小林佳美 :訳(原作)




「えっ、またなのぉ。」
ミツコはヒステリーに近い状態で言った。

三男のタカユキから電話である。超特急で体操用ジャージィを学校まで届けてと言うのだ。
「日曜日には15分草取りをするのよ。いいわね。」
と、押し付けるように言ってミツコは携帯電話をバッグに放り込んだ。

兄たちとは違い、タカユキはよく忘れ物をする。ミツコはいつも弁当、教科書・・・何だって届けている。
彼女は車に飛び乗り、校門へととばした。校門ではタカユキが待っているはずである。

校舎に掛っている時計はもう、授業の始まる8時30分近くを指していた。生徒たちは正門を走り込んで来ている。

「よぉ、間に合ったな。」
 あえぎながらタカユキは言った。
授業が始まる前にクラスの友達とサッカーをして遊ぶのが好きなのだ。
タックはじっとしていられない子なんだから、
と、ミツコは思った。

「こんどの日曜日は時間がないんだよ。模擬テストを受けなきゃいけないって。忘れたの?」

 このせりふがミツコの耳に入った時にはタカユキの姿は目前にはなかった。タカユキが走って門の中にいるグループに戻った途端、どっと笑い声が渦巻いた。


ミツコは台所でカップのコーヒーをのぞきこんでいた。
「どうしてあの子はああなんでしょう。私の育てかたなのかしら。」
と、考えながら。
「私が若かった頃は、大人には敬意を払ったものだわ。」



ミツコは、自分がまだ中学生で小さな町に住んでいた頃を想い出していた。
ある雨の日、駅まで徒歩で行き、友達ふたりと落ち合ったのだが、ふたりともしゃれたお出かけ用の靴をはいていたのだった。
ミツコは黒のゴム長。
顔をあげられず、友達の目を見て話すことができない。

「そうだわ、私もパンプスにしなくちゃ。」
「それに雨はすぐに止むわ。」
「どうしよう。」
「どうしたらいいのかしら。」
「そうだ! お父さんに電話だわ。」

彼女は公衆電話に走った。
 父は近所では「葦駄天」と呼ばれていた。稲妻のごとき速さで走れるという仏の守護神からのニックネームだ。

 「ミコちゃん、ひとっ飛びでいってあげるよ。」
と、葦駄天は言ったかと思うと、その名のとおり一瞬でやって来たのだった。



 ミツコはコーヒーをゆっくりとすすり続けた。
父はけっして「行けないよ」と言ったりはしなかった。いつもミツコのことを優先してくれたのだった。

 「あら、またおじいちゃんのお見舞いに行かなくちゃいけないわ。」
 「えーと、そうね、金曜日に行きましょ。
  そうだわ、おじいちゃんお気に入りのタック(タカユキ)をつれて行ってあげよう。」
と、ミツコはつぶやくのだった。


(終)

 

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