作成:2017/4
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 秦野市 HN-10_2
写真1
震生湖上流側に下る遊歩道入口から「震生湖」バス停方向を望む
小原改修記念碑は前方のバス停の脇にある
写真2
震生湖バス停付近の状況
左が「震生湖」バス停で、その背後に小原改修記念碑が見える 右に峯坂(みねざか)と刻まれた石柱がある
写真3
震生湖のバス停と小原改修記念碑
震生湖は道路前方の林の中の遊歩道を下ると直ぐ
写真4 小原改修記念碑
写真5 記念碑の題額
横2行に大きく「小原」「改修紀念」、縦に「小泉又次郎」、列を変えて「書」とある
小泉又次郎とは、元総理小泉純一郎の祖父である
写真6 旧道
一部の旧道は残されている 当時の道幅は1mぐらいで深くえぐられているような道であったらしい
撮影:2016/10
図1
小原改修記念碑周辺図(旧道と新道等位置図)
旧道の位置は資料1の465ページの図を参照して概略を記入した
旧道は2人の少女が犠牲になった道路であり、通学していた小学校と自宅のある小原も示した
小原改修記念碑は震生湖バス停の脇にあります。この記念碑は高さが約2mもある石碑で台座の上に設置されており、大型で目立った存在です。この敷地は3本のスダジイの大木によって、社を思わせるような雰囲気になっており、実際に祠もあります。また、この記念碑の他に、大震災埋没者供養塔や「峯坂(みねざか)平成2年3月」あるいは「現地旧道埋立ハ市道工事請負小宮建設社ノ厚意ニテ完成 昭和四十三年 地元」と刻まれた石柱などもあります。石柱の峯坂(峰坂)とは秦野市街地側から眺めて、南側の丘陵斜面を登る旧道を指し、記念碑や峰坂の石柱のある場所は当時の峰坂を登って丘陵の尾根筋に出た箇所に相当し、当時は丸山と呼ばれていました。
小原改修記念碑が何を記念して建立されたものか、碑文や資料から調べてみると、地震で崩壊した旧道である峰坂に替え、新道を建設した完成記念碑であることが分かりました。旧道の峰坂は地震によって崩壊し、2人の小学生が犠牲になった坂道です。このことについては前ページの「峰坂の大震災埋没者供養塔」を参照ください。
小原改修記念碑には震災と関連した記載はほとんどありませんが、関東地震そのものが新道建設を後押ししたと考えられ、実質的には震災復興碑に相当しているようです。
碑の背面には「昭和5年5月7日建之」とあり、震災復興期に建立されていることから、震災との関連が予想されます。資料1の関東大震災の南秦野村の項に、
現在、旧道の一部は、農作業用の歩道として使用されている。自動車等、一般に利用されている道路は、昭和5年5月に完成した。総予算は7614円で、地元の人たちの労力奉仕もあって建設された。人数は延約700人であった。(縦書きで、数字は漢数字)
とあり、碑文の内容と一致することから、旧道に替え、現在使用している道路の完成記念だとわかります。また、同資料には「新道と旧道」とした地図も記載されおり、旧道とは2人の小学生が犠牲となった峰坂を指しています。(図1参照)。
資料5によれば、記念碑が建立された昭和5年の村会での件目に第3号村道小原秦野線改修工事とあり、この道路(新道・旧道)は秦野盆地と渋沢丘陵の小原とを結ぶ南秦野村の村道であることを示しています。
題額は石碑正面上部に刻まれているタイトルのようなもので、「小原改修紀念 小泉又次郎書」とあるようです。資料3や資料4では小原を小南と読んでいますが、周辺に小南という地名が見当たらず、小原と読むべきでしょう。古文書や木簡の文字をデータベース化した電子くずし字辞典いう便利なツールがあり、原も南も100種を超える文字が登録されていますが、それでも石碑の文字が原なのか南なのかは判定困難であり、装飾的な文字であるのかも知れません。石碑の文字が原なのか南なのかは、資料5記載の「第3号村道小原秦野線改修工事」をよりどころとして、当ページでは小原を採用しています。
石碑の正面中央には「縣補助989圓村負担2273圓篤志寄附1037圓地元寄附3315圓地元人夫700人」(碑文は縦書きで数字は漢数字)とあり、その右側には篤志寄附、左側には地元寄附としてその金額と氏名で埋められています。実質的には寄付者の名簿碑のような体裁になっています。
大震災埋没者供養塔に「山口粂蔵 三女 トク」とある山口粂藏の名は、この記念碑の地元寄付者のなかにもあることから、地元には小原が含まれていることが分かります。資料2にある南秦野村震災被害概要と題する表には、小原の総戸数24とあるのに対して、小原改修記念碑の地元寄付者は59名であることから、地元とは小原を含む更に広い地区と考えられ、旧平沢村(南秦野村は明治22年に平沢村他3村が合併して誕生)と考えるのが適当と思われます。
改修事業(実質的には新道付け替え事業)には県の補助金や村の負担金が使われていますが、左下のグラフが示すように地元と篤志者からの寄付金が全体の57%を占め、さらに地元から延べ人数700人の労力提供がなせれています。地震をきっかけとして、平沢地区(旧平沢村)の住民がて結束し、村内外への資金援助の依頼や土地買収等の調整を経て、長年の念願であった新道が完成したと思われ、実施主体は地元と表現されている旧平沢村の住民と想像されます。
資料2の南秦野村震災被害概要(大正12年9月12日)によれば、平沢地区(旧平沢村 戸数235、家族人員1536名)の地震被害は、死者11人、全壊住家73戸、半壊住家106戸でした。峰坂で遭難した小学生2人はまだ捜索中であり、死者には含まれていません。
新道が完成した昭和5年は関東大震災から7年後であり、満州事変の始まる前年です。震災復興がようやく終わる時期ですが、昭和大恐慌の時代に軍務(入営)と納税に苦労しながら、寄付金を工面し、働き手は無償の道路改修工事に参加したのでしょうか。村道でありながら、現在では考えられないような地元負担です。地元で使用する道路は自分たちの道路という意識が強く、地元で管理・補修するのが当然と考えられていた時代だったのでしょう。
記念碑の背面には、銘曰として、下記に示すような漢詩のような文があります。
天助裕大 人為可依 幾拾年來 舊知難路
時得機求 改修全成 震公再到 亦足恐哉
漢文に対する知識はありませんが、敢えて記すと「天の助けは大きく、人のなすこと次第である。何十年来、古くから難路として知られていたが、時を得、機会を生かすことによって改修を全うすることができた。地震によって念願がかかない、立派の道路が完成した。再び地震が来ても恐れることはないであろう。」このような意味合いではないでしょうか。
通常時なら、道路改修(新道付け替え)に県が補助金を出すことはないし、村が負担する気配もなく、まして寄付金が集まるとは考えられないことですが、地震によって住民が結束し、県や村の対応も変わりました。崩壊した峰坂は、丘陵地の小原から秦野盆地の各町村に直結する重要な道路ですが、荷車の往来もままならぬ難路でした。これをただ単に補修しても難路であることに変わりがなく、次の地震で再び犠牲者が出るかもしれないという状況下において、新道に替える機運が高まったと思われます。これを「時得機求」と表現しているような気がします。
特に小原の住民にとっては、村の中心部に直結した道路であり、小原改修記念碑は、道路に面して建立されていますが、碑の正面は道路を向かずに小原の方を向いているようにも見えます。
道路完成の昭和5年と現在平成27年の企業物価指数(戦前基準指数)から、当時の貨幣価値は現在の約800倍になり、地元寄付金の総額3,315円は256万円程度、総予算7,614円は610万円程度に相当します。道路付け替え工事が現在のお金610万円でできるとは思えませんが、その多くは材料費に使用され、工事費の主体となる土砂の掘削や運搬は勤労奉仕(人夫700人)が多くを占めていたのかも知れません。
参考資料
資料1:秦野市(1992)秦野市史 通史3 ぎょうせい
資料2:秦野市(1987)秦野市史自然調査報告書3 秦野の自然Ⅲ 震生湖の自然
資料3:秦野市(1987)秦野の記念碑 193p
資料4:平野富雄 地震の石碑(21)秦野市内の地震の石碑 復刻版 http://www.onken.odawara.kanagawa.jp/modules/study/index.php/sekihi/Sekihi_No21_C40/Sekihi_No21_C40.pdf
資料5:秦野市(1991)秦野市史史料叢書5 南秦野町(村)の事務報告書
石塚利雄(1976)秦野地方の地名をたずねて 121p
秦野市編(1985)秦野ふるさと探訪 ぎょうせい 122p
東京大学史料編纂所・奈良文化財研究所『電子くずし字字典データベース』『木簡画像データベース・木簡字典』連携検索 http://clioapi.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/ZClient/W34/
日本銀行 ホームページ 昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか? https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/history/j12.htm/