2006/10作成
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 鎌倉市 KK-02
大仏の由来(小冊子 大佛による)
写真1 大仏 全景
写真2 大仏 側面
撮影:2006/9
【大仏の免震構造】
関東大地震の際は大仏の全体が一尺五寸(約45センチ)ばかり前方に滑り、台座は右後側が三寸(約9センチ)、前側が一尺五寸(約45センチ)地中にめり込みました。続いて、翌年の1月15日の強震(関東大地震の余震)で全体が一尺(約30センチ)ばかり後退しました。(情報源 鎌倉震災誌 1930年)
台座などの大仏の修復は大正14年に行われていましたが、昭和35年(1960年)~36年には台座と仏像の間にステンレス板を敷く構造(免震構造)に改修されました。
関東大地震で大仏が前方に滑ったことは大仏自体へのダメージを防ぐ効果があったと想像されますが、この効果を設計に取り入れて大地震のときは大仏がステンレス板上を滑るように設計されました。また、地震の衝撃に最も弱い頚部は胎内(内側)から強化プラスチックで補強されています。
大仏胎内の案内板によると、
この仏像のゆかは、大地震の際にはその下の台座から離れて地震の方向に辷るようにつくられてある免震構造、但し、どんな地震でも仏像の重心が台座の外に出て、仏像が倒れることは絶対にない。
というように免震構造になっていることを紹介しています。
【地震と大仏】
明応七年八月二十五日(日本暦)=1498年9月20日(グレゴリオ暦)に東南海地震および東海地震の震源域で巨大地震が発生し、そのときの津波で殿舎が流出しました。
理科年表によれば、この地震の被害は「津波が紀伊から房総の海岸を襲い、伊勢大湊で家屋流失1千戸、溺死5千、伊勢・志摩で溺死1万、静岡県志太郡で流死2万6千など」とあり、津波の被害が大きな地震でした。
大仏は海岸から800m以上離れており、標高は12~13mあります。津波は関東大地震においても大仏まで達していません。明応の地震で殿舎が流されたことは驚きです。
南関東では明応七年以降現在までの間に元禄地震(1703年)と関東大地震(1923年)を経験しています。これらの地震によって鎌倉周辺では地盤が上昇していることから、明応のころの海岸は大仏側により近く、現在よりも津波に襲われやすい環境であったかもしれません。
大仏の殿舎が津波で流されたことは震源域から離れている神奈川県においても東海地震の津波に対して警戒が必要であることを示しています。