作成:2016/5
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 秦野市 HN-12_1
写真1
蓑毛バス停 終点であり、バスはここでUターンして秦野駅行となる
正面に蓑毛橋が見え、金目川が右から左方向に流下する
写真2
蓑毛橋から金目川上流方向を望む
ヤビツ峠や大山への登山道は金目川の左岸に沿って上流に向かう
写真3 上流側より蓑毛橋を望む
撮影:2017/4
震災当時、蓑毛は中郡東秦野村に属していました。東秦野村は1889(明治22)年の町村制により、蓑毛村他6村が合併て生まれた大住郡東秦野村を始めとしています。
古くより、蓑毛は大山への参詣口(裏参道)でしたが、昭和2年に小田急が開通することにより、伊勢原が大山参拝の玄関口となり、蓑毛はすたれました。現在でも秦野-蓑毛(バス)-蓑毛越-大山(徒歩)ルートは参詣道(裏参道)・登山道として使われていますが、秦野-ヤビツ峠(バス)-大山(徒歩)ルートが一般的です。
資料1の関東大震災 >秦野地域の被害 >東秦野村の項から被害状況等を拾い出してみると、
ことが記されています。この豪雨に際し、蓑毛橋周辺の家屋を守るために消防団員が流路を変えるなどの対応をとりましたが、土石流の破壊力には勝てませんでした。
また、資料2によると、「(秦野警察分署)部内の北部に横(た)わる山嶽の一部は9月1日の激震により弛みを生じ居たる為、仝月15日の豪雨に會し、仝夜東秦野村蓑毛春嶽山*2の一角は高さ八、九町の所より廣面積の土砂崩潰し、山津波となり、其の山麓に在りたる農家15戸を土砂と共に押し流し、又埋没し、」と記載されています。ただし、( )内は追加。
写真2は蓑毛橋から金目川の上流方向を望んでおり、当時、上流より土石流が襲ってきました。写真3は上流側より蓑毛橋を望んでいますが、河原には土石流で運搬されてきたと思われる径1m程度の礫が点在しているのが見えます。大正12年9月15日の土石流によるものかもしれません。なお、当時の川幅は狭く、蓑毛橋も低い位置に架かっていました。
*1 春岳沢:春嶽沢(はるたけさわ)に同じ 金目川の最上流で、髭僧の滝の上側に二股があり、左支川を春岳沢、右支川をモミジ谷と呼ぶようである(資料3の地図より)
*2 春嶽山:春岳山(はるたけやま)に同じ ヤビツ峠と大山とのほぼ中間にある標高949mの山
写真4
ヤビツ峠への登山道と屋敷跡を示す説明板
写真5 写真4の道路脇にある説明板
蓑毛橋脇から金目川に沿って、ヤビツ峠方向に約600m進むと、写真4,5の本宿の説明板がありますが、これによると、震災後の大雨で15軒が流され、屋敷の跡だけが残っているそうです。
資料2の罹災状況調(大正12年10月調)によれば、東秦野村で全流14、半流11とあり、震災直後の土砂災害に注目すると、1町5か村(秦野町、東秦野村、北秦野村、西秦野村、南秦野村、大根村)のうちで最大でした。また、資料1では、蓑毛橋付(東秦野村)で農家15戸が流されたようであり、東秦野村での土砂災害の中心は本宿ではなく、その下流の蓑毛橋周辺であると思われます。
本宿で15軒が流されたとするのは半流や小屋なども含まれているのかも知れませんが、詳細は不明です。
参考資料
資料1 秦野市(1992)秦野市史 通史3 近代,806p
資料2 内務省社会局(1926) 大正震災志 上,1236p
資料3 ブログ ikuko~沢風に誘われて~ 丹沢 金目川春岳沢http://siraneaoi403.at.webry.info/201511/article_1.html
秦野市(1998)丹沢 山のものがたり,218p