『国分寺物語』2
【第1回】都下下北多摩郡国分寺の「劇画村」
1959年4月、国分寺で永島先生に探してもらった本村のアパートは、国電(現JR)国分寺駅から徒歩20分もかかる場所にあり、3畳ひと間だけの部屋で、家賃はたしか月に1300円ぐらいだったと思う。トイレと炊事場は共同で3畳ひと間きりではあったが、押入れが付いていたので押入れに収納する物もない身としては、押入れの上段をベッドとして使ば、下段の空間と3畳の和室をあわせて3部屋である。そう思うと、この先自分で家賃が払えるかどうかもわからないのに、嬉しくて嬉しくて初日の夜は一睡もできなかったのを憶えている。 眠れないもので、両親宛に手紙を書いた。その手紙を投函するために駅前に出たのだが、頭がハイになっていたのだろうか、途中新聞配達をする中学生に会ったときには、「お早うさん!頑張って!」と大声で励まし、「俺も頑張るからな」とこれは小声で自分自身に呟いていたものだ。 現在と違って、国分寺駅前や駅周辺には何もなかった時代である。それでも東京経済大学や東京学芸大学が在ったから下宿屋、アパート、居酒屋、BAR、麻雀荘、定食屋などはけっこう点在していた。ほかにも「でんえん」(後出)、「風車」(後出)、「リリー」(後出)という名の喫茶店が3軒、現在は西友ストアーと無印良品が入っているビル?に、小さくて狭い映画館が1軒(この映画館の2階が、喫茶「リリー」)、その斜向かいに小さな小さなパチンコ屋が1軒、駅付近の線路脇にビリヤード場が1軒在ったのだから、当時の国分寺駅の両隣駅武蔵小金井駅や国立駅周辺と比べるならけして寂しいとはいえないのだが、何しろコンビニエンス・ストアーもスーパー・マーケットもファースト・フード店もない時代の国分寺駅付近の早朝風景は実に侘びしく、東京方面行きの始発列車に乗るのだろう勤め人風の人が一人二人歩いているだけだった。そのほかには僕と僕を胡散臭そうに眺めながら徘徊している2、3匹の野良犬だけが居合せるくらいなのだ。 |
『国分寺物語』3
【第2回】さいとう・たかお氏との出会い
1959年5月、どこかの出版社で既にさいとう・たかを氏と知り合っていた永島慎二氏が、国分寺に現在も営業を続けている小さな名曲喫茶「でんえん」で、僕をさいとう氏に紹介してくれた。 「けっこうやる気のある子でね。僕はかってんですよ」と言って、時々ベタ塗りを手伝わせてやってほしいと頼んでもらえたのである。 「そら助かりますわ。ちょうど、ベタ塗ってくれる人、探してたとこでんねん。君、さっそくで悪いけど、来週から来てくれへんやろか?」当時はまだそれほど太めではなかった青年、さいとう・たかを氏がにこにこ顔で僕に訊いてきたのだ。 「はい。行きます!」考えている間を1秒でも空ければ、まるで二度とチャンスが来ないかも知れないと思った僕は、さいとう氏が言い終わる前、つまり「君、さっそくで悪いけど……」と、聞こえた瞬間に元気良く答えていた。 かくして僕が最初に国分寺でベタ塗りを手伝ったのが、さいとう・たかを氏だったのだが、この日さいとう氏と永島氏の漫画および劇画談義を聞いていて、彼らの話題にのぼる劇画家たちの名前に鳥肌が立つほど興奮したものである。いやはやすごい面々が、この国分寺に集まっているらしいのを知ったのだ。 さいとう氏はこの約10年後、『ビッグコミック』の創刊号から延々35年以上つづく連載作品「ゴルゴ13」(編注1)を大ヒットさせることになる人だが、ほかの人も、辰巳ヨシヒロ氏、佐藤まさあき氏(故人)、松本正彦氏、石川フミヤス氏(のちにさいとうプロに所属、作画担当)、K・元美津氏(この人ものちに、さいとうプロに入り原作・脚本を担当/人)、山森ススム氏、久呂田正美氏、川崎のぼる氏など錚々たる漫画家の名が取り沙汰されていたのである。 さいとう氏は、貸本屋向け単行本の『空気男爵』、『死太刀双之進』(注1)、『黒い魔剣』、『赤い三角部屋』ほか、貸本屋向け雑誌『影』での当時としては衝撃的タイトルの短篇「野郎、生かしちゃおかねえ!」(注2)や、同誌での読み切り連作「名探偵/黒い子猫シリーズ」(注3)など、氏の発表する作品は全て読んでいたほどの大ファンだったし、辰巳ヨシヒロ氏もまた大好きな劇画家だったから、まださいとう氏以外は、だれとも会っていないというのに、これらの人たちといずれは出会えるのだと思うだけで、ワクワクドキドキ興奮していた。 今挙げた劇画家または漫画家では、川崎のぼるだけが、他の人よりも4歳から6歳は若くて、僕より1歳年上だった。彼は若かったけれど既に人気漫画家で、たしか当時ではデビュー作の『乱闘・炎の剣』(注4)以外は『独眼秘法』(注5)、『神変阿修羅剣』、『秘剣忍剣』と、ラジオドラマを漫画化した『月影秘帖』(全4巻)(注6)(全て単行本)を発表していたと記憶する。 その川崎のぼるとは同世代ということもあり、会ってすぐに友人になれたのだが(川崎のぼるとの出会いは、「国分寺物語」6/第5回で書き記す)、実際に出会うまではもう少し年長だと思っていたから、まるで少年のように見える川崎のぼるに圧倒されたのを憶えている。既にプロの劇画家と、まだアマチュアの漫画・劇画家志望者にすぎない僕。この川崎も、ここ国分寺で出会えるまでは僕にとって雲の上の人だったのである。 若き川崎のぼるとは対照的なのが久呂田正美(まさみ)氏だった。久呂田氏は既に40歳を過ぎていたと記憶するが、二十代が多い劇画家たちは、久呂田氏のいないところでは氏を「おやっさん」とか「ご隠居はん」などと呼んでいた。なんでもこの久呂田まさみ氏は、『影』の創刊号からしばらくの間、表紙の絵を描いていたことがあり、貸本屋向けの漫画家としては、手塚治虫氏と同じころのデビューで、『影』発行元の八興社(のちに光映社=日の丸文庫)(注7)の山田社長(注8)から家を建ててもらったほどの人だったらしく、この久呂田氏と川崎は、このころから劇画とか劇画家という言葉を使い始めていたさいとう氏や辰巳氏らとは、一線を引いたところに居たのである。事実、当時の川崎のぼるの画風は漫画的でもあった。 ほかにも、少なくとも5、6名は関西出身の漫画家や劇画家たちが居たが、それほど顔を合さなかったか、どうしても親しくなれなかった人たちなので、さすがに47年も昔のこととて今では名前すら思い出せないのが残念ではある。 これらの人たちは国分寺に住む漫画家・劇画家だが、都内に住んでいてしばしば国分寺を訪れ、国分寺在住組と交流の深かった人に、桜井昌一氏(辰巳ヨシヒロ氏の実兄で劇画家兼文筆家/故人)や深井国氏(当時は深井ヒローという漫画家。現在は著名な挿し絵画家)、当時田無の実家に居て、国分寺にやって来ては関西の劇画家たちと親交を深めるうちに、川崎のぼると国分寺のアパートで同居することになる南波健二。大阪出身で、このころから東京の江古田に住んでいたありかわ栄一=有川栄一(川崎のぼるの親友で、のちに園田光慶と改名/故人)らが居て、彼らは頻繁に国分寺に遊びに来ていたのだが、この人たちも数えるとせいぜい5、6年の短い時期に、都下北多摩郡国分寺には劇画家、あるいは漫画家がこんなにも住んでいたり、出入りしていたのである。 このように当時の国分寺は、「劇画村」と呼べるほど数多くの劇画家が屯していて、この数年後には超ビッグな劇画家たちを幾人も輩出していったのだ。そしてそういう意味では、かの「トキワ荘」の伝説にもひけを取らないのが国分寺なのである。 有名作家や有名画家なら、ほんの一時期住んでいたというだけでも,東京田端の「室生犀星旧居跡地」とか東京下落合の「佐伯祐三アトリエ跡」とか呼ばれたりして有形文化財に指定されたり保存されたり、少なくとも石碑のひとつ建てられるのだから、それならば国分寺にも、「さいとう・たかを旧居跡地」とか、「川崎のぼる下宿先跡」とかの表示板くらいは、いずれ立ててほしいものだと、マジに思う。 それはともかく国分寺にやって来て5、6日目に、さいとう・たかを氏の家を訪ねた。永島氏が大久保のアパートに住んでいたくらいだから、さいとう氏もアパート住まいだろうと想像していたのだが、氏の住居は平屋で3Kほどの広さの一戸建てだった。 「おっ。電報届いたんやね(当時は電話のない家庭も多かった時代で,当然僕の部屋にも電話はなかった)。ま、上がって上がって。狭い家やけど気ィ使わんと、好きにしてくれたらええ。せやけど、もしかして君、腹減ってへんか? 減ってるんやったら先に飯喰いにいってもええし、どないする?」 今なら僕も、少しは如才なく受け答えできるだろうが、まだ17歳で、相手は僕の尊敬している人気漫画化<さいとう・たかを>である。どないする?と訊かれても、はい、減ってますとは言えずに、「朝、食パン食べましたから……」と、口ごもりながら真っ赤になって突っ立ていたものだ。 「食パン喰うただけやて? ほな、腹減ってるやろな。よっしゃ、先に飯喰いに行こ。腹が減っては戦もできんちゅうさかいな」 さいとう氏は、さっさと玄関口でサンダルを履くと僕を促していた。 「好きなもん、いっぱい喰うてもええで。なんでもええから、遠慮せんと、いっぱい腹に詰め込んどかな夜中に腹減ったぁゆうたかて、うちには喰うものないんやからな」 「はい。ほな、鯖の焼いたのとご飯、頂きます」 遠慮せずにと言われても、まさかもっといっぱい注文するわけにもいかず、それだけを告げたのだが、さいとう氏は経済大近くの定食屋「武蔵野食堂」(残念ながら今は無い)のおかみさんに、「鯖の焼いたん二人前と、肉じゃが二つ。卵焼き二つに、とん汁二杯。お新香二皿と冷や奴二丁、飯は大盛で二つ、以上、頼んます」と、勝手にいっぱい注文しているのだった。 本当に注文の数や量まで,そんなにこと細かく憶えているのかと突っ込まれそうだが、はっきりと憶えているのである。なぜなら、ここ4、5日というもの、朝は食パン2枚、昼は食べるのを我慢して、夕方のみ映画館近くの定食屋「金ちゃん」(注9)で、当時おかず1品、みそ汁、お新香付で50円だった「金ちゃんセット」を食べるだけだったので、僕は食べる前から涎が流れそうなほど数多い皿や鉢が並んでいるのに驚いていたし、事実その頃は大学生も今と違って苦学生が殆どだったものだから、周りのテーブルの学生たちが、僕らのテーブルに置かれたおかず群を羨ましげに眺めていたほどの時代でもあったのだ。そんな次第で、今もそれらのおかずたちが、目を閉じればはっきりと浮かんでくるのである。 さいとう氏は食事中、瓶ビールを1本注文し、それを僕にもすすめかけたが思い留まり、ビールは自分だけで飲み干していった。僕は、中学3年生の時大阪の八興社に漫画を見てもらいに行ったことがあり、そのときにさいとう氏の人気シリーズ「名探偵/黒い子猫」の原画の吹き出しの写植(写真植字)を張り込むのを手伝って、駄賃をもらった体験などを話した。 「嬉しいこと、ゆうてくれるなあ。黒い子猫か。懐かしいなぁ。あれは自分でも気に入ってた作品なんや。ほんまはもっと続けたかったんやけどなあ」と、氏も懐かしそうに話してくれるのだった。 食べ終わり、外に出るとさいとう氏は、帰る方角とは反対の方角にすたすたと歩き始めた。 「悪いけど、ちょっと付きおうて。1時間だけ玉突いて帰るさかい、退屈やろけどちょっとだけ我慢しててな」 氏はいたずらっ子のように笑いながら、サンダルの足音をペタペタ響かせ、その足取りがどんどんどんどん速くなっていくのだった。
※以上の川崎のぼるの単行本の画像は、川崎のぼるファンでコレクターの根岸儀幸氏提供 |