録音を残していますが、1948年からはBBCでラジオ放送にライブ出演しています。ボーイ・ソプラノの定番曲の録音を数多く残していますが、その歌声は、イギリスの聖歌隊の独唱者(トレブル)の伝統の清澄な響きを受け継ぎながらも、歌い巧者で艶のある甘さも兼ねています。その歌声の特色は、バッハ=グノーの「アヴェ・マリア」やヘンデルの「ラルゴ」やモーツァルトの「アレルヤ」等のソロ曲はもちろん、オッフェンバックの「ホフマンの舟歌」や、メンデルスゾーンの「挨拶」等のバリトンとのデュエットで際立ち、まるで男女デュエットのようにさえ聞こえます。

   4 ペーター・シュライアー(Peter Schreier 1935 〜 )

 ドイツの名リリック・テノールのペーター・シュライアーは、ザクセン州マイセンで生まれ、マイセン近郊の小村ガウエルニッツで過ごしました。そこでは彼の父親が教師と教会の楽長・オルガン奏者をしていました。そういう家庭的な背景もあって、1945年6月のドレスデン空襲の数ヵ月後、10歳になる直前には有名なドレスデンの聖十字架教会の少年聖歌隊である、聖十字架合唱団の寄宿学校に入学しました。ドイツは連合国に降伏、連合国に分割占領されていましたが合唱団はそのころ再編されつつあり、他の数人の少年合唱団員とともにドレスデン郊外の地下室で生活しました。さて、ペーター・シュライアーの歌声は幸いなことに、1949年〜1951年の録音が残っており、それを復刻したCDが発売されました。当然のことながら、バッハをはじめとする宗教曲が中心ですが、歌曲としては「ブラームスの子守歌」等もあります。宗教曲は、華やかさは感じられませんが、しっとりした端正なボーイ・アルトの声が、曲想に合っており、また、歌唱技術の上でも優れたものを持っていたことがわかります。だからこそ、戦後の混乱期にでも録音が残せたのでしょう。この格調の高さは、後年を示唆しているように思えます。ボーイ・ソプラノの少年の録音は比較的多く存在しますが、ボーイ・アルトの少年の歌の録音は珍しいと言えましょう。

   5  デイヴィッド・ヘミングス (David Hemmings 1941〜2003)

 ブリテンの「ねじの回転」「小さな煙突掃除」等でソロを聴かせてくれる1950年代イギリスのボーイ・ソプラノのデイヴィッド・ヘミングスは、イングランド・サリー州ギルフォード出身です。作曲者自らが起用したのですから、役柄にあった声であることを認めたのでしょう。ブリテンのオペラは、アリアらしいものが少なく、旋律歌唱よりアンサンブル中心なので、その面がよく分かりません。「ねじの回転」のマイルズは、天使と悪魔が同居する役ですが、表面的には繊細な声でひ弱い少年という印象が強く心に残っています。高く澄んで良くとおる舞台映えしそうな声でもあります。9歳から3年間ブリテンの「ねじの回転」のマイルズ役をはじめさまざまな舞台に立ちました。声変わりの後にロンドンの美術学校で絵画の勉強を始めますが、やがて退学してラジオドラマを経て映画デビュー。その後舞台に出演しながらB級作品に出演を重ね、1966年にミケランジェロ・アントニオーニの「欲望」で一躍注目されます。その後、製作や監督業を始めて、「別れのクリスマス」でベルリン映画祭の監督賞を受賞。俳優としては「ジャガーノート」、「サスペリアPART2」などが有名です。

   6  ホセ・カレーラス  (Jose Carreras 1946〜  )

 20世紀末には、ルチアーノ・パヴァロッティやプラシド・ドミンゴと並んで世界の3大テノール呼ばれるようになったホセ・カレーラスが、少年時代ボーイ・アルトとして活躍していることは、かなり知られています。1946年12月5日に、スペインのカタルーニャ州バルセロナ生まれたカレラスは、幼いころから音楽的才能を現し、8歳でスペイン国立放送に出演、『女心の歌』(ヴェルディ)を歌って初めての公開の演奏を行いました。この録音は、「オペラ界の不死鳥」(白血病を克服した)という自伝ビデオでを聴くことができます。当時活躍した歌う映画スター、マリオ・ランツァ主演の映画「歌劇王カルーソー」の歌に感動して歌ったといいます。ところが、声域は、原曲のテノールでもなければ、1オクターブ高いソプラノでもなく、アルトに移調して歌っています。この歌いっぷりは、うまさよりも、後年を予測するようなドラマティックさを感じるものであり、磊落なマントヴァ公爵の性格をよく伝えています。さらに、11歳でバルセロナのリセウ大劇場でファリャの『ペドロ親方の人形芝居』のボーイソプラノ役の語り手と、プッチーニの『ボエーム』第二幕の子役を歌いました。なお、声質は、ボーイ・アルトです。
 その後は、スペインの名門音楽院であるリセウ音楽院で学び、リセウ劇場に『ノルマ』のフラヴィオ役でデビューしました。そこで、主役ノルマを歌った著名なソプラノ歌手モンセラート・カバリェに注目されるようになり、彼女はカレーラスをドニゼッティの『ルクレツィア・ボルジア』の上演に招き、これがカレーラスの最初の大きな成功のきっかけとなったのです。テノールになってからの録音・録画は数多くありますので、あえて紹介しません。

      7 サイモン・ウルフ(Simon Woolf 1954〜  )

 サイモン・ウルフの名前を知ったのは、1990年代に増山法恵が「子供っぽいボーイ・ソプラノ」言い換えれば、声質の愛らしさによって特徴づけられるタイプの代表としてこのボーイ・ソプラノの名前を挙げていたことですが、そのレコードジャケットを見ることはあっても、その歌声を知ることはできませんでした。
 イギリス生まれで12歳のサイモン・ウルフは、地方デビューした後、ロンドンで、ジョーン・サザーランドと並んでロイヤル・フェスティバル・ホールでメサイアでソロを歌うチャンスを得、それ以来、コンサート・プラットフォーム、オペラ・ステージ、ラジオ、テレビの需要が絶えず続き、2枚のソロのLPを録音しました。ところが、変声後は、クラシック音楽を離れ、ジャズのベーシストとして音楽界で活躍しています。

   8 アラン・クレマン (Alain Clement )

 フォーレの「レクイエム」のソプラノ・ソロのパートは、それまで女声で歌われることが常でしたが、1972年にミシェル・コルボの指揮によって録音されたレコードには、当時としては初めてボーイ・ソプラノのアラン・ クレマンが起用されました。アラン・クレマンは、当時ミシェル・コルボのおじアンドレ・コルボが自分の合唱団である聖ピエール・オ・リアン・ド・ビュール聖歌隊を使ってこの曲を演奏しようと準備していたのですが、そのコンサートを目前にして亡くなってしまいました。そのためおじへの追悼としてミシェル・コルボがこの曲を同聖歌隊を使って録音したという逸話が残っています。アラン・クレマンは、音程はやや不安定で巧みさは感じられませんが、ボーイ・ソプラノ独特の清純な楚々とした響きを聞かせてくれ、この曲に求められる死者の鎮魂の心をよく表現しています。ところが、このフォーレのレクイエムの録音後わずか10日ほどで声変わりが始まってしまったそうです。声変わりしたあとのアラン・クレマンは、その後も、ミシェル・コルボ率いるローザンヌ声楽アンサンブルでバリトンとして歌っています。

       9 ハンス ブッフヒール(Hans Buchhierl 1961 -  )

 日本で昭和の終わりごろに発売されたテルツ少年合唱団のCD「Halleluja(日本の題名はきよしこの夜/テルツ少年合唱団」)の中で「カロ・ミオ・ベン」「オンブラ・マイ・フ」「アヴェ・マリア」を歌うソリストとして活躍しているのが、ハンス ブッフヒールです。録音は1973年 ミュンヘンと記録されていますから、12歳頃の歌声です。その歌声の特色は、低音は地声に近い胸声なのですが、高音になるにつれて繊細であると同時に、独特の節回しで色っぽく聴こえます。なお、テルツ少年合唱団は、この頃から次々とレコードを録音するようになりました。また、ミサ曲や「クリスマス・オラトリオ」「モーツァルトのレクイエム」等も録音しているようです。

      10  ベジュン・メータ(Bejun Mehta 1968〜   )

 指揮者のズービン・メータの親族というインド系アメリカ人のベジュン・メータのボーイ・ソプラノとしてのソロ活動は、9歳の時から始まりました。1982年は12才にして天才ボーイ・ソプラノとしてDelosレーベルからデビューし、1983年に終わりました。ベジュン・メータの唯一のLPを入手して聴いた最初の感想は、それまで聴き慣れていたウィーン少年合唱団のソリストの少年の歌声等とはかなり違います。事実、ウィーン少年合唱団のソリストの歌は、いかにも少年らしい声と歌い方が身上ですが、ベジュン・メータの歌は、むしろ大人のソプラノの女声に近いつややかな表現が特色です。ヘンデルの作品やブラームス編曲のドイツ民謡などもレコーディングしていますが、とりわけ、シューベルトの「岩の上の羊飼い」などは、そのような印象を受けました。技術も素晴らしく、表現も豊かで、歌を自分のものにして歌いこなしています。「上手い子供」の域をはるかに越えていて、大人のソプラノ歌手にも匹敵する実力です。少年と知らずに聞いたら大人のソプラノと思う人もいるような抜群の安定感のある歌声です。細い、透明感のあるいわゆるボーイソプラノの歌声とは違います。指揮者のバーンスタインは、
「この少年の音楽性の豊かさと完成度には、聴くもの全てが圧倒されるだろう。」
と絶賛しています。そのように、少年時代は売れっ子のボーイ・ソプラノで、女声と間違われるほどでしたから、声変わりしてからは歌ってはいたものの芽が出なかったのを、「女々しいから絶対なりたくない」と嫌ってたカウンターテノールに転向した途端に頭角を表したというのは、何たる運命の皮肉ではありませんか。その歌声は、Youtubeで聴くこともできますが、容姿はLPのジャケットからは想像しにくいスキンヘッドあるいは・・・です。男らしくなりたいという夢がこんな形で実現したのでしょうか。カウンターテノールになってからは、ルネ・ヤーコプスから認められ、彼の下で研鑽を積みました。比類ない劇的な表現は別格で、2004年に録音したヘンデルの「オルランド」等、様々なバロック・オペラなどで絶賛を浴びています。

       11 セバスチャン・ヘニッヒ(Sebastian Hennig 1968〜   )

 セバスチャン・ヘニッヒは、1968年10月に、彼は、ハノーバー少年合唱団の創設者でディレクターのハインツ・ヘニッヒの息子として生まれ、1976年から1994年までハノーバー少年合唱団のメンバーでした。セバスチャンは現在、「ハノーファー ハーモニスト」という、ハノーバー少年合唱団出身者によるヴォーカルグループでバリトンパートを歌っています。彼は、1981年にはハノーバー少年合唱団の一員としても来日しましたたし、変声後にも来日しています。
 セバスチャン・ヘニッヒの名前を不滅にしたのは、何と言ってもペルゴレージのスターバトマーテルを挙げることができましょう。味わうべきは、この歌。この曲は、ボーイ・ソプラノのセバスチャン・ヘニッヒとカウンター・テノールのルネ・ヤーコプスによって歌われています。ソロあり、デュエットもありますが、第一声より緊張感が伝わってくる演奏です。セバスチャン・ヘニッヒは、透明度の高い歌声で深い悲しみを歌い綴っています。それは、「気品がある」とか、「きれいな」とかいう言葉がむなしくなるほど、心に迫る歌です。清澄で端正なその歌声は、宗教曲がよく似合っています。その他、アレグリのミゼレーレ、メンデルスゾーンのHear my prayer、バッハのカンタータ大全集を始め、録音も多いのですが、どのような理由か、個人のソロレコードは出していません。オムニバスのCDがあってもよいと思っています。

    12 ピーター・オーティ(Peter Auty 1969〜   )

 レイモンド・ブリッグスの絵本が原作のアニメーション「スノーマン」(1982年12月24日放映)の挿入歌「Walking in the air」は、雪だるまと少年が空を飛ぶ場面で印象的に使われています。その後、この歌は、クリスマスソングの一つとして世界中に広まりました。このアニメーションの中で歌っているのは、セントポール大聖堂少年聖歌隊のピーター・オーティで、8歳の時からこの聖歌隊で歌っています。さて、「Walking in the air」の創唱者は、ピーター・オーティなのですが、その後次々とカバーが歌われ、その中で一番ヒットしたのが、同世代のウェールズ出身のアレッド・ジョーンズによるものでした。そのために、アニメーションの中で歌っているのもアレッド・ジョーンズだと思っている人もいるようです。この二人は1歳違い(ピーターが1歳年上)で、録音時期はオリジナルが1982年ごろ、アレッド版が1985年となっています。ピーター・オーティの歌唱は、イギリスの聖歌隊の伝統に則りながらも、せっせつとしたものを感じさせます。「スノーマン」放映当時アイドル的に扱われることのなかったピーター・オーティは、その後順調に音楽の道に進み、テノール歌手となりました。プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」のロドルフォやグノーのオペラ「ファウスト」のタイトルロール等を持ち役としています。

      13 アレッド・ジョーンズ(Aled Jones 1970〜   )

  「百年に一人のボーイ・ソプラノ」というふれこみは、決して大げさではありませんでした。この1970年生まれのボーイ・ソプラノは、16歳までボーイ・ソプラノとして歌い続けることができ、日本でも、CDの売り場に、アレッド・ジョーンズのコーナーができるほどでした。このようなことは、これまでなかったことです。声は、ボーイ・ソプラノとしてはやや太めで、音程も正確で、安定した歌が歌えます。また、歌い方は、まっすぐなだけでなく、暖かい包容力のようなものを感じます。
 アレッド・ジョーンズは、ウェールズ北部の都市バンガー出身で、9歳でバンゴール大聖堂の聖歌隊に加わり、それから2年でトップソリストに上り詰めます。その清澄な美声は、地方のレコード会社セイン(Sain)の注目を惹き、録音契約を結ぶことになります。アニメ映画「スノーマン」の主題歌、「Walking in the air」を録音し、そのレコードがヒットチャートを駆け抜けたことでとりわけ有名になりました。そして、英語圏を中心に、国際的にレコード売り上げ記録をはじき出しました。
 事実、少年時代には聖歌隊員として活躍するだけでなく、コンサートでもバーンスタイン、マリナー、サザーランドなど世界一流の音楽家と共演しています。残したアルバムは、宗教曲が多いですが、イタリア古典歌曲や、ロイド・ウェッパーのミュージカル「キャッツ」の「メモリー」や、ビートルズの「イエスタデー」等の入った「ベスト・オブ・アレッド・ジョーンズ」が本命盤で、これを聴くと、その魅力は大体つかめます。また、ビデオで歌う姿をみると容姿もその歌声のイメージに近いものをもっており、その点においても、恵まれた少年といえましょう。日本にその名が伝わったのは、本人が声変わりを迎えた1980年代中頃でしたが、変声期以前の録音がTVCMに利用されただけでなく、その整った容貌からアイドル視され、日本では大同生命のコマーシャルに出演しました。
 しかし、変声後フィッシャー・ディスカウ等の名師について学んだにもかかわらず、変声期の壁をなかなか乗り越えることができなかったようです。ボーイ・ソプラノの栄光が大きかっただけに、悩みも深かったことと推察されます。プロコフィエフの「ピーターと狼」の語り手の声を聞くと、声質はハイ・バリトンのようですが、その後も十数年にわたってCDの発売もなく、その歌声を聴くことができないでいました。その後、ミュージカル歌手への転向をはかるなどの苦節の末に芸能界入りし、ウェストエンドのミュージカルで主役を演じ、テレビ・ラジオにも出演していたそうで、1999年にはポップスナンバーを中心にしたCDアルバム「Tell me boy」を録音。さらに、33歳になった2003年にはオリジナル曲を含む讃美歌を中心とした「アレッド」を録音、大人の歌手として再デビューしました。その声はソフトなハイ・バリトンですが、柔らかで温かみのある音色で、言葉を一つ一つ丁寧に歌っており、心に安らぎをもたらす歌を歌っています。現在はテレビリポーターとして活動するかたわら、歌手として再起を図っています。また、私生活では2001年に結婚して、2人の子供の父親となっています。

       14 アラン・ベルギウス(Allan Bergius 1972〜  )

  ドイツのボーイ・ソプラノ アラン・ベルギウスは、アレッド・ジョーンズとほぼ同じ時期にヨーロッパ各地やアメリカ等で活躍しましたが、現役のボーイ・ソプラノであったころ、ソロのLP・CDが日本で発売されることがなかったため、日本ではこの分野のいわゆるマニアの間でしか知られていませんでした。アラン・ベルギウスが所属していたテルツ少年合唱団の研究をしていた漫画家のたらさわみちによって1986年に新書館編 「少年合唱団」の中で紹介されることはありましたが、録音によってその歌声を聴くことで、その実力が日本の音楽ファンに知られるようになってくるのは後年になってからです。
 アラン・ベルギウスは、チェリストであるドイツ人の父とピアニストであるイギリス人の母という音楽家の家庭に生まれたので、非常に幼い時から音楽に接して来ました。1978年から彼はチェロを学び始めました。声楽を本格的に始めるきっかけとなったのは、アランの父、ヴォルフガング・ベルギウスが、バイエルン国立歌劇場のチェリストとして、テルツ少年合唱団と共演した時、合唱団の指揮者ゲルハルト・シュミット=ガーデンに、自分にも歌の上手な7歳の息子がいる事を話したことです。アランがブレスなしで2オクターブを歌い切るのを聞いた時、シュミット・ガーデン氏は即、彼の少年合唱団に契約させました。ここで彼は急成長していき、少年合唱団のトップソリストに上り詰めます。そして、9歳でオペラ・デビューを果たしています。同年からアルノンクール指揮のバッハ・カンタータのレコーディングも始まり、ペーター・シュライヤーとも共演するなどのキャリアを積みます。テルツ少年合唱団のソプラノソリストとしては、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ジェームズ・レヴァイン、ヴォルフガング・サヴァリッシュとニコラウス・アーノンクールの指揮のもと、ヨーロッパ、イスラエルとアメリカへのツアーを行いました。また、ソリストとして頂点をなす演奏は、1984年にレナード・バーンスタインの下でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とマーラーの交響曲第4番のソリストと言えましょう。
 アラン・ベルギウスの歌唱の特質は、歌劇「魔笛」の「夜の女王のアリア」のようなコロラトゥーラの超絶テクニックを持ちながらも、それだけに頼ることのない高潔さや明るく伸びやかで優しい高音の響きで、その歌声には清冽な色気さえも感じさせます。また、テレビ用オペラ『アポロとヒュアキントス』では、ヒロイン・メリア役を演じています。これは、装飾音の技巧だけでなく、少女になりきった演技が際立っています。また、「ねじの回転」のマイルズ役も当たり役の一つです。そのように、オペラ出演が多忙を極め、学校の出席日数が少な過ぎることなどもあって、アランは、変声前にテルツ少年合唱団を退団したそうです。もちろんその後もソリストとして個人活動を続け、変声する前にソロコンサートや自主制作盤の3枚のLPを発表しました。これらは、希少でなかなか入手できないものです。1枚目は、バッハとモーツァルトの宗教曲が中心ですが、この中にアンコール的に「夜の女王のアリア」も入っています。2枚目はシューマンの歌曲集「詩人の恋」で、変声期が近づいて高音に少し陰りが感じられますが、ゆったりしたテンポの演奏です。3枚目はモーツァルト、バッハ、モンティベルディ、ヘンデルなどから選曲されたもので、かなり落ち着きや哀愁を感じさせる演奏です。どれも、100%クラシックのもので、アレッド・ジョーンズのようにミュージカルのナンバーやポップス系の歌は歌っていません。
 変声後は、さらにチェロを学び続け、チェリスト並びにシュヴァーベン青少年管弦楽団の指揮者として活躍しています。

      15 ニコラス・シリトー(Nicholas Sillitoe 1972〜  )

 ニコラス・シリトーは、ウェールズ出身で、いくつかの聖歌隊だけでなく、ロンドンオペラ・ハウスでも「スペードの女王」「魔笛」等に出演しています。アレッド・ジョーンズと同時期に活躍しましたが、LPを1枚出しただけなので、アレッド・ジョーンズと比べてあまり知られていませんでした。高く細く鋭い歌声で、むしろ劇場向きの声質です。

   16 カルロ・カネ(Carlos Canet 1974〜  )

 1989年にフランソワ・ポルガー指揮のフォーレの「レクイエム」や「ラシーヌの雅歌」ソプラノ・ソロのパートを歌うフランスの少年です。カルロ・カネは、やや明るめの声で朗々と歌っており、これもまた、粘液質を感じさせません。カルロ・カネは、同じCDに数曲入れていますが、印象は、アラン・クレマンとほぼ似通っています。サント・クロワ・ド・ヌイイの少年合唱団-パリ少年合唱団のソリストである可能性が高いです。

      17 ジェームス・レインバード (James Rainbird 1975〜  )

 スティーブン・スピルバーグ監督の映画「太陽の帝国」は、上海で親とはぐれて日本軍の収容所に送り込まれた少年が主人公の作品ですが、クリスチャン・ベールの演じるジェイムズが冒頭に聖歌隊でソロを歌う「スオ・ガン」は、ジェームス・レインバードの吹き替えによって行われました。この映画によって一躍世界的に有名になったジェームス・レインバードは、1975年にイギリスのラスティントンに生まれ、キングスハウススクール合唱団の一員として1984年にフランスのツアーでソンリストとして活躍しており、欧米各国でも活躍してその実力は高く評価されていていました。だから、映画「太陽の帝国」の吹き替えも、その実力ゆえであり、ボーイ・ソプラノ時代の録音もかなり残されています。その後はアンドリュー・ロイド・ウェッバーと広範囲に活動し、変声後もロンドンの中心部でシンガーソングライターの仕事を続けています。

      18 マックス・エマヌエル・ツェンチッチ(Max Emanuel Cencic、1976〜   )

ついにウィーン少年合唱団はソリスト名を公表したのか・・・。そういう驚きをもったソリストがマックス・エマヌエル・ツェンチッチです。1976年クロアチアのザグレブの音楽一家に生まれ、父は指揮者、母は声楽家である母親の声楽指導を幼い頃から受け、才能を発揮して、早くも6歳でテレビに出演し、モーツァルト作曲のオペラ「魔笛」の「夜の女王」のアリアを披露します。その後も音楽歴は驚くばかりで、10歳でウィーン少年合唱団入団後はさらに歌に磨きをかけました。1989年にウィーン少年合唱団の一員として初来日した時、オペレッタ「デニス夫妻」の中で、お手伝いさん役で女装して歌ましたが、そのコロラトゥーラのテクニックには圧倒されました。声そのものも大人の女声に近く、歌も巧みに歌います。その後、ウィーン少年合唱団のCDやビデオに数多くソリストとして出演しましたが、特に、ヨハン・シュトラウスの「春の声」やモーツァルトの「アレルヤ」は、秀逸なできばえです。
  1987年から1992年までは、は、ウィーン少年合唱団のメンバーとして活躍しましたが、卒団後、奇跡のボーイソプラノと言うことで日本で何度か招聘されてリサイタルを開いていますが、その演奏会のCDも出しています。欧米でも1992年から1997年までピアニストのノーマン・シェトラーと組んで、欧州各地や日本でのリサイタルで高い評価を受けています。   2001年からはカウンターテナーとして活躍中。独唱者として活躍した時期もあります。しかし、これは変声後ファルセットを磨いたものではないでしょうか。そのCDを聴くと、ますますその感は強く、女声のようにさえ感じます。はっきりとカウンター・テナー歌手として活動するようになったのは2001年からで、バーゼルにて、コンラッド・ユングへーネル演出のモンテヴェルディ作曲《ポッペアの戴冠》ネローネを演じ、それに対して『オペルンヴェルト』誌にて2003年の最優秀新人歌手として高く評価されました。また、2008年4月にはAcademie du Disqueから最優秀オペラ歌手として表彰されています。現在は、世界の主要オペラハウスに出演するとともに、スカルラッティ、ヘンデル、モンテヴェルディ、ヴィヴァルディなどのディスクで高い評価を受けています。

      19 アンソニー・ウェイ(Anthony Way 1982〜  )

 アレッド・ジョーンズ以後、最も人気の高いイギリス系のボーイ・ソプラノの一人はアンソニー・ウェイでしょう。1982年ロンドンの北87kmのピーターバラ生まれのアンソニーは、7歳で地元の教会の聖歌隊に人リ、9歳のときにロンドンの名門セント・ポール大寺院の少年聖歌隊に入隊し、11歳のときに、聖歌隊の少年を主役にしたイギリスBBCのTV番組“The Choir”(聖歌隊)の主演に抜擢され、次々とCDを録音するという幸運児です。そのサントラ盤はイギリスで50万枚の大ヒットを記録。卒業後は、奨学金を受けてアッピンガム・スクールで音楽を学んでいますが、当時は、将来は海洋生物学者になりたいと言っていました。1997年の夏には、マン島で撮影されたグレタ・スコッチ、ジェームス・ウィルビー、ジョアン・ポーローライト、ナイジェル・ル・ワイヤントと一緒に、トムのミッドナイト・ガーデンの1999年の映画版でトム・ロングとして主演しました。この映画は、イタリアのギフォーニ映画祭でリリースされたことで著しい評価を得ています。
 アンソニー・ウェイは、CDも何枚か残しています。その歌声は清らかで透明度が高くビロードのように滑らかで、また愛らしく聞こえます。また、容姿もその歌声を写したかのように可憐です。日本に来日したときは、残念ながら既に変声期に入っていて、ファルセットでグノーの「アヴェ・マリア」とポップス系の「アンジー」を歌っていました。今ではすっかり音楽性を変えて、ロック歌手になっています。 

      20  コナー・バロウズ(Connor Burrowes 1983〜  )

 コナー・バロウスは、「今世紀(20世紀)最後の天才ボーイ・ソプラノ」と呼ばれた人気・実力とも最高のイギリスの少年です。1983年5人兄弟の長男として生まれたコナーは、1991年から1996年7月までセント・ポール大聖堂の聖歌隊で活躍し、ここで、指揮者ジョン・スコットの薫陶により音楽的に大きく成長しました。ということは、アンソニー・ウェイとほぼ同時期に在籍したことになります。日本へは、イギリスの聖歌隊のトップソリストを集めて結成された「ボーイズ・エアー・クワイアー」の中心としてレコーディングした「少年のレクイエム」「ビリーブ」で紹介され、高い評価を受けました。しかし、本格的なボーイ・ソプラノファンからは、このようなヒーリング系の路線よりも、宗教曲やオペラのアリアを歌うべきであったという声もあります。1999年時点はイギリス、サリーのチャーターハウス・スクールに音楽奨学生として在籍。ピアノ、オルガン、クラリネットなども学んでいます。また、「ボーイズ・エアー・クワイアー」のアレンジや指揮も担当しており、将来は声楽家を志望しているとのことで、成人後の歌声も期待できそうです。なお、2000年に「ボーイズ・エアー・クワイアー」が来日したときには、共に来日し、指導者的な活動をしました。また、その後は、変声前と変声後の歌声を組み合わせたフォーレの「レクイエム」が話題を呼んでいたこともあります。
 その歌声は、硬質で透明感があり侵しがたい気品のあるもので、よく伸びる声で表情豊かに歌われるその歌を聴くと、今世紀最後のというキャッチコピーもうなづけます。また、イギリスのボーイ・ソプラノによく見られる繊細だが弱々しさを感じるということはありません。

      21  リアム・オーケン(Liam O'Kane 1984〜  )

 リアム・オーケンは1984年5月にロンドンで生まれ、8歳のときに南ロンドンのノーベリで「セント・フィリップス・ボーイズ・クワイア」に入って歌っていましたが、やがてこの聖歌隊は、1990年には「エンジェル・ヴォイセズ」(Angel Voices)に改名し、さらに1998年に聖歌を基本としたユニークなサウンドを作るという方針に転換したので、それにあわせて名前を現在の「リベラ」へと改名しました。従って、リアム・オーケンは「リベラ」のごく初期のソリストでもあります。リアム・オーケンは、ストレートアンドナロー、ブルー・ピーター、賛美歌、GMTVなど、1993年から2001年までのいくつかのテレビ番組に出演しています。現時点では、彼はジム・ザ・リスと呼ばれるバンドで演奏しています。ボーイ・ソプラノの時代は、女の子のようなルックスとふんわりとした温かみのある歌声で人気だったようです。

      22 エドワード・バロウズ(Edward Burrowes 1985〜  )

 1985年生まれのエドワード・バロウズは、コナー・バロウズのすぐ下の弟で、聖パウロ・ボーイズに参加した後1997年にヘッド聖歌隊員に任命され、その後セント・ポール大聖堂の聖歌隊で活躍し、トップソリストをつとめていました。エドワードは、小さいときは「名前をコナーに変えたい。」と言うほど兄に憧れており、それは同時に微妙なライバル関係になったとも推察されます。1999年3月にCD「ブルーバード」のキャンペーンのため兄コナーと共に来日し、可憐な美少年ぶりは雑誌「AERA」の表紙を飾りました。
 エドワードの歌声は英国の伝統的なボーイ・ソプラノらしい声です。繊細で可愛い歌声ですが、不安定感はありません。ただ、「ブルーバード」の録音が、エコーを多くかけている感じがするのが残念です。1999年8月には「ボーイズ・エアー・クワイアー」の中心として再来日しましたが、もうこのときには、残念ながら、変声期に入っていたようです。

      23 テリー・ウェイ(Terry Wey 1985〜  )

 テリー・ウェイは、1985年9月15日スイスの首都ベルンに誕生しました。4歳で彼の最初に鑑賞した好きなオペラ、G.ヴェルディの「イル・トロバトーレ」を見た後、彼はオペラ歌手になりたいと思ったそうです。6歳頃より、地元の合唱団に入ってベルン市オペラハウスと他のいろいろなコンサートででソリストをするほどの活躍をしていましたが、1995年から1998年の間は、ウィーン少年合唱団に在籍して、トップソリストとして活躍の範囲を広げ、その頃の記録は、最近日本でもCD化されたヴォイス・オブ・エンジェルズ−少年合唱団の天使たち−にもシューベルトの「楽に寄す」の独唱として残されています。ウィーン少年合唱団を卒団したあとは、「歌うために生まれて」「オー ホーリー ナイト」の2枚のCDを出しています。完全に変声したあとは、カウンターテナーとして活躍しています。なお、5歳下のロリン・ウェイは、実弟です。

      24 ロリン・ウェイ(Lorin Wey 1990〜  )

 ロリン・ウェイは、1990年4月3日スイスの首都ベルンで生まれました。兄のテリーがウィーン少年合唱団に入団したため、1994年に彼はウィーンに移りました。ロリンはウィーン合唱団の幼稚園・小学校に通いました。その後、兄の後を追うように ウィーン少年合唱団の一員として歌う一方、むしろ、主としてウィーン国立歌劇場等のオペラで歌いました。何枚かアルバムも出しています。オーストラリアとニュージーランドへのツアーの後、彼は合唱団を去り、ウィーンの音楽高校に入学しました。1999年には、ロリンはシャルル・デュトワ指揮でモーツァルト少年を演じました。透明度の高い歌声で高音が美しく、劇的な表現もできるところに特色があります。変声後は、テナーとして活躍しています。

      25 ハリー・セヴァー(Harry Sever 1991〜  )

 1991年にロンドンで生まれたハリー・セヴァーは、5歳でレッスンを始め、早くより才能を発揮しました。8歳でウィンチェスター聖歌隊員となり、コンペティションにも優勝して奨学金を得て、2003年から2004年にかけてBBCラジオやコンサート活動など等次々と活動の場を広げていきました。また、同時期にフォーレの「レクイエム」等の録音も行っています。さらに、2004年12月の日本へのBoys Air Choirツアーでは、主要ソリストとして日本でもその存在を知られるようになりました。14歳のときに録音したシューベルトの「美しい水車小屋の娘」のCDは、記念碑的作品を超えたものになっています。彼は少年時代、歌とは別に、音楽的才能はピアノとヴィオラとオルガンにまで及んでいます。彼は定期的にウィンチェスターカレッジチャペルでサービスのためのオルガンを演奏していました。これに加えて、クリケット、サッカー、テニス、ラケット、ドラマも楽しんでいました。彼の他の関心事には、オペラ、映画、旅行などがありました。そのような幅広い興味関心から育まれた教養が彼の歌を支えてていたのでしょう。
 なお、現在では、指揮者・作曲家として活躍しており、ご自身の音楽活動のホームページももっています。

26 アレックス・プライアー(Alex (Alexander) Prior 1992〜 )

 アレックス・プライアーは、1992年生まれ。本名はアレクサンダーで、アレックスはむしろ愛称というべきでしょうか。イギリス人の父親とコンスタンティン・スタニスラフスキーの孫であるロシアの母親の間に生まれました。ボーイ・アルトとしてCDも出し、ステージにも立っていますが、8歳で作曲を始め、交響曲、コンチェルト、バレエ2曲、オペラ2曲、ベスランの子供たちのためのレクイエムなど、40以上の作品を書いています。13歳でサンクトペテルブルク音楽院に入学し、3年生からボリス・ティシュチェンコとオペラと交響楽団との交響曲を学び、アレクサンダー・アレクセフ(ハンス・スワロースキーの弟子)の交響曲を学び、その後は、指揮者と作曲家として活躍をはじめ、むしろ作曲家として注目を浴びています。
 さて、少年時代に残した歌声は、聖歌隊系の透明で繊細な歌とは違って迫力のある輝きに満ちた歌声で、当時は、「小さなパヴァロッティ」と評されていました。彼は、有名なロシア劇場改革者コンスタンチン スタニスラヴスキーの孫です。2002年12月ソロのデビュー以来、彼は驚異的な若いミュージシャンとして国際的に認められています。アレックスは、7カ国語で歌い、ステージとしてはロンドンアリーナ、モスクワクレムリンの黄金時代のドーム、ニューヨークのカーネギー・ホール等で歌い、また、各国のテレビでも歌っています。また、CDやホームページでは、その華麗な歌声を聴くこともできます。母方の祖国のロシア民謡「カリンカ」は力強く、カンツォーネ「恋する兵士」[帰れソレントへ」など、イタリアのテナー歌手を彷彿とさせるできばえです。また、CDには、プッチーニのオペラ「トゥーランドット」より「誰も寝てはならぬ」までが録音されており、その声域はテナーまでををカバーしています。

   27 ジョゼフ・マクマナーズ

 イギリスのカンタベリー出身のボーイソプラノとして注目されているジョゼフ・マクマナーズは、1992年生まれ。8歳の時、「タイタニックのテーマ」を歌って、母親が彼の才能に気付いたことがきっかけで音楽会に進出。カンタベリーの地方劇場では「オリバー」で主役も演じた経験があります。 BBCのTV版「星の王子様」のオーディションで25,000人の中から選ばれ、大きな飛躍を遂げました。CD「イン・ドリームズ」のジャケットを見ると、視覚的にもセミロングの髪をした中性的な少年です。歌声は、むしろ可愛い幼さを感じますが、その優しい歌い方には心惹かれるものがあります。このCDでは、「ピエ・イエズ」や「天使のパン」のようなクラシックの分野からミュージカルのナンバーまで歌っています。むしろ優れているのは、「オリバー!」などのミュージカルのナンバーです。

http://www.josephmcmanners.com/

      28 ロビン・シュルツ(Robin Schlotz 1992〜  )

 ロビン・シュルツは、ドイツ出身のボーイ・ソプラノで、テルツ少年合唱団に所属し、2004年ごろまでソプラノのトップソリストを勤めていました。ロビン・シュルツの名が多くの人に知られるようになったきっかけは、保護者や後援者のためのコンサートで、モーツァルトの歌劇「魔笛」の「夜の女王のアリア」を歌った映像が公開されたことによります。約20年前に同合唱団所属のアラン・ベルギウスによっても歌われましたが、それよりは強めの声です。2005年11月に変声期を迎えました。

   29 アロイス・ミュールバッハー

 ボーイ・ソプラノの時代に4枚のCDを発売しているアロイス・ミュールバッハーは、1995年、オーストリア中部のヒンターシュトーダーに生まれ、2005年に聖フローリアン少年合唱団に入団することで才能を開花させます。どちらかと言えば、地味な歌声の少年合唱団には似つかわしくない華やかな声と技巧的な歌いっぷりで驚かされます。
 初めてのソロCD『ALOIS UNERHORT/ALOIS〜The Boy and his Voice』が録音されたのは2009〜2010年にかけてで当時14〜15歳、2011年にリリースされました。このCDは、オペラアリア集といったもので、いきなりモーツァルトの「魔笛」から「夜の女王のアリア」で超ド級の怒りに満ちた金切声で始まります。また、プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」から「私の大好きなお父さん」や「蝶々夫人」から「ある晴れた日に」は、清純な娘というよりもはかなり成熟した女性の歌を感じさせる歌を歌います。さらに、J.シュトラウス2世の「こうもり」では、コケティッシュなキャラクターでコロラトゥーラの技巧を聴かせる歌を歌ってくれます。このように多様な歌を聴かせてくれますが、映像でその容姿を見ると、スマートな少年というよりむしろぽってりした大柄なおばちゃんタイプでこのような身体から発する声だからこそ、このような華麗な歌が歌えるのだと納得してしまいます。変声後も、メール・ソプラノ(カウンター・テノール)として、さらに色気のある歌を歌っています。

      30 ヨナ・シェンケル ( Jonah Schenkel 1999〜  )

  少年合唱団や聖歌隊には、団によっても違いますが、数年に一人傑出した名ソリストが誕生します。ヨナ・シェンケルは、スイスで有名なポップス歌手であり俳優であったマルティン・シェンケルの一人息子として1999年に生まれましたが、父マルティンはヨナが3歳の時に早逝しました。しかしその歌の才能は、息子に引き継がれ、やがては地元のチューリッヒ少年合唱団でソリストとして活躍しました。以前父親のファンであった地域の応援もあったそうです。合唱団関係者も彼の素晴らしい歌声を後世に残すためにペルゴレージの「スタバート・マーテル」ヘンデル/モーツァルト/J.S. バッハ/フランク/シューベルトの「歌曲集」としてCDに残しました。「スターバト・マーテル」の時の歌声は、繊細ですが、「Ave Maria・Rejoice・Hallelujah」は、2014年4月に録音されたので14歳か15歳のころの歌声と推定されますが、声が以前よりも太くなって、より声量と力強さが増しています。

   31  アンソニー・ミュレサン

 ドイツのアウレリウス少年合唱団に所属するアンソニー・ミュレサンは、2002年10月6日生まれで、2016年1月時点で現役のボーイ・ソプラノです。清純で気品のある歌声ですが歌うジャンルも幅広く、宗教曲やシューベルトの「君こそわが憩」のような安らぎのある歌からオペラアリア・ミュージカルナンバーのような活力のある歌まで、歌いこなします。11歳の2014年には、デビューCD"Love and Hope"を世に送っています。そこでは、オペラアリアや歌曲などを聴くことができます。また、個人のYoutubeチャンネルを持っており、そこから、最新の歌声を聴くことができます。とりわけ、「ハレルヤ!」は、祈り心が深さが伝わってきます。

https://soundcloud.com/anthonyclassic

https://www.youtube.com/user/NewNewsActually

      32 アクセル・リクヴィン(Aksel Rykkvin 2003〜  )

 2003年生まれのノルウェーのボーイ・ソプラノは、5歳の時にオスロ大聖堂の少年聖歌隊のオーディションを受けて合格し、さらにノルウェー・ナショナル・オペラ&バレエの少年合唱団で神童ぶりを発揮し、一躍注目を集めました。現在(2016年)は、音楽学校へ通っています。2016年 12歳の時にバッハ、ヘンデル、モーツァルトのアリア集の「Aksel!」のCDをリリースしたことがもとで、世界的に知られるようになりました。高度な歌の技巧ももっていますが、それを超える歌心があります。とりわけ、ヘンデルの歌劇『アルチーナ』のアリア「人でなし!僕にはよくわかる」や『リナルド』の「私を泣かせてください」、モーツァルトの『フィガロの結婚』の「恋とはどんなものかしら」や「自分で自分がわからない」にその歌心はよく発揮されています。なお、アクセル・リクヴィンは、アレッド2世と呼ばれているようです。それは、歌声よりも歌い方によく現れていますが、どの歌においても自分の歌にしています。2017年夏には2枚目のCD録音のニュースも入ってきました。

       33 マイキー・ロビンソン(Mikey Robinson 2004?〜  )

 シンガポール在住のボーイ・ソプラノ。本名は、マイケル・智也・ロビンソン。名前からしてわかるようにイギリスと日本のハーフ(両国のよさを兼ね備えているという意味ではダブルといった方がよいでしょう。)4歳から歌の個人レッスンを始め、11歳から音楽大学の声楽講師より本格的な歌のトレーニングを受け始めています。2015年ニューヨークの声楽コンクール(ジュニア部門)で1位を獲得し、同年12月カーネギーホールで行われた受賞者リサイタルに参加。また2016年1月にも米国で行われた音楽コンクールの世界大会にて入賞し、同年6月にニューヨークのカーネギーホール・スターンオーディトリアム大ホールで行われたサマー・ガラコンサートにソリストとして出演しています。シンガポールでは、東日本大震災復興のためのチャリティー・イベントなどにも積極的に参加しています。また、12歳の10月東京の教会と名古屋のスタジオで日本公演を果たしています。2016年12月にはクリスマスソングでシングルデビューすることになり、さらに2017年には16曲入りののCDも発売されました。

 このように見ていくと、ペーター・シュライアーとホセ・カレーラスとベジュン・メータやとマックス・エマヌエル・ツェンチッチを除くと、現時点では声楽家として大成したとは言いがたいようです。また、テリー・ウェイのようにこれから伸びていくであろうと考えられる人もいます。しかし、少年時代に残した優れた歌唱によって、世界のボーイ・ソプラノ史にきちんと位置づけられることは確かでありましょう。
 また、ここに紹介した少年たちはその歌声がレコーディングされて、日本にも紹介されたため我々の耳に届くことになりましたが、よい資質を持ちながらもレコーディングされなかった少年はずっと多いことでしょう。「変声期」のところで、変声前の声を紹介した世界の名歌手たちは、少年時代かなり有望であったに違いありません。しかし、今ほど録音が簡単にできなかった時代では、回顧録によって想像するしかないのが残念です。さらに、日本では、アレッド・ジョーンズのようにボーイ・ソプラノのソロのCDが発売されることは、極めて稀なことです。海外盤を入手して改めてその実力に気付くこともあります。これからも、録音を入手した段階で、書き加えていこうと考えています。

 コーラス ユニット


 ここでは、最近結成されたいくつかのコーラスユニット(ヴォーカル・アンサンブル)を紹介します。3人から10数人程度のグループですが、選抜されているため、音楽的にも高い演奏が楽しめます。

   @ ボーイズ・エアー・クワイア

 ボーイズ・エアー・クワイア(boys air choir)は、イギリスが世界に誇るボーイ・ソプラノを選抜し集めたヴォーカル・アンサンブルです。セント・ポール大聖堂を中心にソールズベリー大聖堂といった聖歌隊のトップ・ソリストたち10名以内で結成されています。メンバーは結成以来変声期との関係で入れ変わっており、演奏もその中のトップソリストによって、少しずつ変化を見せていますが、その清冽で透明感に満ちた歌声は、まさに天上の音楽と言えましょう。例えば、コナー・バロウズをメインにしたアルバムでは、硬質な響きが特徴的ですし、エドワーズ・バロウズはもっと柔らかでやさしげな響きです。また、ボーイズ・エアー・クワイアは、伝統的な教会音楽だけでなく、ケルトやアイリッシュの音楽などもとりあげて演奏しています。約10年の歴史をもち、日本にもたびたび訪れ、数枚のCDを出しましたが、2004年変声期を終えたコナー・バロウズがバリトンのソリストとして参画した「フォーレのレクイエム」以来演奏活動が見えてきません。日本で企画されたユニットだけに、企画者の情熱がなくなったときどうなっていくのでしょうか。

   A リベラ

 ラテン語で「自由」という意味の「リベラ」は、イギリスのサウス・ロンドンにあるセント・フィリップス少年合唱団がその前身にあたります。主宰者の作曲家ロバート・プライズマンは、この少年合唱団を引き継ぐ形で1999年にリベラを発足させました。名は体を表すと申しますが、「リベラ」は、従来の教会音楽とは一線を画し、ラテン語の精神的な雰囲気を大切にしながらも、心の癒しをもたらすオリジナル曲を主体に歌っています。メンバーは7〜18歳と幅広く、変声後も低音部を担当しています。シンセサイザーなどの音を重ねることで古典と現代を融合させており、クラシックでもポップスのような明るく軽やかで聴きやすいアレンジの曲作りが持ち味です。そこには、ヒーリングミュージックを超える「心の解放」につながるものがあります。また、実際のステージでは、視覚的なものを重視し、白い聖歌隊風ローブを着て、隊列を変換しながら歌っています。
 日本でも輸入盤は、デビュー直後から入手できましたが、2005年に来日して、少年合唱ファンの間でブレイクし、写真集が売り出され、翌年にはCDのベスト盤が発売されました。また、NHKの土曜ドラマ「氷壁」の主題歌を歌うことで広く知られるようになってきました。
 
   B クワイヤーボーイズ

イギリスの聖歌隊から選抜されたソリストで作られたコーラスユニットとしては、先ず、ボーイズ・エア・クワイヤーが挙げられますが、これは日本で企画されたもので、実力もあり、CD発売や数度の来日もありましたが、いつの間に雲散霧消してしまいました。
 同国で2005年末にCDデビューを飾った「クワイヤーボーイズ」は、3人のメンバーが聖歌隊からオーディションで選ばれたという意味で名前通りのコーラスユニットです。メンバーは、ノッツのサウスウェル大聖堂聖歌隊からベン・インマン(12)、イーリー大聖堂聖歌隊からパトリック・アスベリー(12)とCJ.ポーター=ソウ(10)。3人という人数も、3大テナーを意識していると言えるでしょう。2006年春には、プロモーションのため来日し、「題名のない音楽会」に出演しています。聖歌隊出身と言っても、法衣ではなくスーツ姿でマイクを使ってポップクラシカルな歌を歌うというところが特色でありますが、ボーイ・ソプラノを素材にしている新感覚のコーラスユニットと言えましょう。ただ、このようなグループの場合、メンバーが変声したときどう対応していくのかが気がかりと思っていたら、2007年メンバーを新たにCD録音を行いました。クワイヤーボーイズ」がメンバーも新たにして、CDアルバムを出しました。新メンバーは、ウィリアム・ダットン(William Dutton 1995.1.20生)、ビル・ゴス(Bill Goss 1994.12.11生) アンドリュー・スウェイト(Andrew Swait  1994.10.2生)の3名で、アンドリュー・スウェイトは、既にソロ・アルバムを出しています。これからも、メンバーを入れ替えながら存続させていくのでしょうか。

心に残る少年歌手

 ここでは、私が聞いたことのある代表的なポップス界の少年歌手たちを取り上げ、感想を中心に述べていきます。また、その歌唱の問題点にも触れていきたいと思います。

   @ ホセリート

 スペインの少年歌手のホセリートの歌声を初めて聴いたのはYoutubeですが、再生回数の多さから、たいへんな人気者であったことが伺えます。その後少しずつ情報が入ってきたので、まとめてみましょう。
 1943年2月11日生まれで、本名はホセ・ヒメネスフェルナンデス。ホセリートは現在では、70代になります。1950年代から1960年代まで、10本の主演映画や、ミュージカルで子役として活躍しました。その後芸能界からメディアの起業家に転身しますが、1990年、銃と麻薬密売容疑でアンゴラ当局によって逮捕。スペインに強制送還の後、投獄されるという山あり谷ありの人生を送ったことを自伝「ホセリートの人生」として出版しました。その中では、刑務所で薬物中毒を克服したことで異なる人生観を得た経験を書いています。
 歌は、「グラナダ」などのスペイン民謡やフラメンコ等のラテン系の歌が中心で、たいへんな歌い巧者です。声とそれを生かす技を備えており、聴かせる歌を歌っています。

   A  ロベルティーノ

ボーイ・ソプラノ時代のロベルティーノの歌に実際に接したのは、平成11年の6月に日本で発売された25センチLPを手に入れるまでは、小学校高学年の頃、ラジオで「オー・ソレ・ミオ」をただ1度聴いただけでした。当時の日本は、カンツォーネブームで、サン・レモ音楽祭で多くの名曲が生まれた時期でもあります。聴いた印象は、子どもなのにうまいなあというぐらいで、まだ耳が肥えていなかった私には、それ以上の感銘はありませんでした。このイタリアの少年歌手が、戦前・戦後を通じて最大の実力派の人気ボーイ・ソプラノであったことを知ったのは、かなり後のことです。ボーイ・ソプラノの熱心なファンで、日本のボーイ・ソプラノのレコードまで企画した漫画家の竹宮恵子は、「ロベルティーノ」というタイトルの漫画を書いています。ところが、生い立ちを想像して描いたその漫画は、実際のロベルティーノのそれとよく似ていたといいます。
 早速レコードに針をおろすと、竹宮恵子が本に書いていた伝説の歌声が聞こえてきました。曲は、ナポリターナの名曲揃い。声質は、甲高いボーイ・ソプラノではなく少しハスキーなボーイ・アルトですが、歌はこれまで聞き慣れたフェルッチョ・タリアヴィーニやジュゼッぺ・ディ・ステファーノなどのオペラ歌手の歌とはかなり違って、独特の語り口で間の取り方など大人顔負けの歌です。しかも、声も持っているし、たいしたものだと感心しました。
 さて、1947年生まれのロベルティーノは、10歳のとき、フェルナンデル主演の映画「ドン・カミロ頑張る」のロケが近くで行われたとき、ペポーネ少年の役で出演ました。翌年、観光旅行でイタリアを訪れたデンマークのプロデューサーが、その美声に惚れ込み、デンマークに連れて行ってデビューさせたところ、大成功。デビュー・レコードの「オー・ソレ・ミオ」は、世界中で大ヒット、アメリカだけでも、 300万枚を突破したといいます。また、その後、往年の名テノールのティト・スキーパについてきちんと声楽を学びました。ロベルティーノは、変声後は、ハイ・バリトンとして歌い続けています。1964年のサン・レモ音楽祭に出場し、「可愛いキッス」で入賞もしています。しかし、私が持っているレコードに聴く成人してからのロベルティーノのナポリターナには、あまり心をひかれません。ひたむきな歌心を失ってしまったのでしょうか。たいへん残念です。

歌声を文章から想像するというのは至難の業です。それでも、歌声が聞けない皆様のために、 ロベルティーノの歌の解説でもしましょうか。

 「オー・ソレ・ミオ」
語り口のうまさで聞かせる1曲で、ナポリ方言のニュアンスが生きています。声を張って歌うだけがこの歌の魅力ではないことに気づかせられます。それでも、最後は高音を張って聞かせます。

 「マンマ」
前半の語りがとにかくうまい。ちょっとハスキーな声で静かに語りかけるような歌い方は説得力があります。

 「サンタ・ルチア」
この歌は前半と後半を対比的に歌っており、前半は優しく、後半は熱情的にと、曲想の変化を生かし、長いブレスで歌っています。

 「ラ・パロマ」
まるでクラウディオ・ビルラのような流麗な歌が聞かれます。別れの歌でありながら、悲しみよりも船出という感がします。

 「熱情」
少年にこの熱情を表現させるものは何だろう。清潔な歌い方でありながら、押さえきれないものを感じてしまいます。それは民族の血なのでしょうか。

「帰れソレントへ」
静かな語りに始まって、甘い思い出に耽り、最後は大きく盛り上げるというドラマを感じさせる歌が聞かれます。これは絶唱です。

「忘れな草」
タリアヴィーニ主演の映画で有名になったこの歌は僕の大好きな曲です。これはもう少年の歌ではないと思うほど成熟した歌い方で、「忘れないで」を繰り返し、切ない思いを高めます。

 「アヴェ・マリア」
シューベルトの曲で、「ラ・パロマ」とこれだけがナポリターナとは違います。祈りの曲は少年ののどにあっていますが、とりわけこの歌は清純です。恋の歌と祈りの歌と別れの歌を歌い分けられる少年はそれだけで価値があります。

 「アネマ・エ・コーレ」
こんな切ない歌い方をしないでおくれ・・・僕も切なくなってしまうよ。ビギンのリズムに乗って、とろけるような甘い歌い口で歌われるセレナードは男心をしびれさせます。あ、女心か???

 「ねぐらのツバメ」
語り口のうまさはこのような曲では特に生きてきます。静かな美しい曲ながら、秘めたるものを感じてしまいます。

 聴きながら30分で書いてしまいました。いやいやロベルティーノは聞きしにまさる天才少年です。この後に書く予定のルネ・シマールやニール・リードとは格が違うという感じがします。ルネ・シマールは「ミドリ色の屋根」があった故、ニール・リードは「ママに捧げる歌」があった故に輝いたのですが、ロベルティーノはその歌に求められるものをきちんとつかんで歌い分けています。それでも、変声期の壁が越えられなかったというのは悲しいことですね。

   B ハインチェ

 1960年代後半、ハインチェが、人気を博しました。ドイツを中心に西ヨーロッパ各国で多くのレコードも発売されました。しかし、日本にその情報が入ってきたのは、1970年代になってからですが、主演した映画も1968〜1971年の間に6本あり、そのうちの1本「みどりの讃歌」も短期間東京で公開されました。
 本名はヘンドリック・ニコラウス・サイモンズで、1955年8月12日オランダで誕生しました。9歳頃から歌の才能を開花させ、ロベルティーノの曲を歌って周囲を驚かせました。1966年11歳の時にオランダで、「MAMA」を歌ってデビュー。
 歌声は、ボーイ・ソプラノではなくボーイ・アルトで、堅実さを感じる歌いぶりでなかなかの実力派ですが、ヨーロッパの人気とはうらはらに日本ではレコードも発売されていないのではないでしょうか。ドイツ語で歌われた「マンマ」は、しっとりした歌いぶりで、英語で歌われた「I'm Your Little Boy」は、セリフ入りの歌ですが、これまたじっくりと聴かせる大人の雰囲気を持った歌です。
 青年期も歌い続け、1990年代になってから本格的に歌手活動を再開し、CDも出していますが、少年時代の人気にはほど遠いようです。

   C マイケル・ジャクソン

 最近では、音楽そのものよりも豪勢な生活、白人化する整形手術、スキャンダルによる裁判の方が多く耳に入るようになってしまったマイケル・ジャクソンですが、その少年時代の歌については特筆すべきものがあります。1958年インディアナ州に生まれたマイケルは、ブルースのギタリストをやっていた建築作業員の父と、ジョセフ・ウォルター・ジャクソンとカントリー&ウェスタンの歌手の母の9人の子の5番目(7番目という説もあります)として生まれました。10歳の時、兄弟5人で結成した「ジャクソン5」の一員としてデビュー。翌年には「帰ってほしいの」「ABC」など4曲連続でNo.1ヒットを放ち、スターの仲間入りを果たします。ソリストとしても、1972年、「ゴット・トゥー・ビー・ゼア」でデビュー。続く「ベンのテーマ」では、ソロ初のチャート1位に輝きます。
 マイケル・ジャクソンの歌の美点は、何といっても弾けるようなリズム感。ナット・キング・コールが創唱した「トゥーヤング」を同時期に活躍したダニー・オズモンドの歌と比べると、情熱的なダニーの歌さえも平板に聞こえてしまうほどの躍動感があります。ボーイ・ソプラノ時代に歌われた曲の多くがそのリズム感を活かした曲です。
 変声後は、1978年にダイアナ・ロスと共演した映画「ウィズ」がきっかけで、映画の音楽監督だったクインシー・ジョーンズと出会い、ヒットが続出。ついにはアルバム「スリラー」によって不動の地位を獲得します。このアルバムは、音と映像が相まって世界で5000万枚以上が売れています。どうもマイケル・ジャクソンの評価は、音楽以外の要素がありますが、やはり音楽そのもので評価していきたいと思います。

   D ダニー・オズモンド

1970年代の初め、オズモンド・ブラザーズ(ジ・オズモンズ)という兄弟のグループが、人気を博しました。初めは、アンディ・ウィリアムズのバック・コーラスをしていましたが、やがて、独立して、ロック系の歌を中心に歌うようになりました。中でも人気の高かったのが、ダニー・オズモンドです。ダニーは、やがて、ソロのレコードを入れはじめ、「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」や「パピー・ラブ」は、アメリカだけでなく、日本でもヒットしました。
 ダニー・オズモンドの歌は、恋の歌が多く、年齢とアンバランスとも思えるほどの早熟で切々とした恋心を甘いバラードに乗せて巧みに歌っていました。ダニー・オズモンドは、12歳頃から16歳頃まで、多くの歌声を残しています。途中、変声期を迎えていますが、変声後も歌い続けています。そのような意味でも、声や歌の成長をみる上でも価値ある歌手と言えましょう。変声後も歌心は変わらず、せつない歌を聞かせてくれますた。「アー・ユー・ロンサム・トゥナイト」等見事な歌です。20代以後は、むしろスタッフの仕事が中心で、第一線から去りましたが、オズモンド・ファミリー専用の劇場まで持っており、10年ほど前に、久しぶりのニュー・アルバム「ソルジャー・オブ・ラブ」を出しています。これは、リズムあってメロディがない曲が多くて、私の好みの問題でもありますが、歌としての魅力はいまいちです。なお、声質はテノールです。

   E ジミー・オズモンド

 ジミー・オズモンドは、オズモンド・ブラザーズの末弟。1970年に来日したときは、6歳ぐらいで、マスコット的な存在でした。そのかわいさに目をつけた日本のスタッフが、カルピスのコマーシャルや、写真左の「ちっちゃな恋人」のレコーディングに起用し、当時は、かなりの人気を得ました。しかし、これは、歌の上手な幼児が、舌っ足らずの日本語で歌っているところが「売り」で、音楽的なものは、あまり期待できません。
 その後も、日本でもレコードは発売され、成長のあとを知ることができます。
1972年には、後述する「ママに捧げる歌」などを英語で録音していますが、歌心のある歌で、8歳の歌とは思えないよいできばえです。
 変声後の1981年には、英語混じりの日本語で、「ちっちゃな恋人」の延長線上にある「君はプリティ」を歌っていますが、これは当然日本のファンへのサービス盤というべきものです。日本語がうまくなっていることにも気付きますが、結局日本ではアイドルとしての扱いであったことが残念です。ボーイ・ソプラノとしての最盛期の歌を聴いてみたいと思います。

   F ニール・リード

1972年、ラジオで深夜放送を聞きながら勉強していたら、美しいボーイ・ソプラノの歌声が聞こえてきたというのが、ニール・リードとの出会いです。イギリスの12歳の少年で、その歌の題名が、「ママに捧げる歌」(原題「私のママ」)ということもすぐ分かりました。深夜放送にリクエストが殺到して、わずかな間にこの歌はたいへん有名になり、ニール・リードのEP・LPが発売され、来日もしました。確かに、「ママに捧げる歌」は、しっとりしたメロディと、ニール・リードの切々とした歌いぶりを生かしたものでした。この歌は日本語にも翻訳されて、ニ-ル・リードはもとより、ジミ-・オズモンドや坂本秀明によっても歌われました。しかし、ニ-ル・リードによるLPの十数曲は、ポピュラーのスタンダード・ナンバーもありましたが、どれも同じ色彩の歌で、繰り返して聴く気になれなませんでした。声の美しさは感じても、それぞれの歌の心をつかんでいるとは思えなかったのです。第2弾の「夢を見る頃」も、二番煎じで平板な出来と言えましょう。変声期後の歌は、竹宮恵子の著書「鏡の国の少年」によると、何のとりえもないつまらない出来だったと言います。最近、その「僕のジョアンナ」というレコードを手に入れましたが、聴いた感想は同じです。その後の消息も聞きません。

   G ルネ・シマール

ニール・リードが登場して2年後の1974年、「第3回東京国際歌謡祭」のカナダ代表として来日して歌ったのが、当時13歳のルネ・シマールでした。偶然、この番組を見ることができた私は、フランス語と日本語で歌われる「ミドリ色の屋根」の熱唱に、心をひかれるものを感じました。静かな語りで始まり、次第に高まり、大きく歌い上げるようなその歌は、人の心をつかみ、グランプリを獲得、ゲストのフランク・シナトラから特別賞まで貰いました。カナダのケベック州を中心とするフランス語圈では、その頃既に国民的な人気者であったといいます。
 その後、EP・LPも次々発売され、再来日してコンサートも開かれました。第2弾の「小さな生命」もかなりヒットし、持ち味を生かしているかに見えましたが、やはりその歌は、美声をより美しく響かせるというタイプの歌であり、だんだん感銘も薄れてきました。「鳥」や「ラ・メール」等のフランス語の歌はともかく、日本語の歌は、やはり発音に外国人らしさが抜け切らないので、そちらの方が気になって、あまり楽しめませんでした。消息不明になって久しくなりましたが数年前になって、その消息が、「あの人は今」のような番組で取り上げられ、カナダでポップス歌手として成功していることがわかりました。その番組では、日本から派遣されたキャスターに愛想よく対応しながら当時の日本での思い出を語り、「ミドリ色の屋根」の一節を歌ってくれました。
  さらに、最近ではミュージカルにも出演し、また、音楽や舞台プロデュースも行なって活躍しています。

   H アーロン・カーター

 その後、あまりポップス系のボーイ・ソプラノを聴くことがなかったのですが、1998年、アーロン・カーターのCDを入手することができました。当時11歳のアメリカの現役ボーイ・ソプラノ歌手です。現在では変声しています。
 経歴をみると、ロックグループ バック・ストリート・ボーイズのニック・カーターの弟ということで、4歳から芸能活動をしています。CDに収録されたアーロンの歌は恋の歌が中心ですが、確かに可愛い声であるし、よくリズムに乗って歌っています。例えば「ワン バッド アップル」は、ダニー・オズモンドの歌と聴き比べても遜色ありません。ただ、叙情的な歌をどこまで歌いこなすのでしょうか。また、この20年間にポップスの主流は一層リズム重視となり、メロディは衰退しつつあるように思えます。そのような歌をボーイ・ソプラノで表現するのが最高なのかどうかということに疑問は残ります。

   I イム・ヒョンジュ

 イム・ヒョンジュは、韓国のポッペラ(Popera=ポップとオペラの合成語)という新ジャンルを開発している国民的テナー歌手で、2003年に韓国では、発売されたCDが大ヒットし、社会現象を巻き起こしました。1986年生まれの青年ですが、ボーイ・ソプラノだった12才の頃から「声楽の神童」と呼ばれていました。しかし、当時はまだ子どもであるという偏見から、すぐにはクラシック界では認められなかったようです。しかし、幼少の頃から世界を舞台に活躍することを夢見て、名門ジュリアードの予備学科で声楽を学びながら、国内を中心に活動を続け、盧武鉉韓国大統領の就任式で国歌斉唱も務め上げ、一躍、韓国を代表する歌手としての地位を築きました。現在は、イタリア・フィレンツェ、サンフェリーチェ音楽院に在学中です。
 ボーイ・ソプラノのときに録音したCD「Whisper of Hope」は、透明度の高い声と抒情的歌唱力がマッチして独特の美しい世界を構築しています。また、最近の「sally Garden」を聴き比べると、少年時代の透明度の高い抒情性を保ちながらも、さらにドラマティックな表現を身につけていることがわかります。今後の活躍が期待される歌手です。

   J ビリー・ギルマン

 現在,、若手ヴォーカリストとして脚光を浴びているビリー・ギルマンは、ボーイ・ソプラノ時代にも優れた業績を残しています。1988年生まれのビリー・ギルマンは、カントリーミュージックファンの祖父母の影響を受け、2歳の頃から歌い始めました。11歳のとき、デビュー曲「One Voice」で最年少でビルボードに載ったあとは、3枚のCDを次々と発表。2枚目の「クラシック・クリスマス」は、日本でも発売されました。歌い方は聖歌隊風の透明度のある演奏ではなく、ダイナミックに歌いあげる演奏で、「オー・ホーリー・ナイト」など、大向こうをうならせるような歌い方です。
 14歳で、声変わりしたあと、一時期は歌手としての活動を休み、歌うこともしなかったが、また歌い始めることがでるようになり、ヴォーカリストとしてカムバックしました。歌い巧者で、カントリーミュージックはもとより、ジャズ調、バラード調の歌などもうまみのある歌を聴かせてくれます。

   K ミゲル

芳香剤「消臭力」のコマーシャルで一躍人気者となったミゲルの本名は、ミゲル・ゲレイロ。1998年ポルトガル生まれで、地元ポルトガルで行われたコンテストで優勝したあと、2枚のCDをリリースしています。日本では、2011年の4月にエステー化学の芳香剤「消臭力」のコマーシャルソングを歌って人気者になり、数度来日しました。その年に、全て日本語のCDを出したりしましたが、翌年春に来日したときは、既に変声期に入り、ボーイ・ソプラノとしての更なる活躍は期待できなくなりました。ミゲルの声は、ラテン系の明るくて強い発声が特徴ですが、何曲も続けて聞くと、やや一本調子に聞こえます。


                                             (つづく)

                                            

                                         戻る