作成:2015/2

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 藤沢市 FS-01

藤沢市 --- 金砂山観世音の嗚呼九月一日碑 ---

  • 対象:金砂山観世音の嗚呼九月一日碑
  • 所在地:藤沢市藤沢693番地
  • 碑銘:嗚呼九月一日
  • 建立年月日:昭和4年9月1日
  • 交通:JR東海道線「藤沢」駅、小田急江ノ島線「藤沢」駅から徒歩約15分(行程1km)
金砂山観音 門柱から社殿を望む

写真1

金砂山観世音 門柱付近から石段の上の観音堂を望む


観音堂の左側にあるのが嗚呼九月一日碑

写真2

観音堂の左側にあるのが嗚呼九月一日碑


嗚呼九月一日碑

写真3

2つの石碑が並んでいる 右が嗚呼九月一日碑

嗚呼九月一日碑

写真4

嗚呼九月一日碑

撮影:2015/2

案内板には金砂山観世音についての緒言が掲示されています。下の文はその書き出部しです。

夫れ霊験顕著なる金砂山子育安産帯解観世音菩薩は今を去る三百有余年前即ち寛永年間に金井清西なる者不思議の霊夢を感じて一宇を建立す ……


石段を上り、観音堂に向かって左側にある大きな石碑が嗚呼九月一日の碑です。

嗚呼九月一日碑 正面の文字

嗚呼九月一日碑 正面

石碑には藤澤山遊行尊光書とあります。この藤澤山とは時宗の総本山である遊行寺の山号であり、これが町の名前になり、宿場町を経て現在の藤沢市へと受け継がれたそうです(時宗総本山遊行寺ホームページより)。遊行寺は金砂山観世音から北東約300mの距離にあります。

嗚呼九月一日碑の刻字内容

  • ・石碑背面:上から下に向かって碑文、殃死者氏名、賛助員所属氏名
  • ・基壇背面:発起人
  • ・基壇向かって右側側面:賛助員氏名

石碑背面上部の碑文は漢文ですが、次のような内容が読み取れます。

  • ・大正12年9月1日に大地震があり、震源の数里四方は被害が甚大であった、
  • ・藤沢地方もその範囲内にあり、堂宇・人家は倒壊し百余名が死亡した、
  • ・その時から七年目に当たり、藤沢町民の有志が相談して慰霊祭を行い、併せてこの慰霊碑を建立したことなど。

基壇背面には発起人として、川岸青年会役員9名の氏名が刻まれています。

賛助員の住所には久川町、川岸町、大鋸、舟久保町、中久保町、旅籠町、栄町、正木町、辰巳町、蔵前町、停車場町、入町、大門町、西富町、旭町など高座郡藤沢町時代の町名がありますが、一部を除いて、現在の地名としては残されていません。

 ⇒ 碑文を見る

震災当時、高座郡であった藤沢町の死者数*1は105名とされています。藤沢町の死亡率(死者/人口×100)は高座郡中最大の0.63であり、比較的大きな人的被害が発生しました。石碑には116名の殃死者氏名が刻まれていますが、町外外出者も含めた藤沢町全体を対象とした慰霊碑と思われます。

*1 死者数 諸井孝文,武村雅之 関東地震(1923年9月1日)による被害要因別死者数の推定 日本地震工学会論文集 第4巻 第4号 2004の付表より

(参考)県下名勝史跡四十五佳選

写真3の左側にある石碑は金砂山安産子育観世音の石碑で、右側には県下名勝史跡四十五佳選当選記念と刻まれています。これは1935(昭和10)年の横浜貿易新報社(現在の神奈川新聞社)の45周年記念行事において、県下45カ所の名勝・史跡に金砂山間世音が選ばれたという記念です。45カ所は45周年に因んでおり、金砂山間世音は順位14に入りました。

情報源⇒[PDF]1935年神奈川県名勝・史蹟投票-横浜市

往時は街道を挟んで、緑を背景とした遊行寺が眺められたと想像できますが、現在は看板や電柱・建物などがその景観を台無しにしています。