関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 東京 T-26
写真1 大震火災記念石と案内板
写真2
写真1の左側の石碑で、大震火災記念石と刻まれている
正面 背面
大震火災記念石の案内板より
関東大震災記念碑
大正12年9月1日の関東大震災によって東京市内は大きな被害を受け、焼け出された市民3万人以上が一時的に植物園に避難しました。その一部は園内の震災救護所でさらに長期にわたる避難生活を送りました。大正14年1月に最後の居住者が退去し、有志によってこの記念碑が建てられました。
地震とこれに続く火災によって家屋を失った人々は火炎に追われながら、皇居外苑や社寺境内などの大規模な空き地に避難しました。小石川植物園は最寄りの火災延焼端(小石川後楽園*)から北北東方向約1.5kmの距離にあり、大規模な一時的避難場所の1つになりました。大震火災記念石の説明板にあるように一時は3万人もの避難者が押しかけたようですが、その後、小石川区役所によって22棟432室の公設バラックが建てられ、短期間の避難生活の場となりました。
バラックは9月3日に起工・9月7日に竣工しましたが、入所は9月4日から順次開始され、590世帯の2,134人がバラックに収容されました。バラック建設の工期が5日間であることから、簡易かつ安価な構造であったと思われます。
バラックは撤去が前提であり、大学における研究が停滞するとの理由により、大正13(1924)年3月に東京帝国大学より撤去要請がなされました。同年12月の第一期バラック撤去を経て、翌年3月に第二期のバラック撤去が図られましたが、第二期の撤去時期においても482世帯が入所していたということであり、転居できない状況の世帯が多かったようです。
大震火災記念石が建立された大正13年9月は公設バラックの撤去が開始される前であり、公設バラックに加えて私設バラックも多数あったのかもしれません。
*小石川後楽園 東京ドーム(後楽園球場)の西側にある日本庭園で、当時園内の八卦堂(はっけどう)が飛び火のために焼失しました。現在は八卦堂跡として八角形の礎石が残っています。小石川後楽園は広域焼失域の北東端付近に当たり、小石川後楽園南側から上野公園の南端を結ぶ線が広域焼失域のおおよその北限になります。
参考資料
関東大震災罹災者バラックとその入居者について 2009/1 北原糸子
写真3
説明板と大震火災記念石と刻字された石碑の間にある記念石?
写真3が記念石本体で、写真2は記念石の案内標識か ??? 記念石本体には刻字はなく詳細は不明。
風化が進んだ花崗岩で幾筋かの亀裂が入っている。
写真4
旧小石川養生所の井戸と案内板
撮影:2010/9
旧小石川養生所の井戸の案内板より
旧養生所の井戸
小石川養生所は貧困者のための施療所で、町医者小川笙船の意見により、享保7(1722)年にこの場所につくられ、明治維新の時に廃止されるまで続きました。この養生所の井戸は水質が良く、水量も豊富で、大正12(1923)年の関東大震災の時には避難者の飲料水としたおおいに役立ちました。