作成:2003/4
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 東京 T-16
写真1 亀戸の浄心寺山門
写真2 亀戸事件犠牲者之碑
写真3
亀戸事件犠牲者之碑の下部(台座)
撮影:2003/3
亀戸では、地震後に出火した二ヶ所は消し止められ、本所に隣接した一部の区域が延焼しただけで大部分は被災を免れました。亀戸は焼失区域に隣接した位置にあり、本所・深川両区からの避難者が殺到しました。
火の手が南の大島町へ移って、安全地帯とみえると、二日午前一時ころから、避難者が続々と押し寄せ、亀戸天神社・天祖神社などの境内はもとより市街地といわず田園といわず充満して雑踏を極めたという。亀戸警察署管内へ一日に避難してきたもの約一二万人、これに町自体の被災者を加えれば、最高三〇万人近くにも上がったとみられている。九月二〇日現在、民家に寄寓中の避難者は、なお約七万八千余名に及んでいる。(江東区史 中巻 平成九年)
このような混乱した状況下で亀戸事件が発生しました。
亀戸事件は、平沢計七など労働運動家九名が警察によって逮捕監禁され、警察から協力の要請を受けた兵士によって殺害された事件です。
警視庁は事件を厳秘に付し、10月10日午後3時に至ってはじめて公表した。遺族、南葛労働会、総同盟は当局を糾弾し、自由法曹団は真相追及と司法権発動を要求した。しかし、当時、事件は戒厳令下の行為として軍隊の責任は不問に付され、真相究明には至らなかった。
(江東区史 中巻 平成9年 漢数字をアラビア数字で表示)