関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 相模原市 SG-02
ここでいう坂路開削記念碑には碑銘がないため、(仮)を付し、坂路開削記念碑(仮)とすることにする。
写真1 宮坂改脩記念碑
写真2
手前右側に宮坂改脩紀念碑があり、前方左側に十二天神社がある
写真3
宮坂の状況 右側の斜面下側に十二天神社の社殿の屋根が見えている
写真4
宮坂であることを示す案内石柱 「十二天社のそばにある坂なので、この名があります。」と記されています。
写真5
石碑、石仏群の中に記念碑がある
写真6 斜面に建つ記念碑
写真7
十二天神社 当時の宮坂は道路を左に進み、宮坂改脩紀念碑の位置から十二天神社を右から回り込んでその後ろ側に抜ける坂道であったと思われる
写真8
十二天神社の鳥居と社殿 坂路開削記念碑(仮)は鳥居の右側前方にある
記念碑の碑文(写真1)
左:左側面 中:正面 右:右側面
宮坂改脩(修)紀念碑(写真1)は、十二天神社の前の道路際にあり、ここから宮坂が始まり、十二天神社の脇を通って裏側の坂道(写真3)へと続きます。この坂道には、この道が宮坂であることを示す案内石柱(写真4)があり、「十二天社のそばにある坂なので、この名があります。」と記されています。
宮坂改修紀念碑の右側側面には、建立年月日と建立者で、麻溝邨古山中とは高座郡麻溝村(あさみぞむら)の古山地区の地区民という意味でしょう。なお、麻溝村は明治22年の町村制の施行により、当麻村と下溝村が合併して発足した村で、昭和16年に周辺の村町と共に合併して相模原町(現在の相模原市)になっています。
尚、関東大震災での麻溝村の死者はありませんでした。
宮坂改修記念碑は道標も兼ねており、左側面には、現在の地名で相模大野・淵野辺・上溝・田名といった地名が記されています。これらは全て現在の相模原市です。
十二天神社の境内の山側斜面には、関東大震災での交通途絶に対処するために坂路を開削したことを記した石碑があります。この石碑がメインの坂路開削記念碑に相当し、上記の宮坂改修紀念碑は宮坂の開削起点を示す石柱のようで、両者は一体となった記念碑と考えられます。
坂路開削記念碑(仮:碑銘なし)には、次のような内容が刻まれています。
- ・ 大正12年9月1日に関東一帯に大震災が発生し、京浜では激甚なる被害が発生し、これに続く火災によって焦土と化し、死傷者数万人という被害が発生して酸鼻を極めた。
- ・ 本村(麻溝村のこと)もその災厄から逃れることはできず、各所で家屋の損害や山地斜面の崩壊が発生した。
- ・ 特に、横山坂では崖崩れが発生し、木材で埋没したため、交通杜絶をきたし、改修は容易ではなくどうすればよいのか分からない状態であった。
- ・ そこで、一同は鎮守の十二天社に集まり、坂路を開削するよう応急の決議を行った。役場に承認を取って直ちに開削に着手し、一致協力して旬日で1路線を完成させた。更に、翌年の農閑期を利用して1路線を追加完成させた。
- ・ 開削2路線とは、宮坂と大坂*であり、急坂を緩くし、物資集散を容易にした。
- ・ これは、本部落80余名の奮励努力によるものであるが、近郷の番田・当麻・下原その他有志の援助を受けてやり遂げた難工事であり、復興の実績を挙げることができた。
- ・ 震災から生れた奉仕という赤誠で行ったことであり、永遠の利便を提供するものである。
* 大坂 下記参考資料の「街の境を定めた坂の変遷」によれば、大坂は当麻山道の坂部を指し、横山坂の別名であったようです。大坂は十二天神社北西60m付近から始まる上り坂でしたが、現在は地図にも記載されていません。
< 神奈川県神社庁ホームページより >
参考資料
ホームページ 相武電鉄上溝浅間森電車庫付属資料館 街の境を定めた坂の変遷 (旧横山坂・宮坂周辺)http://homepage2.nifty.com/asamamori/02/01/04/02/01.html