『国分寺物語』4

【第3回】いよいよ、さいとう・たかを氏の役に立つのだと思うと、それだけで震えた

 「磯田君、枠線引けるか? 引けるんやったら、この紙全部に引いてほしいんや」と、さいとう・たかを氏から渡された原稿用紙を手にして、僕はまたも感動に震えた。

 まだ全てが鉛筆デッサン(下書き)だったが、絵も吹き出しの文字も氏の手になる生原稿なのだ。原画は,これまでにも永島慎二氏や石川球太氏のを何枚か見てきたが下描きを見るのは初めてで、さいとう氏の下描きが2Bくらいの鉛筆で真っ黒けになるほど、強く濃く描かれているのには驚いた。断言できる自信はないが、この時の作品は後にヒット・シリーズになる「台風五郎」(注1)のまだ1、2作目だったと思う。

 「もちろん、引けます」 僕は烏口と墨汁とセルの定規をもらい、さいとう氏の机のそばの座卓の前に座り込んだ。

 「おっ! けっこう上手いやないか」 10枚ほど枠線を引き終えたころ、氏は仕上り具合を確かめるために僕の手元をのぞき込み、褒めてくれたのである

 「オッケ、オッケ。これで飛ばせるから、あと30枚ほど枠線引いてくれたら、いったん帰ってもええで。せやなあ、今晩10時ごろ、また来てくれるか? それまでにペン入れ終わらせとくから」

 こうなるだろう状況は、僕にも分かっていたので「はい」と答えて、それから30枚ほどのケント紙に枠線を引き終えると、さいとう氏宅をあとにした。

 帰り際に、氏はその日の昼食代と夕食代をくれたのだが、この額も今でもはっきりと憶えている。先にも書いたように「金ちゃん」の定食セットが50円の時代に500円ももらったからである。現在の額にすれば5000円以上はもらったことになるのである。

 それだもので、いくらなんでも小銭がなかったためだろうと判断し、僕は夜再訪したときに、お釣として400円を返そうとしたのだが、「それは、きょうの飯代ときのうの無駄骨代やから、返さんでええ。取っとき」と、押し返されたのであった。

 それから2、3日、さいとう氏も自宅に篭ったきり仕事をしつづけ、食事は毎回出前で済ませ、たまに煙草を買いに行かされる以外は、僕もせっせとベタ塗りやホワイト(はみ出した線などの修正のこと)、そして消しゴム当てに勤しむのだった。

◆そのころの原稿料など◆

 余談ではあるが、このころのさいとう・たかを氏の原稿料は1ページあたり350円だったと記憶する。10ページで3500円、100ページで35000円(因みに当時の貸本屋向け単行本は出版社によって異なるが、平均的には1冊がさいとう氏クラスで3万5千円前後、新人で1万5千円ぐらい)になるわけだから、けして安くはないのである。当時は高卒の初任給が1万円前後、大卒でも1万5千円前後だったから、描くのが早い人なら日に10枚の仕上げが可能で、ほんの4日間くらいで高卒や大卒の月給を稼ぐ勘定になるのだ。もっとも、さいとう氏のように仕事の依頼が途切れずにある場合の話で、普通は月に16ページとか24ページしか仕事がないのが平均だったから、稼ぎたくとも稼げない人のほうが多いのも現実だった。

 ついでに記憶を辿って、他の貸本向け漫画家たちの当時の1ページ当たりのギャラを思い出すと、辰巳ヨシヒロ氏が300円ぐらい、佐藤まさあき氏と松本正彦氏が250円ぐらい、川崎のぼると南波健二氏が200円ほど、因みに再上京した半年後に、僕がセントラル文庫=セントラル出版(当時新宿の西五軒町に在った小さな出版社)の『斬る!』(注2)、『街』(注3)、街別冊『1、2、3!(ワン、ツー、スリー)』、『渚』(注4)、などに短編を寄せたときのギャラは、1ページ150円で、これは会ったことこそなかったが、僕とは同世代で、当時『街』のコンクールで新人賞をもらって華々しくデビューした荒木伸吾氏(現在はアニメーションの世界の大御所)や九鬼誠氏(注5)も同じで、150円前後というギャラは、当時の貸本屋向け漫画出版社での新人の原稿料の平均ページ単価でもあったのだ。(分かりやすいように当時の物価を書いておくと、都電の乗車賃が15円、国電の初乗り区間が10円、喫茶店のコーヒーが平均50円、銭湯が25円くらいだった)。


 

 さいとう氏の紹介で、辰巳ヨシヒロ氏と佐藤まさあき氏のベタ塗りのアルバイトが入ってきて、僕はたちまちまるで売れっ子並に忙しくなった。佐藤氏などは電報では不便だからと、呼び出し電話はお断りという僕の住むアパート「島田荘」の大屋さんと直接交渉し、ひと月500円ほどを呼び出しの手間料として払ってくれることになり、<呼びだし>とはいえ電話が通じることになったお陰で、僕は益々忙しくなっていったのである。

 ところで、このアシスタント(主にベタ塗り)のギャラは、当然ながら相手のギャラや器量次第でまちまちだった。ベタ塗り代としての平均は、その人の1ページ単価の10分の1程度が相場だった。つまり、1ページ300円の人なら30円。200円の人なら20円になるわけで、ベタを塗るだけでもらえるギャラ(当時のプロたちは、背景は自身で描いていた)としては、ストーリーと絵を丸ごと自分ひとりで描き上げて、1ページ150円前後の新人のギャラと比べれば、アシスタントというのはけっこう優遇されていたわけで、たしかに僕は一時期、アシスタントのギャラだけで当時の月給取りのサラリー分くらいは稼いでいたのである(この頃から3、4年後になると、漫画家や劇画家を志望していた人たちが、その志を諦め、アシスタントのプロフェッショナルになろうと考える人が登場してくる)。

 そのアシスタント業なるものも、いろんな人を手伝っていると、しばしば時間調整に悩まされたものだ。辰巳氏は呼ばれた日時に伺ってみても、いつも遅々としてペンが進んでいなくて、待つことの時間の方が多かった。ときには仮眠しに行ったように眠ってばかりで、何一つ手伝わないまま翌日出直すことになったり、この人の寡作ぶりは佐藤まさあき氏の多作ぶりとは、僕から見れば共に有名劇画家であるだけに不思議だった。この執筆量の大差を知り、驚いたものである。

 もちろんこれは収入の高低にも響き、それらを傍観しているだけで、遅筆の有名劇画家や漫画家の生活上の厳しさを思い知るのだった。ましてや、注文の少ない人の場合は、失業者と同じだから月収がゼロの月もあるのである。

 そんな次第で、辰巳氏の仕事の手伝いは結果的にはそれほどできなかったが、佐藤氏の手伝いは、まるで弟子入りしたみたいに月の半分は佐藤氏のアパートに泊り込んだり、日参した時期があった。

 さいとう・たかを氏が短期集中型なら、佐藤まさあき氏は連日コンスタント型。辰巳ヨシヒロ氏は予測不可能遅筆型。他の人は失礼ながら、この三者に比べると、アシスタントが必要なほどには多忙ではなかったので、たまに締切が大幅に遅れたときのみ声を掛けてもらった。いずれにしても、松本正彦氏ほかの劇画家たちも、全員が僕には雲の上の人ばかりだったので、だれに呼ばれてもなんとか時間を調整し、喜び勇んで駆けつけたものである。

 もちろんなかには、アシスタント料を払ってくれない人やベタ塗り相場の半額ぐらいのギャラしかくれない人も居た。だが、今思うと彼らがケチだったり、性格が悪いからではなく(ま、そういう人も一人二人は居たけれど)、当時、全国の貸本屋における漫画及び劇画ファンに名を知られた中間の漫画家や劇画家といえど生活そのものは大変で、払いたくとも払えない文無し状況が普通だったのである。ある人などは、背広を質屋に預けに行き、質屋の前でギャラを払ってもらったこともあった。また逆にアシスタントの僕が、手伝いに呼ばれたプロの劇画家に500円ほど貸したこともあったり、注文の少ないプロたちが、さいとう氏や佐藤氏に借金を申し込んでいるのをしばしば目にしたものである。


(注1)「台風五郎」/日の丸文庫の『影』で連載していた少年探偵「黒い子猫」を、青年にしたような探偵シリーズで、大人気を博した名作。(編注―下段の画像参照)

(注2)『斬る』/筆者も叶和一の筆名で見返しの絵を担当。短編も1、2本載せてもらった。

(注3)『街』/東京で発行されたこの貸本向けミステリ雑誌は、大阪の『影』と双璧でありライバル誌だった。筆者もこの雑誌では2、3本の短編漫画を発表している。

(注4)『渚』/これはセントラル出版ではなく、他社かもしれないが貸本向けの少女雑誌である。この少女系も若木書房、曙出版、すずらん出版ほか、各社が競って発行していた。

(注5)「九鬼誠」/セントラル出版の『街』の新人賞を受賞し、個性豊かなイラストタッチで、諸先輩を唸らせる力作を数本発表するも、やがて漫画・劇画界から去っていった。その実力ぶりは、筆者の書庫を探し、そのうちには九鬼氏の作品の一部を紹介したいと思っている。


 
さいとう・たかを「台風五郎」(読切)
『日の丸』昭和33年7月号ふろく

 
さいとう・たかを『台風五郎』
貸本時代・最終巻



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