『国分寺物語』13


【第12回】さいとう・たかを氏、ゴリラ・プロ設立


 国鉄(JR)の線路脇にあじさいが咲いていた風景を憶えているので、多分梅雨入りしたころだと思う。(編注1)

 珍しくさいとう・たかを氏のほうから、川崎のアパートを訪ねて来た。

 「健やんもカメレちゃんも一緒に聞いてほしいんやけど、三人とも時間貸してくれるか?」 ひょうきんな気質のさいとう氏が、いつになく真顔で僕らを見ていた。

 「もちろん、いいですよ。なっ?」 川崎が南波と僕を見ながら、「どっか喫茶店に行きますか?」

  「いや……、ちょっと真剣な相談事やから、ここの方が落ち着けてええと思う」 氏が煙草を取り出したので、僕は灰皿を持ってきながら、一体何事だろうと不安を覚えていた。

  「俺、劇画のプロダクションを作ろ思うんや。これからの劇画家や漫画家は、自分一人でシコシコ描いていたらあかんと思わへんか? 今はアシスタントも雇わんと、みんな一人で何とかしてるけど、将来を考えるといつかマンネリになるやろし、依頼いっぱいくるようになっても、一人で描いてたら1カ月に1冊描き上げるんがええとこやろな。あとはなんぼ描いてくれっちゅうて頼まれても、物理的に無理なんやから、仕事断らなアカンのがオチやろ?」 そう説明しながら、さいとう氏は、僕らにそのメンバーになってほしいと口説き始めたのである。

 「プロダクションの名称は、ゴリラ・プロとか、さいとうプロを考えてるんやけど、もちろんプロの君らに俺の仕事を手伝えと言うんやのうて、川崎君は川崎のぼるの名前で、健やんは南波健二の名前で作品を作ったらええねん。ただ単行本でも短篇でもトビラページのどこかに、ゴリラ・プロ作品と入れてはほしいんやけどな」

 「今まで、辰巳さんらと劇画工房作品とか劇画集団作品と入れてはるように、ゴリラ・プロとかさいとうプロ作品と入れるゆうことですね」 川崎が訊いた。(編注2)

 「そや。頼みたい条件はそれだけや。カメレがオッケやったら、今のとこアシスタントはカメレだけやけど、おいおい五人から十人ぐらいは増やしたいと思うてるんや。けど、君らがよっしゃ、ゆうてくれるんやったら、とりあえずカメレを入れてこの4人ですぐにも始めたいんやけど、どやろか?」

 それからさいとう氏はメリットとして、給料制にするから、毎月最低1冊描いてくれると、川崎や南波のギャラでは2万5千円前後のはず。それをさいとう氏のプロを通せば、さいとう・たかをのギャラの5万円を貰うようにするから、最低毎月4万円の給料は保証する、ことなどを説明していった。

 「月に1冊描けないときでも4万の給料は貰えるのですか?」 南波が訊いた。

 「逆に、もしも1カ月で2冊とか描いたら、8万円貰えるんですか?」 川崎が訊いた。

 「そやなあ。1冊も描けんときでも4万は払うけど、それ以上描けたときは、ちょっとぐらい上乗せするけど、あとはプロダクションの将来のために積立させて貰いたい考えやねん。もちろん、収入に応じて賞与は出すつもりや」

 「なんだか、よい条件じゃない?」 南波が川崎に言った。

 「自分の仕事ができるんでしたら、僕も一緒にやらせてください」 川崎も賛成した。「でも、磯ちゃんの立場とか給料とかはどう考えてはるんですか?」 川崎が僕のことまで心配してくれていて、さいとう氏と僕の顔を眺めた。

 「カメレは、俺ら三人の手伝いをして貰うわけやから、仕事は一番きついかもなぁ。せやから最低2万円の給料でどうやろ?」

 先にもどこかで書いたように、大卒の初任給が1万2、3千円の時代である。僕は内心小躍りしていたが、その歓びは顔に出さずに川崎と南波に答えを決めて貰おうと、彼らの顔を窺うのだった。

 「凄いやんか! それだけ貰えるんやったら、磯ちゃんも文句ないよね」 川崎の賛同に南波も同調し、とにかく僕らは、さいとう・たかを氏の計画に乗ることになったのだった。

 数日後から、僕ら三人は揃って「さいとうプロ」(けっきょくゴリラ・プロの名称は、ゴリラのイラストのみさいとうプロのロゴマークとして使うことになった)に出勤することになった。時間にはルーズすぎた川崎も南波も、初日から十日目ぐらいは午前10時前後に出勤して、午後7時前後に退社するリズムも新鮮に思われ、けっこう楽しく過ごせた僕らだが、これまでのように昼過ぎまで眠っているわけにはいかないし、規則通りコンスタントに仕事をこなすことに慣れていない川崎と南波は、2,3カ月後には「さいとうプロ」の一員になったことを後悔し始めるのだった。

 それから5,6カ月目に入ったころ少し話が違うことが起ったのも、彼らの後悔の要因になっていた。なぜかといえば、当時大人気を博していたさいとう作品「台風五郎」シリーズを2、3カ月だけ代筆してほしいとさいとう氏が頼み、川崎も南波も1冊ずつさいとう・たかをタッチで描き上げたころだったのだが、さいとう氏が「もう1作ずつだけ、台風五郎を描いてほしい。あとは君らの作品を自由に描いてくれてええから」と頭を下げたのだったが、どうしても自分の作品を描きたかった川崎のぼるが一抜けしたのである。しかもさいとう氏にも南波と僕にさえ断りもなく、黙って帰阪してしまったのである。

 その数日後には、あろうことか南波健二までが辞めたいと言いだし、さいとう氏の引き留めにも頷かず、川崎のアパートから自分の荷物を運び出し、田無の実家に帰ってしまい、一番役に立たない僕だけが残るハメになったのだ。

 「お前しかおらんようになったから、お前は辞めんといてや。今はしんどいときやけど、石川(フミヤス)君とか元美津はんとか、スタッフになってもらお思て口説いてる最中やし、アシスタントももっと増やすから、ほんま、助けてな」 こんな風にさいとう氏に頼まれて、僕は二つ返事で応えていた。

 川崎のアパートを解約して、僕はまた4畳半ひと間の小さなアパートに引っ越したのだった。そう、引越したことは憶えているのだが、川崎の部屋に残されていた彼の荷物をどうしたのか(どうなったのか)、その辺りのことは、どうやらきれいさっぱり忘れているのである。

 そして更に数ヶ月が過ぎた秋口、さいとう氏が大阪の八興社やわかば書房に急用ができ、急遽帰阪することになり、僕もしばらく大阪には帰っていないということもあって、一緒に連れていってもらえることになった。

 初めて乗る特急(急行?)の寝台車。初めて食べる駅弁。さいとう氏のおかげで、こんな初体験を味わえたのだが、後年東海道新幹線が走り出し、それとともに寝台車もなくなっていったものだから、僕が国鉄(JR)の寝台車に乗ったのはこのときが最初で最後になったのである。

 さて、ここからは非道い話も懺悔告白しなければならず、思い出しても辛くて恥ずかしくて赦されざる事件を起こしてしまうのだった。たしか、2泊の日程でさいとう氏に帰阪させてもらったと思うが、三日目の帰りは、さいとう氏と大阪駅で待ち合わせることになっていたのだったが、理不尽にも僕はその約束の日時に大阪駅へ行かなかったのである。

 数年後、風の噂で聞いたところ、そのときさいとう・たかを氏は、乗車予定の列車にも乗らず、2時間前後も待っていてくださったとのことで、氏にはいまだに会わす顔がないのである。

 なぜ、そんなに非道いことになったのか。言い訳がましい理由だが、それは僕が若すぎたことや人の気持ちを思いやる心が乏しかったためだろう。とにかく思い出してもぞっとするが、恐ろしいことにそのころは、このすっぽかしをそんなに悪いと思わなかったのである。

 とにかく、帰阪して川崎のぼるを訪ねたのだが、川崎と会っていると感傷的になり、翌日佃竜二(現、ビッグ錠)を紹介してもらったりして楽しく語り合っているうちに、東京には帰りたくない、このまま大阪に留まりたいと強く願うのだった。

 このようにして、けっきょく理不尽男子三人組が、さいとう・たかを氏を裏切るようにとんずらしてしまい、事実上ほんの一時期だがさいとう氏と「さいとうプロ」の面目を潰してしまったのだったが、そんなことで挫ける氏ではないから、そんなことから1年もしないうちに、石川フミヤス氏やK・元美津氏をスタッフに迎え(編注3)、以後の「さいとう・たかをプロダクション」の繁栄を築かれるのである。

 当然ながら、さいとうプロの沿革には、われわれが登場するはずもないけれど、極めて短期間とはいえ、言うなれば「さいとう・たかをプロダクション」の前身(準備期間?)に、川崎のぼると南波健二と、そして僕とが加わった(加わりかた?)ことだけは、漫画史における裏面史的真実なのである。(編注4)                【第1部・完】

<あとがき>

 以上が、僕の見聞してきた国分寺での劇画家・漫画家たちの一端である。

 これを書いてきて思ったことは、僕は高校にも大学にも行かなかったけれど、いわばこの国分寺での2年間の体験で、かけがえのない情操教育を、諸先輩から受けられたという点で、この時代のこの国分寺の、これらの環境が、その後の僕の生きかたに今も影響しているようである。

 そして、この拙文が漫画史、特に劇画史を研究されている方々に少しでも役立つことを願って……。

 「わが青春の国分寺」に感謝!



(編注1)さいとうプロダクションの創業/公式には、さいとうプロの創業は1960年4月ということになっている。したがって、ここで描かれている磯田氏の季節描写とはいささか異なる時期になるが、「創業」の内実がここで描かれているような状況のものであると考えれば、さほどの齟齬は生じないともいえよう。なお、さいとう氏が「劇画工房」を脱退したのが1960年3月であるから、さいとうプロはその直後に「創業」されたということになる。

(編注2)「劇画工房作品とか劇画集団作品」/この部分の表記は磯田氏の記憶違いである。確かに劇画工房は1959年1月に結成されていたから問題は無いが、劇画集団の結成は1963年1月である。(※『貸本マンガ史研究』第6号40頁の「注記」では劇画集団の結成は1962年4月とされている。私はここでは故横山まさみち氏の「日記」にある、1963年1月28日にさいとうプロの新年会の場で結成されたという記述に依拠している。こちらの方が正しく思われるのは、同「日記」に、劇画集団の役員再選挙が1964年1月にあったという記述ゆえである。なお、同じ「注記」に「理事長さいとう・たかを、副理事長横山まさみち」とあるのは、「理事長さいとう・たかを、理事横山まさみち及び永島慎二」の間違いである。)

(編注3)「石川フミヤス氏やK・元美津氏」/この部分も磯田氏の勘違いである。石川フミヤス氏は確かに初期からのさいとうプロのスタッフであったが、K・元美津氏が「ゴルゴ13シリーズ」の脚本に加わるようになったのはやっと1970年代になってからである。

(編注4)「裏面史的真実」/先にも述べたように、公式的なさいとうプロの「創業」は1960年4月である。磯田和一氏を始め川崎のぼる氏や南波健二氏がかかわったのは明かにそれ以降であり、少なくとも「台風五郎シリーズ」2冊の代作があったことからすれば、けっして「さいとうプロの前身(準備期間)」などではなく、いわば「消されたさいとうプロ創業史」とでも言うべきものであろう。



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