田原の里 カルタウォーク 下田原コース
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散策コース約2時間) |
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1 四條畷市立田原中学校 校門前出発 カルタの句 『 田原っ子 カルタ遊びで 郷土知る 』 田原中学校は、平成3年(1991)4月、四條畷中学校から分離して新設開校。生徒数70名(各学年1学級)でスタートする。 10周年記念石碑『空心の石』 まるくなれ まるくなれ まるいこころが 窓をあけて まるい空がみえる
田原中学校西側裏門の山 (階段を登りつめたところ) カルタの句 『 ほうじさし 竹くいでたしかめる 村さかい 』 毎年1月11日に「ほうじさし」という行事がある。 まず最初に竹くいをさすのが、田原中の裏山からで、上・下田原2本ずつさしていく。その場所を「ほうじ坪」という。 室池まで10ヶ所行くと上田原の人は、南野、中垣内、生 駒(南田原)の境界に、下田原の人は逢坂、交野(星田)、私市の境界40ヶ所に1本ずつ打ち込んでいく。 カルタの句 『 西田原 慶安に上・下の 両村となる 』 小松寺縁起帳(久安元年1145)に、「田原西郷、田原東郷」とあるので、平安期には、天野川を境に大和田原、河内田原に分かれていたようだ。市史に、「慶安2年(1649)、大坂町奉行曽我丹波守の再検地を受けて、西田原村は600石の村高となる。2年後には上・下田原村に分村され、上田原村273石余、下田原325石余となり、それぞれ村方三役をおく独立村落となった。分村されても、両村立会住吉神社のもとに結合して、一体感を保ちつつ、泰平の江戸期へと入っていく。」とある。両村は天野川上流を上田原、下流を下田原とし、境界は、農協あたりから西へ、室池の東堤を結ぶ山の尾根。この境界を確かめるため、「ほうじさし」という伝統行事が今日まで続いているようだ。 |
石切場 |
「緑と石と水」の街・田原 |
2 戎公園 カルタの句 『 戎川 公園のみどりは 街の色 』 戎川は、堂尾池水と薬尾寺池水が合流し、国道163号線沿いの寒谷川とも合流して後、旧清滝街道沿いに流れ、天野川に注ぐ。田原小学校の北側にある戎公園、そこにモダンな石の彫刻がある。「田原の里」を紹介する文章が彫られている。「田原の里は標高150mの盆地です。清瀧峠を通る逢坂越えで河内と大和を結ぶ清瀧街道に臨み、磐船街道で交野、枚方に通じています。神話伝説に彩られた生駒山や、南北朝の合戦の舞台のひとつ、四條畷にも近く縄文、弥生期から鎌倉期の出土遺跡や朝廷に氷を貢納した古代の『讃良氷室』ゆかりの室池、三好長慶に属した土豪田原氏の居城跡もあり、自然と歴史に恵まれた所です。」田原の“街のシンボル塔”のようなものである。関西文化学術都市として、「緑と石と水」の創造的な街である。その緑を大切にしたい。 カルタの句 『 街の中 水の流れに 石の彫り 』 田原は、山ふところに抱かれた静かな山里。平成2年(1990)5月に住宅・都市整備公団が進めたニュータウン(1万人都市計画)が街開きされた。「緑と石と水」の融合した、創造的な街づくりをめざしている。街の通りや公園などに石の彫刻がいたるところにある。かつては多くの石切り場もあった。開発の工事中に土の中から転石が多く出土した。それを利用した石組が公園や通りのいたるところにある。また、水の流れも街の中に生かしている。田原の井戸水はおいしく、ふんだんに湧き出ている。生駒山東斜面のしたたり水をあつめ、水系を整える天野川の上流でもある。 カルタの句 『 いまむかし 南遊紀行の 桃源郷 』 貝原益軒が、元禄二年六十歳のとき、天野川沿いに交野、磐船より田原に旅して、田原の里を紀行文『南遊紀行』に“・・・恰も陶淵明が桃花源記にかけるが如し。・・・”と書いている。田原は、理想郷として先人たちの楽園であった。このすばらしいところが開発事業によって、ニュータウンができた。かつての理想郷を今によみがえらせることが住んでいる者の務めであると思う。その願いを込めて、この句を田原のシンボルである戎公園の石塔に捧げる。 田原遺跡 旧石器時代の細石器(尖頭器)や縄文早期の押型文土器、貝殻条痕文土器の出土。 |
歴史民俗資料館 |
堂尾池・薬尾寺池 カルタの句 『生きものと ふれあう田原 ビオトープ 』 下田原の堂尾池周辺、薬尾寺池周辺を「いきものとふれあう、自然な空間づくり」ビオトープができた。農業用ため池の機能を確保しながら、生物生息環境の保全と回復、身近な自然とふれあえる空間がある。 |
堂尾池 |
薬尾寺池 |
3 寒谷川 (下田原交差点) 飯盛霊園 |
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カルタの句 |
小松寺跡 和田賢秀の墓→ |
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室池 |
ゴルフ場から清滝峠 (こちらの方は時間がかかるのでコースから外します。) カルタの句 『 開山の 小松寺縁起に 田原郷 』 『続群書類従・河内国小松寺縁起』によると、「当初、荒山寺と称した。元明天皇の和銅5年(712)、田原郷の住人宇紀八の子若石丸(13歳)、宗次郎の子熊王丸(11歳)、中四郎の子松若丸(17歳)の3人がこの山に遊び、方5尺の草堂をつくったのが開山の始まりである。」とある。また、「延長3年(925)、小松寺と称する。秦の姉子(40歳)なる人が、亡夫の小松景光供養のために、七間四面の堂一宇を建てた。そのため荒山寺改まつて、以後、小松寺と称するにいたる。」秦氏は古代の有力渡来系氏族。小松寺の宗旨は真言宗。金堂の本尊は弥勒菩薩。根本草堂には十一面観音を祀り、広大な規模であった。「保延5年(1139)の再建にあっては、近郊農村たる田原・大坂(逢坂)・甲可(四條畷)・星田等荘官級有力農民が募金、寄進をしている。」 出土の瓦は、平安から鎌倉期のものが主であるところから、小松寺は鎌倉期までは盛大をきわめたものとおもわれている。戦国期には、山城化した小松寺を小松城とよんだそうだ。この地に星田・水本・田原・四條畷・四条・住道の六ヶ村組合立の北河内郡公立飯盛青年学校ができた。戦後旧田原中学校が、この校舎を借りて開校した。あまりの寒さに、その年度内に移転した。 カルタの句 『 賢秀の 小松寺にもねむる 光背五輪塔 』 楠正行(くすのきまさつら)の家臣和田賢秀(源秀)の墓である。南野の「塚脇」の墓石は、高さ1m20cm幅40cmほどの位牌型で、江戸末期の天保2年(1831)の建立となっている。正面に「和田源秀戦死墓」裏面「むかし問へはすすき尾花のあらし吹く 天保二年九月 浪華 永田友之誌」とある。ここの字名は薬師といわれ、村の人は歯神さんとして信仰していた。下田原(ゴルフ場の中)の墓石は、舟型光背の一石に五輪塔を陽刻したもので、表に「和田賢秀之墓」とかすかに読み取れる。高さ1m幅35cm。賢秀の菩提を弔うために、小松寺にも建立したのだろう。 カルタの句 『 室池の 氷をたくわえ 都ゆき 』 四條畷郷土史カルタ復刻版カルタの立て札設置 『延喜式』(920年)に「讃良郡氷室一処(さららのこおりひむろひとところ)」とあり、室池は、江戸期まで氷室池(ひむろいけ)と呼ばれていた。氷室とは、氷を貯えるところをいう。山深く夏でもひんやりとしており、冬の間に池の氷を切り出し、「室(むろ)」に貯蔵する。それを夏になって取り出し、宮廷に献上した。標高約272mにある室池は、砂溜池、中池、古池、新池からなっている。面積は、17ヘクタールある。 四條畷市歌の2番に「まんまんと 水をたたえる 室池の 生命のしずく 糧として 未来のちから たくわえる」とうたったのは、四條畷の上水源の大部分を賄っていたからである。ところが、平成10年4月からは淀川の水に切り換えられたので、室池は使わなくなった。 さぎそうは、高さ30〜40センチ、先に1〜4の花をつけ、色は純白で優美、純潔な感じをあたえる。花の容姿が白鷺に似ているのでさぎそうの花と名づけられる。現在は観賞用にも栽培されるが、本来は山野の湿地帯に自生する夏の花で室池の周辺で多く自生している。 四條畷郷土史カルタ復刻版カルタの立て札設置 |
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4 天満宮 ふとん太鼓 砂絵 |
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大師堂 西国三十三ヵ所巡礼碑 |
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「耳無地蔵尊 是より壱丁北へ」の石碑。 |
法元寺 |
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6 法元寺 耳なし地蔵
カルタの句 『 わが里の 育英の発祥 法元寺 』 |
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7 虫よけ地蔵 カルタの句 『 健やかに 育てとねがう 虫よけ地藏 』 地蔵さんの普通の形は、左手に宝珠(ほうしゅ)、右手に錫杖(しゃくじょう)をもち、頭は丸坊主,袈裟(けさ)と衣の僧侶の姿。地蔵は死後の世界にかかわる菩薩。生前の世界には、あらゆる庶民の悩みを聞いてくださる仏さん。地蔵信仰は鎌倉期以降、庶民に密着したのが江戸期が最高潮。虫よけ地蔵は、幼いこどもの健康をねがい、親の気持ちを癒している。田原城跡のところには,夜泣き地蔵がある。 8 羽衣橋 カルタの句 『 羽衣橋 川に浴する天女と 結ばれる 』 「天の川」の地名は、日本地名大辞典によると、「昔仙女あり、この川に浴せしがその羽衣を少年にかくされる。依って留りて少年と共に夫婦になり、年を経て天に帰る。故に天の川と號する。」とある。ここに「羽衣伝説」のロマンを創ったのだろう。 天野川 七夕(棚機) 7月7日 牽牛星(けんぎゅうせい・ひこぼし)と織女星(しょくじょせい・おりひめ)の話。交野の「逢合橋」、枚方の「かささぎ橋」 9 磐船神社 祭神は饒速日命。天の磐船(あめのいわふね)に乗って降臨。岩座信仰(縄文から弥生) カルタの句 『 物語る 磐船神社の たけるの峯 』 饒速日命(にぎはやひこのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)の命をうけて、天(あめ)の磐船に乗って河内哮(たける)が峰に天降ったという話がある。近くに磐船神社があって、巨大な船型の岩がある。饒速日命は、生駒東方鳥見(とみ)の地方<首長は大和一帯を治めていた豪族・長髄彦(ながすねひこ)>に勢力をのばしていた。その子孫が物部(もののべ)氏で、田原一帯から磐船の渓谷、天野川をくだって交野・枚方地方へ稲作文化をひろげていった。物部氏の伝承として、その祖先が渡来の使った天の磐樟船を思い出させるような巨岩を見たとき、当時の巨岩崇拝の思想から祖先が乗ってきた船だと信じてきた。そして、ここが一族の聖地と崇められるようになった。したがって、その後磐船神社は農耕文化によって開けていく天野川周辺の村々の総社であり、村々の氏神の祭神は、いずれも饒速日命である。 天孫降臨の神話は、『古事記』『日本書紀』。物部氏の始祖伝説は、『先代旧事本紀』(『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』の文章を引用し、つづりあわせたもの)。 天孫とは天照大神の孫。饒速日命と瓊瓊杵命(ににぎのみこと・天皇家の祖・九州の高千穂に降臨) 石碑「登美毘古大神」 登美毘古(とみびこ)は長髄彦で鳥見地方の首長。降臨した饒速日命の妻に妹(登美夜毘売トミヤヒメ)をさしだし臣従する。神武天皇の東征にあたっては戦いに挑む。饒速日命の手によって殺される。饒速日命と登美夜毘売との間にできた子(可美真手ウマシマデ)が、物部氏の祖にあたる。 |
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10 高橋・道しるべ(国境碑) |
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12 照涌(てるわき)の共同井戸
カルタの句 『 追善供養 生前に祈る 二基の十三仏 』 |
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15 自彊館跡 田原育英の地 大とんど お月見どろぼう カルタの句 『 旧田原中 かたみの講堂 自彊館 』 昭和22年(1947)4月、新学制発足により開校した田原村立田原中学校は、昭和41年(1966)7月に四條畷中学校に統合され、田原分校となり、29日、田原分教場と改名された。昭和42年3月終業式と同時に閉校となった。生徒は、4月からバスで四條畷中学校へ通うようになった。閉校にともない旧田原中学校の講堂内の図書室を記念館として残し、自彊館(じきょうかん)と名付けた。その後JA大阪東部の倉庫になり、花卉センターになったが、平成13年に壊されてしまった。ここに、「自彊館」と書いた看板が数年前までかかっていたが、今はどこに行ったかわからない。もしあれば、新たに平成3年に開校した田原中学校の図書室にかかげたいが、無理なので、ある人から「自彊館」と書いてもらって額装した。下の写真は田原中創立10周年記念として、図書室にかかげている。 花卉センターが、新しく郷蔵跡地に移転し、「自彊館跡」は完全になくなる。田原小学校跡地であり、旧田原中学校跡地でもあったところに、その面影を残すため、「田原育英の地」という石碑が建てられた。 カルタの句 『 宵越しの 日待ちのあさ 大とんど 』 小正月(1月15日)朝とんどといって大きな規模のとんどを行う。これは、宵とんど(1月6日)に対してである。正月に用いた注連縄(しめなわ)や門松など集めて、太い青竹を三角形に上に尖らせて組み、とんどの芯をつくる。大とんどは、高さ10数メートル、周りを藁で包み直立する。この作業を14日に準備し、お日待ち(前夜から寝ずに日の出を待って拝むこと)をする。(大とんどはお日さまへの献灯だともいわれている。)とんどが燃えさかると、腕が上達するといって子どもたちが書き初めを投げ込んだり、針仕事が上達するといって縫い刺しの布を投げたり、あかぎれができないようにと祈って古い足袋を投げ込んだりする。また、残り火で餅を焼いて食べると病気にならないといい、焼け残りの竹を便所に入れておくと泥棒が入らないともいわれている。なお、この残り火を小正月の小豆粥(あずきがゆ)の種火にする。「とんど」とは、竹のはじく音に由来するとも、「尊い」から転じたともいわれている。 カルタの句 『 のんびりと 月見の晩に だんごとり 』 仲秋の名月には、すすき・萩・かるかやの花を花瓶にさして、その側に団子と芋といんげんなどを煮たものを供える。月に芋を供えるところから芋名月ともいう。この日だけは、村の若い衆が、お供えを棒の先で突きさして盗んでも許されるという「お月見どろぼう」の風習がある。突きさして盗ると「良い縁」がととのうといい、また「福が来る」といわれている。月の光で針の穴に糸を通したら、北向きの川で眼を洗うと、一年間健康な眼で暮らせるともいわれている。 現在、田原地区では、「お月見どろぼう」のかわりとして、お月見に子どもたちにお菓子などをプレゼントしているところがある。それをいただきに各家庭をまわっている。子どもたちの年に一度の楽しみの行事である。 |
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