作成:2002/3 最終更新:2017/4
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 秦野市 HN-11
写真1 震生湖の説明板
この説明板は震生湖を背にして設置されており、前面(撮影者の背後)には駐車場とトイレがある
写真2 震生湖 北西端(上流側)からその延長方向を望む
写真3 震生湖
崩壊土砂で埋まった旧谷中心部付近からから上流側を望む
ボート上に釣りを楽しむ人が見える
図1
南秦野村、崩壊地(▲は覗標点を示す)
「秦野に於ける山崩」寺田寅彦・宮部直巳より
写真4 寺田寅彦の句碑
写真5 寺田寅彦の句碑 ズームアップ
震生湖の説明板(写真1)より
震生湖
震生湖は、1923年(大正十二年)九月一日の関東大震災の時、渋沢丘陵の一部が崩落し、その土砂が谷川をせき止めてできた自然湖です。
この湖周辺では、一年を通じて多くの野鳥を見ることができ、「かながわの探鳥50選」に選ばれています。
- 海抜 150メートル
- 面積 13,000平方メートル
- 最大幅 85メートル
- 長径 315メートル
- 周囲 1,000メートル
- 平均水深 四メートル
- 最大水深 十メートル 秦野市
震生湖に流入する沢はなく、また流出部もありません。撮影時期は豊水期ではありませんが、写真1、2のように豊富な水量を保っています。資料2によると、水位は、降水量の最も多い6月ごろ高く、最も少ない2月ごろ低くなるそうで、降水量と関係が大きそうですが、震生湖は谷の奥(谷頭)に近い凹地にひっそりと隠れるように存在し、集水面積はごくわずかです。震生湖の水は降雨時に周辺斜面から供給される流入水の他に湖底からの湧水が加わっているものと思われ、地下水位が浅いことで比較的豊富な水量が保持されているものと思われます。
震生湖の谷筋は市木沢であり、市木沢の左岸斜面が関東地震で崩壊し、土砂が沢を埋めることによって震生湖が生まれました。
(参考)震生湖の谷筋と流下河川
震生湖は市木沢の最上流部が堰き止められてできた池であり、伏流水として若干は下流の市木沢に流出しています。この意味では、市木沢は震生湖の伏流水を水源としているとも言えます。市木沢は中井町で藤沢川に合流し、さらに藤沢川は中村川に流入し、小田原市を経て、二宮町で駿河湾に注ぎます。
寺田寅彦は震生湖を発生させた崩壊について現地調査をして、「秦野に於ける山崩」と題した調査論文(資料1)を残しています。寺田寅彦は「天災は忘れた頃来る」という諺・警句で有名であり、実験物理学や地球物理学を専門とする東京帝国大学教授ですが、当寺は東京大学地震研究所に所属していました。
資料1の論文には、現地の状況示す図1のような平面図や断面図が記載されていますが、これは簡易測量(簡単な測量器を用いた三角測量と仰角測定)の結果を用いて作図されています。崩壊した土砂に覆われた部分は3つの区域に分けられるとして、各々について地形や植生、土質などの特徴について記述されています。その他、この周辺には池ノ窪、中ノ窪、窪ノ庭という名称を持つ窪地が存在すること、山崩れのあった谷に沿って、かって崩壊したために生じたであろう崩壊地形がかなり多く認められること、土地の人の記憶によれば、崩壊地付近には崩壊前から地割れがあったこと、一般の池沼の中にはこのような崩壊が原因となって生じたものが多数あるであろうことなどが述べられています。
調査当時の池は左の図のようにW-LAKE、E-LAKEと2つに分かれており、W-LAKE(主湖)が土砂の流入がないか少ない上流側の旧谷筋に生じた池であるのに対し、E-LAKE(副湖)は土砂の流入によって旧谷筋が半ば埋められ、対岸の緩斜面が新たな最凹地に変わることによって生じた池と解釈できます。現在の震生湖は一続きの池になっているものの、当時の主湖と副湖の境界でくびれており、池の延長方向が並行にずれたかのような形状を呈しています。くびれの部分には橋が架けられ、橋の左岸側の広場には売店や寅彦の句碑があります。この広場周辺は旧谷筋に相当し、当時の谷底は15m程度の土砂に埋まっているものと思われます。
< 資料2の震生湖と寺田寅彦より抜粋 >
寺田寅彦は、震生湖に昭和5年9月7日(日)と9月12日(金)の2回にわたって調査に来ている。この頃の寺田寅彦は、東京帝国大学地震研究所専任であった。『寺田寅彦の生涯』(小林1977)によると、1回目は1人で写真を撮って帰ったようだが、2回目は地震研究所の宮部直巳と津屋弘達を誘ってきている。
写真4、5は震生湖畔に建つ寺田寅彦の句碑で、「山さけて 成しける池や 水すまし」と刻まれています。
< 資料3より(昭和5年10月) >
(はがき)昨日は、朝、急に思い立ち、秦野の南方に、関東地震の際の山崩れの為に生じた池、「震生湖」というのを見物および撮影に行った。……
山裂けて成しける池や水すまし
穂芒(ほすすき)や地震(ない)に裂けたる山の腹
< 資料2の震生湖と寺田寅彦より抜粋 >
尚、調査の折りに寺田寅彦は、次の3つの俳句を詠んでいる。
- 山さけて なしける池や 水すまし
- 穂芒(ほすすき)や地震(ない)に裂けたる 山の腹
- そば陸穂(おかほ) 丸う山越す 秋の風
昭和30年9月1日の震災記念日に、震生湖畔に寺田寅彦の句碑が建立された。『寺田寅彦の生涯』(小林1997)によると、前記の3つの俳句をもって、当時秦野高校教諭であった宮本信義氏と杉山茂夫氏が、その頃学習院大学教授で寺田寅彦とは俳句の同門であった小宮豊隆氏を訪問した際、小宮氏から「震生湖の感じが一番よく表れている、山さけて、というのが、おそろしさがあらわれているから、これが一番いい」と言われ、「山さけて成しける池や水すまし」の句を選んで、揮毫してもらい、市の資金で現在の句碑が建立されたという。
写真6
崩壊跡地(滑落崖に沿う道路から見下ろす)
広い敷地に太陽光発電パネルが設置されている
写真7
崩壊跡地(震生湖の駐車場に接する道路より望む)
撮影:2016/10
関東大震災から7年後の昭和5年に寺田寅彦等は調査(資料1)を実施しました。崩壊の規模は平面図や断面図によると、崩壊幅約150m、崩壊長さ約100m、土砂到達距離は滑落崖上を基準にして約200m、滑落崖の高さは高い所で20m以上、沢中心部を埋めた土砂の高さは高い所で約20mなどが読み取れます。
また、崩壊地は滑落崖直下から沢に向かって、地形的特徴等により、次の3つに区分されています。
崩壊前から地割れがあったことから地震前日からの雨水が地割れに流れ込み、地震動で一気に滑動したようです。
起伏に富む崩壊跡地は後に造成平坦化され、以前のゴルフ練習場、現在の太陽光発電施設として利用されています。
参考資料
資料1:寺田寅彦 宮部直巳(1931)秦野に於ける山崩 東京大学地震研究所彙報10号
資料2:秦野市(1987)秦野市史自然調査報告書3 秦野の自然Ⅲ―震生湖の自然―
資料3:寺田寅彦(1930)柿の種 震生湖より
落合政一(1925)秦野誌並に震災復興誌 261p
武村雅之(2011)[資料]神奈川県秦野市での関東大震災の跡―さまざまな被害の記憶― 歴史地震 No.26,p1-13
井上公夫編著(2013) 関東地震と土砂災害 古今書院 225p