作成:2004/7
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 東京 T-07
写真1 大正震火災追悼碑 遠景
写真2
大正震震火災横死者追悼之碑
撮影:2002/6
「大正震火災追悼碑」は「日露戦役従軍記念碑」などの石碑と共に木母寺(もくぼじ)境内の外側に設置されています。
写真では「大正震火災追悼碑」と「日露戦役従軍記念碑」が重なって見えていますが、向って左が「大正震火災追悼碑」です。
木母寺はかって現在の位置より約百五十メートル北側にありましたが、都市再開発法に基づく防災拠点建設事業の実施により、昭和51年に現在の都立東白鬚(ひがししらひげ)公園の一角に移転しました。
真泉光隆著『梅若塚物語』によると、「天下之糸平」の碑は昭和53年に現在の位置に移転していることから、「大正震火災追悼碑」も昭和51~53年頃の間に移転されたと思われます。
真泉光隆著『梅若塚物語』によると、木母寺周辺の当時の様子が次のように述べられています。
本堂は前方に大きく傾斜したが、辛うじて倒壊は免れた。
時おり襲う激しい余震のさなか、墨堤には被災した人々の列がえんえんと続き、村人は初めての事の重大さを覚った。
それらの人々の中には堤をおりて境内にとどまって仮小屋を立てるものも出て、梅若堂の前面には時ならぬテント村が出現、さらに戒厳令の布告と共に軍用天幕も張られ、軍隊による非常食の配給も開始される有様。
思えば昨夜は台風模様の怪しい天候のもとながら、この夏おわりの縁日が立ち、かなりの混雑だったというのに、一夜にして全く予期しなかったこの変わりよう。
【参考】梅若塚の由来(木母寺略誌より)
境内に鎮座する梅若塚は、謡曲などによって、広く知られている旧跡です。
当寺に現存する絵巻物「梅若権現御縁起」は、次のような説話を伝えています。
梅若丸は、吉田少将惟房(これふさ)卿の子、5歳にして父を喪い、7歳のとき、比叡山に登り修学す。
たまたま山僧の争いに遭い、逃れて大津に至り、信夫藤太(しのぶとうた)という人買いに欺かれ、東路を行き、隅田川原に至る。
旅の途中から病を発し、ついにこの地に身まかりぬ。
ときに12歳、貞元元年(976)3月15日なり。
いまわの際に和歌を詠ず。
尋ね来て 問わば応えよ都鳥 隅田川原の露と消えぬと
このとき天台の僧、忠円阿闍梨とて貴き聖ありけるが、たまたまこの地に来たり、里人とはかりて一堆の塚を築き、柳一株を植えて標(しるし)となす。
あくる年の3月15日、里人集まりて念仏をなし、弔い居りしに、母人、わが子の行方を訪ねあぐね、自ら物狂わしき様して、この川原に迷い来たり、柳下に人々の群れ居り称名するさまを見て、愛児の末路を知り非歎の涙にくれる。
その夜は里人と共に称名してありしに、塚の中より吾が子の姿、幻の如く見え、言葉をかわすとみれば、春の夜の明けやすく、浅茅(あさじ)の原の露と共に消え失せぬ。
夜明けて後、阿闍梨に、ありし事ども告げて、この地に草堂を営み、常行念仏の道場となし、永く其の霊を弔いける、と。