作成:2014/4
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-33
写真1 神奈川宿歴史の道 説明板
<写真1の説明板 神奈川宿歴史の道 より>
金蔵院
金蔵院は京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹である。その後、徳川家康から十石の朱印地を許された。 「金川砂子」のこの図には江戸後期の様子が描かれている。参道は街道まで伸び、金蔵院・熊野神社が境内に並び立っている。本堂前には徳川家康の「御手折梅」と称される梅の古木が描かれている。かつては毎年一月に当院の住職が、この梅の一枝をたずさえて登城するのがならわしであったという。
写真2
金蔵院の本堂と大震火災横死者供養塔
写真3 大震火災横死者供養塔
大きい石柱が震災後に建立された供養塔で題字がほとんど判読できない。手前の小さい石柱が平成15年に再建された供養塔
写真4 大震火災横死者供養塔併設されていた塊状の石碑(左・背後)と再建された板状の石碑(右)
当時の石碑は破損しており、一部の刻字しか残っていない。
大震火災横死者供養塔は関東大震災の翌年に建立されましたが、昭和20年5月の横浜大空襲や戦後の混乱から行方不明になっていました。平成15年に再興・併設された石碑にはその経緯が以下のように刻まれています。
<再建したことを示す石碑より>
謹んで大震火災殉難者諸精霊に申し上げます。
顧みれば八十年前、大正十二年の本日起きた関東大震災に際し、横浜市は惨禍最も激しく業火鉄石を溶かし、市内は一望灰燼を残すのみと伝えられております。そして数万人の方が亡くなられたと伝えられております。洵(まこと)に哀惜の情に堪えられません。一年後、大正十三年九月、神奈川町有志の方々が金蔵院境内に大震火災横死者供養塔を建立されました。
そして、毎年供養法要が執り行われてまいりました。しかるに昭和二十年五月二十九日、横浜大空襲に際し、金蔵院一山烏有に帰し、大震火災横死者供養塔も破損し、九月に連合軍の進駐の折り、京浜急行の土手に埋められてしまい、近年まで所在不明となっておりました。本年京浜急行株式会社様が仲木戸駅改修の折り、この供養塔を発掘、当山境内まで搬入をくだされ、大震災八十年を迎える本年、奇しくも再建することが出来ました。
本日茲に再度開眼供養を勤修し、大震火災殉難者諸精霊の冥福を祈念申し上げ、あわせて人類永遠の平和と福祉を祈念いたします。
冀(こいねがわ)くは在天の諸精霊微志を照察したまえ。平成十五年九月一日
神境山曼茶羅(まんだら)寺金蔵院 第五十六世中僧正 隆弘 敬白
【( )内に漢字の読みを追加】
<神奈川町の震災の状況 横浜市震災誌 第二冊 1924 横浜市役所>
神奈川町は、本方面の中部を占めている地域で、西南は青木町に接し、東は港内に向かい、その他は子安町や郡部に隣り合っている。中央から海岸までは平地で、商店・工場等はあるが、丘陵地だから、戸口は少ない。震災の影響は、青木町と同様に、稍々大きく、火災も各所に起こり、殊に神奈川駅以東の目貫場所である各町は、一斉に焦土となった。別町の東北部を占めている字柏町。富家町・稲荷町・新町・浦嶋町等の全部は焼失した。殊に町内には工場が多かったので損害は多大であった。震災後掠奪が各所で行われた。(旧字体やかな送りを改めた)