作成:2005/2 更新:2015/3
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横須賀 YS-01
写真1
港町公園と大震災遭難者供養塔
横須賀は1884年(明治17年)鎮守府の設置、1903年(明治36年)鎮守府所属の海軍工廠の開設、1916年(大正5年)海軍航空隊の開設など、海軍の造船・軍事基地として発達した都市です。当時、神奈川県の市は横浜市と横須賀市だけであり、横浜市に次ぐ第2の大都市でした。
港町公園には供養塔、遭難者名碑、地蔵尊などがありますが、これらは崖地の崩壊で多くの人が犠牲になった場所の一角に昭和11年に移転・設置されたものです。
それぞれの碑などの最初の建立年月日は、
であり、これらを昭和11年に崖下を開削造成した現在地に移転するとともに、震災当時の資料などを揃えた震災記念閣が建設されました。
この経緯は、地蔵尊が納められた地蔵洞の右側にある「震災供養塔移轉並記念閣建設ノ由来」に記されてます。
横須賀の震災記念閣は時代の経過と共に老朽化し、価値がないものとして消滅しました。横浜市に横浜震災記念館がありましたが、後に博物館が併設され、さらに結婚式場を経た後に解体され無くなりました。
写真2 大震災遭難者供養塔 碑文(左:正面 右:背面)
基壇正面の碑文
写真3
大震災供養塔前で、地蔵尊の上にある遭難者碑
遭難者47名の氏名に加え年齢と住所が刻まれているが、横須賀市及び横須賀市周辺の人ばかりではなく、千葉県や静岡県を住所とする人も含まれている。
震災当時、国鉄横須賀駅から市内中心部に向かう道路が崖下を通っていました。地震によって崖が崩壊し、通行中の人や車とともに道路と海軍軍需品庫の一部を埋めて50名の人が犠牲になりました。
<資料-1 西坂勝人 神奈川県下の大震火災と警察 1926 より>
本市は丘陵到る所波涛の如く起伏せるため、崖地の崩壊殊の外多く、之がため人畜の死傷も亦少なからず。其内主なるものを挙ぐれば、湊町見晴山の停車場の通路に沿える高さ十丈(約30m)、厚さ十数間(約20~30m)、長さ四丁(約440m)に亘る大崩壊は、道路及び道路を隔てて海軍軍需部構内の一部と、通行人五十名とを埋没し、……
旧字体、送り仮名を変更 ( )内を追加
写真4 大震災供養塔など
大震災供養塔、遭難者碑、大震遭難追善地蔵尊が一直線上に並んでいる。
写真5
大震遭難追善地蔵尊とその前方の大震遭難追善地蔵尊碑
この石碑の碑文を右に示す。行数と1行当たりの文字数は実際の通り。
(左が正面で右が背面)
写真6 大震遭難追善地蔵尊
撮影:2005/2
図1 横須賀市震災誌附復興誌の横須賀市震災要図の一部を抜粋編集
左の図は、横須賀市史に記載されている横須賀市震災要図(原典:横須賀市震災誌附復興誌)の一部を抜粋編集したものです。横須賀駅から市街地に向かう道路が崖下を通っており、崩壊したゾーン(崖崩れ)が記号で示されています。