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上方絵でたどるわがルーツ
 
(千葉市美術館所蔵)

 たまに京都を訪れ天井が抜けたような広い空を仰ぐと、ビルがせめぎ合う大阪の街中で暮らし、大阪の伝統芸能を次の代に繋げようとしている僕は「京都の街は、焼けんでよかったな。」といつも羨ましく思う。

 北斎、広重といった江戸の浮世絵師の名を知ってはいても、海外での高い評価に反して『上方絵』という浮世絵の存在を知る人は少ない。昨年、大英博物館を皮切りに大阪歴史博物館、早稲田大学演劇博物館に於いて『大坂歌舞伎展』が催され、海外のコレクションから数多くの上方絵が里帰りしたのだが、モネの『睡蓮』やゴッホの『ひまわり』が日本に来た時ほど話題にはならなかった。

 上方絵の存在を知ったのは二十年程前、歌舞伎役者であった山村流の流祖・友五郎の師匠筋にあたる二代目・山村儀右衛門の上方絵が新聞に載ったのを目にしたからだった。儀右衛門の役者絵は、初期の上方絵として貴重な物とされている。儀右衛門の着けている甲冑に我家の紋が使われていた事に驚いた。その『丸水紋』は観世の能に造詣が深かった流祖が、山村流の舞を能より取り入れ、自身の紋も観世水から採ったとされていた。しかし、儀右衛門の役者絵はそれ以前より使用されていた事を教えてくれた。以来、山村流に所縁の上方絵を探してきたが、縁がなかった。

 山村流は今年創流二百年を迎えた。文化三年(一八〇六年)は、流祖・友五郎が歌舞伎役者から振付師に転向し、『覚めてあふ羽翼衾』という作品で初めて歌舞伎番付にその名を載せた年だ。“ふり付けー某”とのみ記されていた歌舞伎番付に、友五郎は後年、師匠の“師”を付けた“振付師”あるいは“師”という一文字で表記され、歌舞伎の世界にあって最高位の扱いを受けたただ一人の振付師だ。友五郎自身も自覚し、晩年、「われひとり」という意味の『吾斗』(舞扇斎吾斗)と、名を改めている。

 友五郎は上方随一の舞の師匠となった。大阪の廓には花魁道中に替わる『練り物』と呼ばれる祭事があり、遊女たちは歌舞伎の様々な扮装をして街を練り歩いた。友五郎が振り付けや衣裳のデザインをしたことを示す『吾斗好』と記された上方絵も残っている。その『吾斗好』の上方絵をどうしても手に入れたくて、大阪の古書店にも廻ったが見つからなかったー。

 

 上方絵は英語で[Osaka prints]というのだと知った。海外では上方絵ではなく大坂絵だったのだ!インターネットで検索してみた。「上方絵」よりはるかに沢山のウェブサイト(海外の物が多かった)の中で芦屋に住むピーター・ウィラキー氏のサイトがあり、Eメールを送ってみた。返事では『吾斗好』を持っているという。早速、芦屋まで会いに行った。彼は海外の研究書に説明されているまま、『吾斗』がコスチュームデザイナーだと思っていた。古いものを色々と持っているのかと尋ねられ、「大阪の流儀だから大空襲で戦前のものは焼けてしまった。」と答えたら、彼はとても悲しそうな顔で、前にも同じ言葉を聞いたと告げた。「もう亡くなったが以前会った上方の浮世絵師のお爺さん(四世長谷川貞信氏?)に先祖の浮世絵や版木が残っていますかと尋ねたら、『戦争で焼けてしもて何にも残ってまへん。』と言われた」と言った。その言葉をきっかけに彼は、ほとんど海外に流出していた上方絵の『大阪への里帰り』を手助けしたいと集め始めたという。

 大阪の街は戦後の復興、高度成長を支えてきた。でも、この土地の伝統芸能を残したいと思う身にとっては、頭をぶつける事の多い街だ。形のない物を残してゆかねばならない僕には、確かに存在したという証はやはり有り難い。アメリカ人・ピーターさんとの出会いは、その僕にとって一筋の光となった。

山村 若
大阪人(平成十八年四月一日大阪都市協会発行)より転載

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