作成:2015/3
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-32
写真1 橘樹神社の鳥居と社殿
写真2
社殿 昭和26年築(戦災で全焼後の復興)
写真3 建震災復興記念碑全景
写真4 題額 建震災復興記念
写真5 鳥居の銘板
橘樹神社神楽講 大正14年6月吉辰建之
関東地震で鳥居も倒壊したと思われ、震災2年後に社殿に先立って建設されている
神奈川県神社庁ホームページ [参拝の栞]より
橘樹神社由緒略記
鎮座地 横浜市保土ヶ谷区天王町一丁目八番地十二号 旧町名 神奈川県橘樹郡帷子町字川岸三八四番地 (昭和二年 横浜市に編入されて現在の町名になる)
祭神 素盞男尊 天照大神の御弟 御神性勇武に座します故の御名で疫病祓除の神である
由緒概要 当神社は、文治二年 (約八百年前)、源頼朝公天下の平和を賀し国中の大小の神祇に奉幣し祭祀の典を行った時の創建とつたえられる。即ち京都祇園社 (現在の八坂神社) の御分霊を勧請奉祀した。故に当社も祇園社、牛頭天王社、天王宮、橘樹社等社名が変わり大正十年、正式に現在の社名となった。
境内地 二、六二一平方メ-トル (七九三坪) 社殿 文政十三年、改築せらる (大正十二年、関東大震災に倒潰) 昭和四年、復興。 神明総欅造り 屋根銅板葺 (昭和二十年四月十五日 空襲による戦災の為全焼) 昭和二十六年、 復興。 現在に至る。
境内末社 神明社 天照大神 稲荷大神 猿田彦大神をまつる
神田不動尊 庚申塔三基 明和元年 二〇〇年前。 寛文九年 三〇〇年前。 天和二年 三〇〇年前
主要建物 神楽殿 昭和三十六年 新築 二十坪。 手水舎 昭和三十六年 新築。 社務所 昭和四十四年 新築 五十五坪
主要石造物 鳥居 鉄筋コンクリ-ト造 大正十四年建立。 鳥居 小松石造宝暦七年「帷子町氏子中」の彫あり 二三〇年前。 玉垣 明治十七年 築造。 明治天皇東幸遺蹟碑 明治天皇東幸の節 境内を浄地とし内侍所を奉安したのでこの記念碑が建立せらる。復興記念碑 昭和四年復興の節建立。 石盥盤 小松石造 延宝六年の彫あり 三〇〇年前のもの。 狛犬 一対 小松石造 嘉永五年奉納 一二〇年前。 燈籠 一対 紀元二千六百年記念として建立。
祭事歴 一月一日 歳旦祭 初詣。 二月 節分祭。 六月中旬 例大祭。 十一月十五日 七五三祝。
氏子区域 天王町 宮田町 岩間町 帷子町 鎌谷町 峰岡町 川辺町 和田町 常磐台 峰沢町 岡沢町 釜台町
以上
鳥居をくぐって右側を向くと、高さ3m以上ある大きな建震災復興記念碑が目に入ります(写真3参照)。[参拝の栞]にも「復興記念碑 昭和四年復興の節建立。」とあります。建震災復興記念碑の右側の社は神明社で天照大神が祀られています。
碑文は漢文で、橘樹神社の由緒や歴史が刻まれています。その概要は、
などです。
写真6
建震災復興記念碑の背面の破損状況
撮影:2015/3
関東大震災後に復興した社殿は、昭和20年4月15日の空襲で全焼しました。現在の社殿は昭和26年に復興したものです。
なお、昭和20年4月15日の空襲とは川崎市、横浜市鶴見区・神奈川区・保土ケ谷区・磯子区・中区が被害地となった空襲で、972名の人々が犠牲となりました。横浜大空襲と呼ばれるのは同年5月29日の空襲であり、3787名の犠牲者がでました。(神奈川県下の空襲被害状況 横浜市 による 原典は神奈川県警察史( 中巻))
復興記念碑の背面(写真6参照)は表面が損傷して剥落し、亀裂は正面まで達しています。空襲による破損でしょうか。